イズ・ユー・イズ・オア・イズ・ユー・エイント・マイ・ベイビー 1
おたくが美人だと困る。おたくがいないと困る。何かにつけて困っている。 ジャイロ・ツェペリはイタリア出身だがサンディエゴの大病院のERで働く医者であり、その過去は謎に包まれている。噂は尽きない。気さくで面倒見がよく顔もスタイルもいいから彼の治療を受けた患者だけでなく、他棟の看護婦からも人気だ。しかし患者が逆接の接続詞と共に苦笑し、独身の看護婦でさえ今一歩踏み込んだ関係に至らないのはそのギャグセンスと週末のコーヒーショップで披露する歌に誰もついていけないからで、出会った当初から今まで態度を変えずにいるのはオーナーの婚約者であるルーシーと隣の教会づきのシスター、ホット・パンツだけだ。前者は未来を誓い合った夫を裏切ることなど天地がひっくり返ってもしないような聖女であるし、後者はシスターと呼ぶには無愛想で自分が女であること相手が男であることの隔てなく接するだけのことだった。が、浮いた話が皆無という訳ではない。色男だ。一夜の噂は一週間かそこら流れ、自然と消える。そしてまた新しい噂。病院の待合室はゴシップ記事の更新が早い。 ジャイロは今日も一人アパートに帰り、一人眠る。この部屋に女を連れ込んだことはない。寝るのはいつも病院のどこかか女の部屋だ。シャツを洗濯機に放り込み何も考えずにスイッチを押す。ERは戦場だ。今日も疲労していた。広すぎるベッドがジャイロを迎える。シーツがひんやりと冷えている。その波間に手を伸ばし、溜息をつく。 ベッドは前の住人が残したものだった。組み立てたが最後、引っ越す時にはドアからも窓からも出すことができなかった。黒いレザーのシーツは捨て白いシーツを敷いた。白い波間に一人であることを寂しいと感じたことがない。自由だ。 だがその夜、ダイニングに鎮座するクマちゃんをベッドに引きずり込んだのは、致し方ないことだった。 「よぉ、聞くか、オレの自慢話」 すっかり古くなりぐったりと横たわるぬいぐるみの背を撫でながら語りかける。 「いつか話したろ。あいつだ。あの坊やさ」 九月のある早い朝、交差点で松葉杖の少年を轢きかけたことをジャイロは覚えていた。片方の松葉杖だけでバランス悪く歩いていた。どうかと思ったが目の前で転んだ。ブレーキを踏むのが遅れたのは謝る、内心。だがそれ以上に驚いてしまった。転びながら少年は笑っていた。半ば自棄のようにも見えたが、たまらない喜びが目元から溢れていた。ジャイロの頭の中では何かがバチバチと火花を上げた。立ち上がった少年はパドックを進む馬のように堂々と、自分が歩いていることを見せつけるかのように横断歩道を渡りきり、大声で笑った。はち切れそうな風船を針でつついて割って溢れ出したかのような笑いだった。ジャイロはすぐさま車をUターンさせて(ここでもまた交差点はクラクションの嵐となった)少年の横につけた。 「おいあんた、乗ってくか?」 もしもそこで少年が助手席に乗り込んだならば自分はどうしただろうか。おとなしく病院に出勤したとは思えなかった。どこか遠くへ行ったに違いない。スピードのままに砂漠の向こう、どこかへ。 初対面からそこそこ気に入っていたのだろう。今夜ギターを抱えて訪れたコーヒーショップでの偶然の再会をジャイロは面白がり、コーヒーショップを出る頃には心から感謝した。 厨房から出てきた少年は両手もエプロンも泡と湯に濡れていた。ジャイロは気持ち良く一曲目が終わったところで、少年が拍手でもしに来たのかと思った。 「あんた、この前の…」 少年も自分の顔には見覚えがあったらしく目を丸くする。 「おたく、ここのバイトだったのか」 気さくに笑いかけたジャイロを少年は睨みつけた。 