命は午後に眠る




 ジョルノ・ジョバァーナの死はネアポリスの街角に静かに染みた。もうすぐ冬がやってくるという日の午後で、曇り空は白く乾いていた。一人の老人がゆっくりとした足取りで沈黙した屋敷から出てくる。
 パンナコッタ・フーゴはパッショーネの屋敷を取り囲む厚い塀の外側、鋼鉄の門扉の前に腰掛け煙草をのんでいた。足下には黒い影が蹲っていた。遠目には石かなにかのようだったが、それは分厚く年深い甲羅がそのように見えるのだった。一匹の亀だった。
 ポルナレフ。白い煙と共にフーゴはその名を吐き出した。そしてその名を呼びながら自分が生きていることを不思議に思った。生きながらえたのは自分だった、と。煙草を持つ手指に震えがないのは老いのもたらす疲労か、虚脱だろうか。冷たい門扉にもたれかかり空を見上げれば、紫煙がそのまま雲を作り出したかのようだ。目がかすむ。
「ポルナレフ」
「ああ」
 かつては自分より歳を重ね重く聞こえた声がこんなにも若々しく感じる。ポルナレフの時間は魂を亀に縫い留められたときで止まっている。
 幽霊は亀の甲羅に埋め込まれた鍵の宝石から半身を出し、フーゴを見上げていた。
「あれを見ましたか」
「見たよ」
「最初に見つけたのはあなただったのでは?」
「何故かね…」
 疑問符は自信なさげに消え、どうだかなあ、とポルナレフも空を見上げる。
「誰もが見た。誰もが見たさ。君だってそうだろう。ネアポリス中の人間が見た」
 花がしおれるのを、木の枝が枯れるのを。鳥が囀ることをやめ、昆虫たちが姿を消すのを。そこに残ったのは灰、石、炭とも鉱物ともつかない何か。色彩を失ったものたち。空き缶をその幹に生やした街路樹もあった。空き瓶の並ぶ花壇もあった。
 命が失われるのを人々は見たのだった。そして日常の中で自分たちを守るように暖かく包んでくれていた命が何者であったか、それがどんな力であったかを知るのだった。それは噂に伝え聞くパッショーネのボスの力。今では側近ですらその姿を見た者はいないという、ジョジョの。
 フーゴは飼っていた猫の姿が朝から見えないので胸騒ぎを覚えた。根城にしているホテルの路地裏、暗く湿った石畳の上に粉々に砕かれたペリエの瓶があった。その緑色の破片の輝きが翳るのを見て、フーゴは老体に鞭打ち屋敷へ走り出した。タクシーを拾うことさえ思いつかなかった。正午にかかり、空は曇り始めていた。
「トリッシュも見たんですか」
「彼女自身が望んだのさ」
 君も見た、とポルナレフは呟く。フーゴは黙って紫煙をのんだ。彼もまた望んで見た。命の、そして魂の恩人であるジョルノを、全てを懸け全てを捧げると誓ったジョジョの最後の姿を見たいと思ったからだ。
「後悔したか?」
 ポルナレフの問いにフーゴは考え込む。
 自分も遠からず天に召されるだろう(神が許してくれるならば)。煙草を持つ手は痩せ、乾いていた。手の甲に走る皺、浮き出た静脈。髪の色も褪せた。目覚めの匂いからも老いを感じる。舌で上顎を押すと歯がぐらついていた。これを白い元通りの歯にしてくれたのもジョルノの能力だった。夕食を待たずに抜けるだろう。自分よりも少し早くジョルノの後を追う、歯。
 だがしかし自分の肉体は死体として残るのだ。人の形をした骨と肉の塊として。
 フーゴが見たのはジョルノの部屋の床、点々と続く土の足跡だった。ベッドの上にはジョルノの服が寝ていた。裾からは瓦礫の小さな欠片がぱらぱらとこぼれ落ちていた。右手の袖口がわずかに膨らんでいた。いつか食器棚からなくなったグラスが右手のようにそこにあった。フーゴは遠い昔、厨房で見た光景を思い出す。食器棚に触れていたジョルノの右手には手首から先がなかった。
 紫煙を吐き出し、少し 笑う。
「後悔を?」
 吸い殻を爪先で揉み消し、首を振る。
「していませんよ。僕はジョルノ・ジョバァーナがどういう人間か、彼が組織に入った時から間近で見てきた一人なんです」
 今更驚きなんざするもんか。頬杖をつき、ゆるく瞼を伏せる。
 足跡が向かった先はベッドだった。フーゴは自分の首をベッドに乗せ、傾けてみた。瓦礫の向こうにキャビネットが見えた。写真立てには若い彼らの姿があった。トリッシュに出会う直前のこと、船を背に港で撮った写真だ。
 お前も人間だったのか、ジョジョ。魂が天に召されて後は自らの肉体さえ残らない君も、胸に抱く思い出が確かにあったのか。
 新しい煙草に火を点け、フーゴは静かな通りを眺める。既に街中が喪に服しているような静けさだ。
「そろそろトリッシュも泣き止んだかな」
「泣いている女性の側についていないとは、薄情な男だ」
「あなたもでしょう」
「亀にキスをするわけにもいくまい。それに彼女は…」
「潔癖症だと? ポルナレフ、僕らは何十年の付き合いだと思ってるんです」
 フーゴは両手で亀を抱え上げ、目の前に来た亀の首とポルナレフの姿に向かってそよ風のように煙を吹きつけた。亀が静かに目を瞑る。ポルナレフは咳をした。
「煙たいんですか?」
「亀が煙たけりゃオレも煙たい」
「失礼」
 フーゴは煙草を捨てると、これも煙たいかもしれませんがね、と亀の鼻先にキスをした。
「トリッシュなら大丈夫ですよ。彼女も強い人だし、隣にはミスタがついてます」
 ポルナレフが指で来い来いとジェスチャーをした。
「お前にもキスが必要か?」
「爺さんですよ、僕は」
「あのな、大事なのは愛なんだぜ?」
 頬を近づけると幽霊のポルナレフが触れ得るはずもない唇を近づける。ひやりとした風が触れたようだった。
「メルシィ・ボークー」
「プレーゴ」
 互いの国の言葉で言い合いながら微笑が漏れた。疲れがゆっくりと溶け出す。
「行きましょうか」
 フーゴは亀を抱えて立ち上がった。
 石畳の上に捨てられた煙草がそのままであることに、再び彼の不在を実感した。ジョルノは時折戯れに命を作り出したのだ。フーゴの煙草はトンボや青虫に姿を変えた。そのトンボの子孫が、青虫の卵が、ネアポリスの灰色の景色の中で枯れた煙草の葉となり沈んでいるのか。
「見ろよ」
 亀が首を振ってフーゴの腕に触れ、促した。
 鋼鉄の門扉の脇に首のすらりとした花瓶が据えられている。否、置き捨てられているのか。
「ガレだ」
 深い紅の地に金色のエナメル質の茎が伸びている。
「誰が」
「勿論、ジョルノさ」
「ああ」
 ここには小さな野バラが生えていたのだ。
「そうだった」
 重たい扉を開くと並ぶペリエの瓶が屋敷までの道を作っていた。



2013.7.8