朝陽のレクイエム




 昨夜はひどく熱かった。熱波がネアポリスを襲った。それでも涼しい顔をして中庭を見渡すテラスで朝食を摂るのがジョルノで、フーゴはその姿に深く溜息をつきつつ身体の不調を悟られぬよう少し離れたところでその姿を見守っていた。
 まだ結う前の後ろ髪が少し暑そうだ。そう思う間に中庭から風が吹き抜ける。ねっとりと膚を撫でる、朝にしては爽やかではない風。だがフーゴには馴染みのものに感じられた。柱にもたれかかり、少しだけ目を閉じる。
 昨夜もブチャラティの夢を見た。過去の光景の再現だ。レストランへの道すがらナランチャを拾う。ブチャラティが自分の分の皿を差し出す。
 何度も繰り返した光景だ。その続きは夢に見るたびに変化した。時々、ナランチャはそのまま組織に入団した。時々は真面目に学校に通った。通うのは真面目だが頭がよくないからブチャラティに勉強を教わりに来る。あり得ない光景だった。しかしフーゴは、たとえ夢の中でもそんな二人の姿を見ることができて幸せだと頬を緩める。夢の中のフーゴはいつもすぐ隣でその光景を見ている。目が覚めると寂しくて仕方がないが、もう一度見たいと願う。そんな夢を見た後は朝の空気が思い。質量が倍になったかのようにねっとりと身体にまとわりつく。肉体は重い、と思う。これが生の証拠なのだ。
 瞼を開く。ジョルノと、失った仲間たちの思い出を語り合うことは滅多にない。年に一度ヴェネツィアを訪れる時も。あるいはサルディニア島、あるいはシシリー、フーゴは目の前のジョルノを守ることこそ使命にその地に立つ。感傷は胸の奥。夜の深いところでのみ夢となる。
 暑い空気が夢の余韻を膚の上に呼び覚ます。フーゴは頭を振って姿勢を正した。ジョルノはまるで暑さなど感じていないかのように、涼しげな横顔を見せる。
 じわりと滲んだ汗が流れて目の傍を走った。思わず細めぼやけた視界に明るい、白金の風が吹いた。ジョルノが顔を上げる。太陽の黄金の光を浴びて磨き抜かれた満月のような白金の輝きが、その視線の先にある。手が。
 手が伸びてジョルノの頬に触れる。ジョルノが心地よさそうに掌に頬を擦り寄せる。
 フーゴは初めて見る、それがゴールド・エクスペリエンス・レクイエムの姿なのだと知った。ミスタが今でも恐れ、トリッシュは父親を葬ったその姿を一度も口にしたことがない。畏れと共に秘された鎮魂歌。
 暑い風の中に緑の匂いが混じった。朝の中庭の爽やかな香り。風が吹いている。中庭の向こうからテラスに向けて吹き抜ける。フーゴは目を擦ってよく見ようとする。ジョルノと、傍らに佇むゴールド・エクスペリエンス・レクイエムは中庭の先、揺れる梢を見て微笑んでいる。現実が、八月の朝がフーゴの前に蘇る。
「ジョジョ」
 呼ぶとジョルノが振り返った。
「お茶のおかわりをお持ちします」
「よろしく」
 厨房に戻り、新しい茶葉を取り出す。ミントの爽やかな香りが、フーゴの胸の中にも満ちる。
 ジョルノに促され、お茶を注いだフーゴは向かいの席に腰掛けた。カップの向こうにジョルノを見る。傍らに佇む姿はもう消えている。本当だろうか。その頬に白金の指。
「僕の顔に何かついていますか?」
「いえ…」
 フーゴは少し誤魔化すような笑みを浮かべた。
「ジョジョは涼しそうですね」
「暑いよ。今朝の天気予報、ききました…?」
 それでも涼しげに見えるものだ。
 いつまでも喋っていると冷房の効いた部屋からミスタが大声で呼んだ。