「あんただったんだな、先週のあの歌、レラレラゾラゾラってチーズの名前を繰り返す…」 「おっ、気に入った?センスあるねえ」 「じゃなくて、あれのせいで僕は皿を…」 「じゃあリクエストにお応えして」 「聞けよ!」 チーズの歌のイントロが流れ出すと常連の何人かがまたかという顔で溜息をつく。少年は恐い顔をして佇んでいたが、足がギターに合わせてリズムを取っていた。歌い出すとサビの繰り返しについてくる。盛り上がりどころも分かっている。そんな観客は今までいなかった! ジャイロはギターを弾く合間に自分の隣を叩いた。少年は口の形だけで、はあ?と聞き返し顔を歪める。その後五回ほどもチーズの歌を繰り返すと、メロディが耳にこびりついて離れなくなったらしい少年が観念して自分の隣に座った。サビで促すとコーラスに乗ってくる。 歌が終わると店内からは疲れたような拍手がまばらに投げて寄越された。隣の少年もぐったりと項垂れて溜息をついた。 「悪かったな、仕事の邪魔をして」 「は?」 眉間に皺を寄せ唇をひん曲げ実に不機嫌そうな顔がこちらを向く。するとカウンターの中から店主が「ジョニィ!」と叫んだ。 「ジョニィ?」 「ジョニィ・ジョースター」 「ジャイロ・ツェペリだ」 自己紹介だけ交わして少年の後ろ姿は薄暗い厨房に消えた。しばらくして聞こえて来たのは皿を洗う音だ。しかし鼻歌を歌っている。 ジャイロは店主に尋ねた。 「いつ入ったんだ?」 「今月の初めかな」 「学生?」 「じゃあない」 明日土曜も来ると言って店を出た。厨房まで届いたかは分からない。 「スゲーだろ。オレの歌についてきたヤツは初めてだぜ?名前はジョニィ・ジョースター。ジョニィ・ジョースターだ」 ぬいぐるみのクマは虚ろな目と曖昧な笑みを浮かべるだけだ。ジャイロが頭を押さえてやってようやく頷いた。 「明日もいるかなあ、アイツ」 ジャイロは目を閉じる。瞼の裏にはジョニィ・ジョースターの跳ねた髪、嫌そうにこちらを見るくせに綺麗に澄んだ水色の瞳、そしてリズムを踏む足が思い出された。リズムを重ねる。熱がじんわりと手足に移って眠気を誘った。眠りに落ちるまでもう一回と頭の中でチーズの歌を繰り返した。 翌日、ジョニィはつかまらなかった。無断欠勤だと店主が怒っていた。しかし次の週はつかまえることができた。皿を割るのは何度目だと店主に怒られているところだった。 「借りるぜ」 腕を伸ばしてフードを掴み、カウンターからジョニィを引っ張り出す。 「あんた、ジャイロ・ツェペリ…」 「覚えてたか、ジョニィ・ジョースター」 ジョニィは唇を突き出しちょっと嫌そうな顔を作るが、店主の説教から逃れることができてこれ幸いの感もある。結局自分からジャイロの隣に座り、ん、ん、と咳払いをした。 「あれ一曲だけじゃないんだろう。楽譜は?」 「全部頭ん中だ」 「マジかよ…。他の歌なんて知らない」 「この前みたいについてこいよ。そうだ、おたく、譜面に起こせるか?」 一曲目はまずチーズの歌から。 ジョニィ・ジョースター。ケンタッキー州出身。十九歳。 少年ではなかったのだ。 その名前をネットで検索すれば様々な情報がコンマ秒で目の前に開示された。だからジャイロはコーヒーショップの口さがない客が二年前のスキャンダルを掘り返す前からそれを知っていた。十六歳でケンタッキーダービーを優勝。若き天才ジョッキー。だがその慢心故に競馬界から姿を消す。そしてぽっと現れたのがこのサンディエゴなのだが、自分だってナポリで一生を過ごすのではないかと思っていたら今はこの街で医者をやっているのだ。ジョニィ・ジョースターの人生にだって波も嵐も起こるだろう。 黙って聞いていたが、その瞬間のジョニィの顔といったら。