君も沈んだ波の中、君と走った風の中




under the sound of wave

「ブォナノッテ」
 確かに耳の奥には聞こえたのだ。ぼくが眠っていると思って囁かれる言葉。彼の国の言葉。おやすみのあいさつ。もう寝てたよジャイロ。君が囁くから目が覚めたんだ。だからもう一度…。
 もう一度その声が聞きたくて瞼を開く。身体がぐらりと揺れた。闇の中でぼくはまばたきをする。何も見えない。月の光も、星明かりさえない。
 ねっとりとした重い質量の闇の正体は、夜の海だった。船室の、閉じ込められたような闇。ぼくはまたまばたきをし、首を巡らせる。ここが大西洋を渡る船の中だと、もう頭では分かっている。それでも夢の気配を引き摺った心がその首を動かして、目玉をきょろきょろと動かして探させた。囁き声の主を。おやすみと囁いたジャイロを。
 半身を起こしてみるが引き寄せる腕も、眠りを邪魔されてぶつくさいう声も聞こえない。聞こえるのは波の音だけだ。ベッドは手を伸ばせばはみ出すほど狭い。
 口をつきかけた溜息を、ぼくは飲み込んだ。身体はまたシーツの上に倒れ込む。ぼくの体温を残すシーツ。その上に手を滑らせる。枕元で、それは指先に触れる。鉄球は波に揺れるベッドから落ちることもなく、いつも枕元にある。
 指先から掌へ。手の中に鉄球を包み込む。
 耳の奥で何かの揺れる音が聞こえる。何だろう。波の揺れる音じゃない。鋼鉄の触れ合うような、ベルのような。遠くに聞こえた機関車の音。草原の中で回る風車。鈴のような。タスクの身体が揺れる。次元を超えて聞こえる音。リン、リン。
 ぼくは瞼を開く。掌の中に鉄球がある。まどろみの中で考えていた他愛もないことどもが霧消する。
 夜だ。洋上の夜。これからぼくが慣れなければならない、独りの夜。君のいない夜。
 だけど、どうしてだろう。今は悲しくない。夜中急に目覚めて、君がいないことを思い知ったばかりなのに、何故だかあたたかな気持ちだ。
 知っている。真夜中にぼくを起こしたのは君の声だ。大陸のどこかで君がぼくを起こした声が、今でもぼくの中に残っていて、魔法のように君を蘇らせる。
 ぼくは鉄球を枕元に置き、静かに手を滑らせる。掌から指へ、指先へ。そして離れる、その時に。
「おやすみ、ジャイロ」
 ぼくが囁くのだ。
 愛しいよ、ジャイロ。君との思い出、君の教え、君と見た空、死線の上にあっても君と見た波の飛沫、誰にも聞こえないように枕に呟く君の名前、どれも愛しい。
 ブォナノッテ、と彼の声を真似る。似ていない。独りだな、と思うけれど、寂しさは滲み出す前に眠りの中に溶けた。
 おやすみ、愛しい人。この海の上で眠ると、ぼくは君と永遠を漂っているみたいだ。



in the wind with you

 海からの強い風が髪をなぶる。服の裾が旗のように音を立てる。世界中に吹く風の中でも、この風は一際懐かしい。日射しが熱く、目を細めると周囲の景色がぼやけて記憶の中のそれと馴染んだ。懐かしさの中に帰ってきた。
 タラップを下りて港の土を踏み、ぼくは腕を広げてもう一度身体中に熱い風を受けとめた。背後で小さく笑う声がする。振り向くと黒髪の小柄な女性が慣れぬ洋装と強い風に翻弄されながらも、ぼくの姿を見て笑っている。
「おいで、理那」
 荷物を持とうとしてスカートから手を離した理那が暴れる布に四苦八苦する。今度はぼくが笑って理那の側に寄り鞄を持った。
「行こう。迎えが来ているはずなんだ」
 港はそこここで再会の喜びにあふれている。ぼくはその中に見知った姿を探そうとした。
 だけどまず聞こえたのは足音。蹄の音だ。
「ジョニィ!」
 大きくぼくの名を呼ぶ声。皆が振り向く。ぼくは手を翳してその方向を見る。港の大きな通りを馬が駆けてくる。
 間違いない、彼女だ。
「ルーシー!」
 ぼくも腕を挙げ、それから思い切り頬を緩めた。
 懐かしい蹄の音。この風の中で響くその音はずっとぼくの耳の中で鳴り続けていたのだ。
 馬が速度を落としゆっくりと近づく。少しかがみこんだルーシーの掌が馬の顔を撫でた。
「ジョニィよ」
 馬が分かっているとでも言うようにブルンと鼻を鳴らした。斑紋の毛並みも美しく整えられたアパルーサ。老いてはいるが足取りはしっかりとぼくを目指し、立ち止まる。
 ぼくは一歩、二歩と近づき両手で馬の首を抱いた。
「ただいま、スロー・ダンサー」
 スロー・ダンサーはぺろりとぼくの頬を舐め、また息を吐いた。まるで溜息みたいだ。
 騎上のルーシーが微笑み、馬を下りる。
「紹介をして、ジョニィ。彼女が?」
「ぼくの妻になる人、理那だ。理那、彼女がルーシー・スティール」
「初めまして」
 ルーシーが手を差し出すと理那はスカートから手が離れてしまうことを恐れながらもその手を握り、微笑んだ。
「はじめまして」
 声は小さいが言葉にたどたどしさはない。
「疲れたでしょう。部屋を用意させています。今夜はゆっくりして」
「世話になるね」
「命の恩人が帰ってきたんだもの」
 ルーシーはぼくの身体を軽く抱擁し、行きましょうと促した。
 スロー・ダンサーを連れて歩きながらぼくは、ふと海を振り返った。熱い風。目を細めると景色が変わる。潮の香り、波の音、ビーチの砂煙。
 ぼくが目を伏せ表情を隠したことを女たちは気づいている。