夕闇のレクイエム




 それはネアポリスの中にあって古い、と言うより時代と共に古くなってしまった建物の一つで、外観は思いの外地味だった。周囲の景色に馴染んでいると言えばそうだが、水族館という名を聞いて日本生まれのジョルノが想像したものとは大きく隔たりがあった。
 入口から暗く、ドアをくぐるとむっとした暑い空気が肌に触れた。
「改装中で」
 後ろからついてきた支配人が申し訳なさそうに呟く。
「空調も効かないんです」
 客の姿もまばらだ。だが、それがいい。
 ジョルノがフーゴを従えて支配人と話をする間、ミスタは大して広くない水族館の内部をぶらぶらと歩いた。親子連れが一組いた。子どもは既に帰りたそうな顔をしていた。追い立てる間でもなくその客たちは順路を過ぎ、出て行く。
 この街に住みながらミスタも水族館を訪れるのは初めてだった。わざわざ水槽の中を覗かなくともネアポリスの抱く湾は透明で美しい。ガラスの水槽は青というより碧の色で、ミスタの目にはいささかに水が濁って見えた。
 不意に通路の明かりが落ちる。ミスタは慌てず腕の時計を見る。外では日が落ちたのだ。蒸し暑い空気の満たす中、水槽の向こう側が涼しげな水色に染まった。明かりを変えたのだ。それはより透明でより深いネアポリスの海の色になる。ミスタは立ち止まる。
 目の前を銀色の魚が泳いでいた。耳元で水音がした。振り返るとイルカの骨格標本がぼんやりと光っていた。今度ははっきり波音がした。
 離れた水槽の端にジョルノが立っている。白い掌が海の色に輝く水槽に押し当てられる。そこに一筋の太陽の光が射すような白金の指…。
 次の瞬間、水槽の前からジョルノは消えていた。水槽の中でひどく波が立った。尾びれが水面を叩く。ミスタは背後を振り返る。そこに骨格標本はない。
 再び水音。満月の光のような色をしたイルカが目の前を泳ぎすぎた。ミスタは水槽に近寄り、顔を押しつけた。イルカの水槽とするには狭いはずだったのに、いつの間にか地中海のような奥行きがそこにはあった。奥へいけばいくほど深くなる青。イルカはわざとミスタの目の前を泳ぐ。その瞳にミスタは見覚えがある。ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム。イルカが微笑んだように見える。白金の光が水中で尾を引く。
 また大きな水音。しかしフーゴも支配人も出てくる様子はない。
「ジョルノ…」
 ミスタは水槽の向こうに呼ぶ。すると。
 音が消えた。波音も、効かない空調の音も、なにも聞こえなかった。
 目の前でジョルノが微笑む。青い水槽のガラスを越して。微笑むと綻んだ口元から銀色の泡が立ち昇る。瞳が細められる。唇が名前を呼ぶ。
「ミスタ」
 明かりが落ちた。二、三秒だったろうか。もっと長い。いや暗殺するには十分な時間だ。ミスタは闇の中で銃を構える。
 非常灯と通常の明かりが明るすぎるほどに照らした。カーブした廊下の向こうからフーゴをつれたジョルノが姿を現した。
「行きましょう、ミスタ」
「ああ…ジョルノ…?」
「ミスタ?」
「…いや、何でもない」
 水槽を振り返る。通路が明るすぎて水の中は暗い。かすかに濁った碧色だ。
「何でもねえ」
 ミスタは水槽から顔を背け、ジョルノだけを見た。背後の水槽からゴールド・エクスペリエンス・レクイエムが現れたのを見なかった。骨格標本だけが元に戻らなかった。
 水音がする。尾びれが水面を叩く音だ。波紋が水槽中に広がってミスタの背に鳥肌を立たせた。あの目をしたイルカがミスタの後ろ姿を見送り、クククッと高い声を上げて鳴いた。



2013.6.29 眠いと言われたらGERテロ。