カウンターの内側が地獄に変わったかと思えるほどで、しかしジョニィは噂好きの客を憎悪した訳ではなかった。むしろそこにあったのは羞恥と呼んでもいい感情だったろう。女と遊んでいる最中に撃たれた。ゴシップ誌で騒がれて、その後破ったページで洟をかまれるような醜聞だ。だがジョニィの目の奥から溢れる絶望と恥は、贖罪の涙にも似た揺らぎだった。 誰に赦されたい、ジョニィ・ジョースター。 ジャイロは次の瞬間にはジョニィの腕を掴んで店から引っ張り出し自分の車に突っ込んでいた。ジョニィは(おそらく)わざとだろう乱暴な言葉でジャイロを詰った。行儀の悪い脚がダッシュボードやドアを見境なく蹴ったが我慢する。虚勢だった。見下され続けた者がそれでも生き残った自分の心を守ろうと張った防衛線だ。それを破ってやろうという意地悪な気持ちも生まれないではなかったが、ジャイロは行き先を黙っていた。知った途端にジョニィがドアを開けて飛び出しかねないと思った。直観だった。 乗馬クラブで車が停まるとジョニィは途端に静かになった。虚勢が鳴りを潜め、唇が引き結ばれる。車からは出されたものの足が竦んでいた。しかし目はもう柵の向こうに釘づけになっている。芝の上を優雅に走る生き物の姿に夢中になっている。 ジャイロはジョニィの腕を引っ張って厩舎に向かい、ヴァルキリーの前に導いた。 ヴァルキリーはイタリアから一緒に渡米したジャイロの愛馬だ。これまで誰も乗せたことがない。 愛馬は主の連れてきた人間を計るように鼻先を近づけ、ふ、といつもの気高い仕草で首を振った。まずは合格のようだ。 「乗れよ」 「えっ」 表に出てもジョニィは脚を動かさなかった。恐れていては馬に乗れない。ジョニィは初めて馬に乗る子どものように緊張していた。天才騎手と呼ばれ、恐らく実力もそうだったのだろう青年がだ。何ものかに怯え物陰に隠れる幼児のように前に出られずにいる。 「不満か?」 「違う、ぼくは…」 「我が愛馬、ヴァルキリーだ。美しいだろう」 バシンと背中を叩くとジョニィはよろめきながら馬に向かって一歩踏み出した。手が馬の身体に触れた。 「ヴァルキリー…」 ジョニィが呼んだ。脚の震えは止まっていた。 ヴァルキリーはジョニィを乗せてトラックを一周し、主の元に戻ってくる。仕事は終えたとでも言うように脚を止め、ジョニィが下りるのを待つ。しかし震えの止まったジョニィの脚は、今度は全く立たなかった。興奮で動けなくなったらしい。転げ落ちるジョニィの身体をジャイロは抱きとめる。そして間近でジョニィの顔を見た。 薄い水色の目が大きく溢れ出した涙で潤んでいた。表情はまるで子どものようで、わずかに開いた唇から浅い息が出入りする。コーヒーショップを地獄に変えようとした暗い影は微塵もなく、そこには馬を愛する一人の少年しかいなかった。それはジャイロがよく鏡で見た顔だ。歓びと興奮と人生の幸福。ご同輩という訳だ、ジョニィ・ジョースター。 「ニョホ」 歯を見せて笑うと、ジョニィも素直に笑った。その日、不味いコーヒーショップには戻らず、部屋でイタリアンコーヒーを振る舞った。ジョニィは次にジャイロがクラブへ向かう日を尋ね、バイトに戻ると言った。 「怒られるぜ?」 「あんたのせいでね」 ジョニィは笑う。 「でも、カネがないんだ。働かなきゃ。だから…」 「来週の木曜だ。休めるのか」 「うん」 これを皮切りに幾つかの事件があり、ある晩、ストリートライブを終えて寒い地下鉄の駅を出ながら二人で鼻歌を合わせていると、ふとハミングをやめたジョニィが言った。 「ぼくたちさ、バンド、組む?」 組んでいるものだと思っていた。 「おう」 と返事をしながら込み上げる笑いを隠さずにいるとジョニィは瞬く間に不機嫌になったので、その晩も部屋に招待しとびきりのコーヒーを淹れた。 