 夕食の後、理那は疲れているからと言って早々に部屋に戻ってしまい、レストランにはぼくとルーシーだけが残された。
「日本の女性は大人しいと聞いたけれど…確かにそうだけれど、優しい人ね」
「ああ」
 理那はいつもぼくの心を汲み取ってくれる。
「あなたにぴったり」
「どういう意味だい?」
「お似合いだと言ってるのよ。ジョニィ」
 ルーシーはグラスを置くと、ぼくの顔を正面から見た。
「本当に帰って来たのね」
「帰って来てほしくなかった?」
「いいえ。でも日本から手紙をもらった時、もう帰ってこないのではと思った。あなたを待ち続けるスロー・ダンサーを見ていると寂しかった」
 不思議ね、とルーシーは伏し目がちに呟く。
「辛いこと悲しいこと、死にそうになった記憶さえある。それなのにあの数ヶ月間を思い出すと私は時々切ない。あたしのために死んだ人もいた。あたしを殺そうとした人も。失った人の顔は今でも忘れられないけれど、…あなたとジャイロを思い出すと何故かいつもあなたたちは笑っていたような気がする。私は初対面の彼に怒られたこともあるのに、あの時は本当に怖かったのよ。それなのに…」
「ジャイロは故郷に帰ったよ」
「ええ」
 時の移ろいがゆっくりとサンディエゴの通りにも夜を運んでくる。通りを青い空気が満たす。空いた皿が下げられ、テーブルの上にはキャンドルとワインだけが残された。
「美味しいよ」
 ワインに口をつけ、ぼくは言った。
「君が選んだの?」
「まだよく分からない。夫がレストランの支配人に頼んだんだわ」
「乾杯を…したことがある。雪の日だったよ」
「美味しいワインだったの?」
「安物だった」
 しかし忘れられないものを思い出すぼくの目は、あれ以上のものはなかったと正直に告げる。全てを差し出し全てを失い、身体一つで雪の上にしゃがみこんでいたあの乾杯が。
「いつでも、何を見ても思い出すし、忘れるなんてことはないんだ。でも、いつでも一緒にいるような気がする」
「嫉妬されない?」
「どっちに?」
 二人で笑いあい、もう一度乾杯をした。
 いたずらっぽく笑っていたルーシーが、不意に落ち着いた目でぼくを見た。
「ジョニィ、あなたが愛する人を見つけたことを喜ばしく思う」
「ありがとう」
「きっとジャイロもよ」
 ルーシー・スティールにはそう言う資格があった。だからぼくはまるでジャイロからその言葉を聞いたように微笑み、俯いた。
「ありがとう」
 ルーシーの指先が頭に触れた。
「歩いて、ジョニィ」
「ああ」
「前へ進んで、ジョニィ」
「ああ…」
「GO、ジョニィ、GO……」
 真の祝福だった。ぼくは俯いたまま瞳を潤ませた。涙が一つ、二つ、テーブルクロスに染みを作った。

 サンディエゴにはしばらく滞在した。その間にスロー・ダンサーは随分理那になついた。
「ウマが合うのよ」
「馬だけに、とか?ルーシー、アイツじゃあるまいし」
「スロー・ダンサーも彼女も、あなたのことが好きなの」
 街も随分開発が進んだ。あの時スターティンググリッドが延々と続いていたビーチにも建物が並んでいる。だが。
 ぼくは腕を広げ、全身に風を受ける。
「熱いな」
「ええ」
「メキシコから吹く偏西風だ。君は知っている?」
「私はスティールの妻。私もあの場にいたのよ。あなたたちのゴールを目の前で目撃したわ」
 サンタアナ。
 口を揃えて言う。ぼくらは鏡写しのように笑う。
「ジョニィさん!」
 スロー・ダンサーの上から理那が呼ぶ。ぼくは大きく手を振り返す。
「またここから歩き始めるよ」
「頑張って」
「ありがとう、ルーシー」
 ぼくもルーシーの額にそっと接吻を返した。
 風の音が響く。記憶のない海から打ち寄せる波が鼓膜を震わす。砂煙。熱い陽光。
 その中に自分を見つめる穏やかな眼差しひとつ。
「ルーシー、もうひとつ受け取って」
 もうひとつの祝福は、ジャイロの分だった。



2013.7.4