いつからこの一人の部屋にジョニィのいることが当たり前になった。不愉快ではないのだ。むしろ最初からジョニィの居場所が用意されていたかのように、その存在が心地いい。意見の相違や喧嘩もままあるが、歌った後の肉体の疲労とコーヒーの乾杯が生む心地良さはこれまで経験した何ものにも比べがたく代えがたい。 人生に波や嵐のあるように、帆が風を孕んで気持ち良く滑り出す日もあるだろう。ジョニィがスロー・ダンサーという老いた馬と出会った日は、ジョニィにとってもそうだったし、ジャイロにとってもそうだった。 老いた駄馬の噂を聞いたジョニィがふらふらと厩舎に向かうのを、ジャイロは止めなかった。ヴァルキリーとひとっ走りして帰ってくると、厩舎のジョニィは馬に顔をべろべろと舐められながら子どものように泣いていた。それからふらふらになるまで馬に乗って走り、帰る際も名残惜しそうに何度も厩舎を振り返っていた。 運命の出会いというものはあるのだ。それは言葉では説明しがたい。だからジャイロには新しい曲が浮かぶ。 夕方のストリートライブでもジョニィの興奮は持続していた。 「今夜は新曲をやろうと思ってるんだけどよぉ」 「うん」 ジョニィは熱の入った頷き方をしながらギターを準備する。 「何でも来いよ」 普段ならいきなり新曲をやると言うと怒って喧嘩になるジョニィだが、その晩は文句も言わず、それどころかジャイロが思う以上にしっかりとギターでついてきた。そこでやったのが『これがオレの一週間』だ。ジャイロの中でも屈指の名曲である。 ライブはこの一曲だけだった。だがこれ以上ないライブだった。すっかり満足したジャイロはギターケースを持った上にジョニィを背負い、しかし足取りも軽く地下鉄の階段を上った。 「いやー、オレたちは凄い。マジでいける。マジで」 「うん」 素直な賛同の声が背中から聞こえて来た。 「ぼくたちは最高だ」 何ものもを恐れない声。無敵の気分。ジャイロはジョニィを背負ったままアパートの階段も上りきる。 イタリアンコーヒーでいつもの乾杯。コーヒーを飲み干したジョニィはテーブルにぐったりと伏した。 「疲れたか?」 顔を覗き込むと、ゆるく笑っていた。 「眠い」 「一眠りしていけよ。明日はバイト遅いんだろう」 「うん…」 肩を貸して立ち上がった時、ジョニィは少し驚いたようだった。しかしジャイロは特に何も言わずジョニィの身体をベッドの上に運んだ。 肉体の疲労と眠気に勝てなかったのか、ジョニィはベッドの上に伏すと、もう起き上がらなかった。 広いベッドなのだ。ジョニィが横たわっても余裕は十分すぎるほどあった。広すぎる。 黙って隣に横になる。当たり前のようにそうした自分を、自分自身も、ジョニィも受け容れている。 ジョニィの服の裾が捲れ、腰が露わになっていた。夜明かりの中、ジャイロの目はそこに大きな傷痕を見つけた。銃創だ。もう古い、だがスキャンダルとしては色褪せない傷痕。 手を伸ばしてもジョニィが警戒する様子はなかった。無防備というほどでもなかったが、逃げる気配は見せなかった。触れる掌を受け容れていた。 「生まれつきじゃあなかったんだな」 知っていたことだが改めて口に出す。 するとジョニィは苦笑して、知ってるだろ、と応える。 ここから入り込んだ弾が背骨を傷つけ、若き天才騎手の名声も未来も、そして恐らく人格さえ奪った。 だが脊髄の損傷だ。何故歩けるように…と背骨の上に手を滑らせたジャイロは、指先に触れた異質な存在にハッとした。それまでも目に見えていたはずなのに、ちっとも認識できなかった。腰の上、背骨が一つ飛び出ている。否、これはジョニィの背に連なる骨ではない。触れれば確かに骨の感触。脂肪の塊や腫瘍ではないのだ。 皮膚の下、どこにも繋がっていない骨が一つ、埋まっている。 ジョニィはじっとジャイロを観察していた。あの瞳が自分を見つめている、それがよく分かった。だがジャイロが言葉にするべきものはなかった。ジョニィもそれを必要としているから見つめている訳ではない。 二年間虫けらのように地を這っていた少年の脚を動かしたもの。 「明日」 ジャイロは口を開いた。 「一人でバイトに行けるか?」 ジョニィは唇の端を持ち上げる。 「心配はいらない」 「オレは明日、早いんだ」 「送ってもらおうなんて思ってない。いつもバイトには歩いて行ってる」 早いんならもう寝たら、とジョニィが瞼を閉じた。 その顔を美人だと、その時確かに思った。 音の中で目覚める。穏やかで静寂に近い音が波音のように繰り返し耳に打ち寄せ、引いてゆく。引くそれに縋ろうと手を伸ばした意識が覚醒で、やがて水面から顔を上げるように自分の肉体や周囲の空気が感じられる。波音のようなそれは寝息だった。自分のものではなかった。ジャイロは手を伸ばす。いつもは広すぎるベッドがちょうどよく広い。 薄く目を開くとジョニィ・ジョースターの寝顔が間近にあった。ジャイロはそれをまじまじと見つめ、まあ美人っつうか顔はいいよな、と頷き。もう少し黙ってまだ眠りの中にあるその顔を見ていた。 また服の裾が捲れている。しかし腰に見えるのは銃創だけで、あとはなめらかだ。ぼっこりと一つ出っ張った骨などない。いや、しかし昨夜自分は確かに触った。それが目の前の現実と本来歩けるはずのなかった事実を繋ぐ証拠だ。人智を超えたもの。そしてきっと秘されるべきもの。 夜明け前の薄暗がりの中でジャイロはシーツを引っ張り上げジョニィの腰を隠した。 あの骨の正体が何であれ、ジョニィが奇跡だけに縋って歩けるようになった訳ではないとジャイロには確信できた。上半身の鍛えられた筋肉。瞳から溢れる傲慢にも見えるほどの負けん気。歩く、歩きたいという意志があった。だから初めて出会った朝、ジョニィは転びながらも笑ったのだ。脚が動くことの歓びを溢れさせ、自分の脚が地を踏んで歩くことを道路の真ん中で堂々と見せつけたのだ。 「モヴェーレ」 ジャイロは小さく呟く。 「モヴェーレ・クルース」 祖国で習ったラテン語が、全ての現実を真実に繋ぐのに相応しいと、自然と口からこぼれ出た。 まばたきをしたと思ったらそれから半時間ほど眠り込んでいたらしく、次に瞼を開いた時、隣にジョニィはいなかった。その代わり耳に聞こえてきたのはポットの湯が沸く音。皿の触れ合う音。他のフロアではない。自分の部屋のキッチンから聞こえてくる。 起き出す自分の脚がふらついた。寝室のドアを開けるとハーブの香りが鼻をくすぐった。カップを手にキッチンから出てきたジョニィが、おはよう、と言った。 「勝手にキッチン借りたよ。ハーブティー淹れたんだけど、飲む?コーヒーは君が淹れてくれた方が美味いと思ったからさ」 「…もらう」 「あと朝食はパスタにしてみたんだけど」 「ソースは?」 「ケチャップでいいだろ」 ビルの林の彼方、朝陽が昇り空が色を変える。窓から射す淡い光の中、ジョニィの顔は少し微笑んでいる。 唇が綻ぼうとする一瞬前、刹那の真面目な表情とこちらを真っ直ぐ見つめる瞳が美しく、もう一度ジャイロは胸の中で繰り返した。美人だ。 わざわざラテン語で呟きはしなかったが、これもまた真実だと思った。 「困ったな」 「なに?」 ジャイロは頭を掻きながら笑った。 「何かと、な」
2013.7.1
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