三十七天の晩餐







 一日雨だと思って事件資料に読み耽っていたらいつの間にか部屋が暗くなっていることにも気づかない。パッと顔を上げると時計は夕方の六時を過ぎている。先日夏至を過ぎたばかりで、この時間でも日はまだまだ高いが日本には梅雨というものがある。
 雨が降ろうが雪が降ろうが槍が降ろうが事件現場に駆けつけるのが名探偵だ。天気は材料にこそなれ気にしてはいられない…とは言わない。名探偵も人間である。雨が続けばいささか憂鬱にもなる。
 城字は書斎の椅子の上で伸びをし、ようやく空腹に気づいた。昼に軽くつまんでから何も口に入れていなかった。
「お腹ぺこぺこや…」
 事実確認をするように呟き、階下に下りる。
 屋敷はしんとしていた。ジョエコの賑やかな笑い声も聞こえない。確かにさっきまでは集中していて何も聞こえなかったが、一体どうしたのか。
 書き置きが残っていて、ジョエコをお泊まり学級に連れて行くから、と。慌てすぎたのかペネロペはスペイン語で書き残している。勿論、城字には読めるが。
 電話をすると、ジョエコが城字にいってきますを言いたいとぐずって大変だったとペネロペが怒った。少し電話を替わってもらい、ジョエコにいってらっしゃいと少し早いおやすみを言った。水族館のお泊まり学級で、今夜は三人そろって帰らないそうだ。そう言えばそんな話を聞いていた。
 キッチンで新しいジャガイモを見つける。ご近所からもらったのだろう、形は不揃いだが土つきの美味しそうなジャガイモだ。土を水で洗い流せば皮ごと食べられそうで城字は頬を緩める。シンプルにじゃがバター、あとはビールがあればいい。オッサンくさいかな、と一人で苦笑すると不意に額のあたりに明るいものを感じた。
 窓が淡いピンク色に染まっている。
「あ…」
 城字は濡れた手を拭き、バタバタとキッチンを出た。玄関から広い前庭に飛び出すとそこは思いの外明るく、城字の視界は一瞬のうちに世界が三百六十度の広がりを獲得する。遠くの雨も過ぎ去ったのか置いてけぼりをくらった灰色の雲が低く浮かんでいる。だが背景の水色の空よりも強烈に目に飛び込んで来たのは、東の空の輝き。一面に浮かぶ雲が遠い夕焼けを受けて朱鷺色の光を放っている。
 手を翳して空を見上げる城字の鼻がくすぐったく震えた。雨上がりの土の匂い、久しぶりに見た青空と風の匂いばかりではない。記憶が鼻腔の奥から城字の内側を震わせる。
 光。
 目映い光。
 五色、七色、虹の光。
 自然界に存在する美はいつも城字の脳を揺さぶる。その中で大切に封をしているものを呼び起こす。
 城字はそのまま歩いて屋敷を出た。バイクを取ってくる間に変わる空の色を見逃すのが惜しかった。一番近いコンビニでさえ離れているが、悪い散歩ではない。ビールと唐揚げを買ってすぐに店を出る。
 しかしほんのわずかな時間蛍光灯の光に照らされただけなのに、夕暮れの景色はもうプルキンエの青に染まっている。夕映えは次第に薄くなり、それまで夕陽の光を反射していたスクリーンは灰色の雲に戻る。背後の空は水色から深い紫へ、夜の色へ移ろう。
「残念」
 だが移ろうからこそ、この脆弱な世界を愛している。移ろって尚、変わらないものがある。美しさ、胸の奥の思い出。それらを愛するからこそ、名探偵は人間の世界を選ぶ。
 いよいよオッサンくさいなあと思いつつ、城字は畦道の途中でビールの缶を開けた。一口呷る。思わず美味いという息が漏れる。
「うは、オッサン、マジで」
 自分で笑いながら照れて、その後少し寂しかった。
 庭の草地はまだ少し湿っていた。しかし城字はその上に腰を下ろしてビールを飲んだ。唐揚げをぽいと一つ口に入れる。
 考え、結論を出したことだが今でも時々考えてはぐるぐるとすることがある。ジョエコが目の前にいないので、久しぶりに考えてしまった。多分、自分はジョースターとして子孫を残さないだろう、ということだ。
 特異点、だ。
 あらゆる宇宙でもらわれっ子のジョースター、ジョージ・ジョースターは一人しか存在しない。故にあらゆる運命への干渉と解決と決着という役割を担ったが、同時にそれは真っ当な人生において自分は真っ当な手段における影響は残さない…残せないということではないだろうか。
 結婚くらいはするかもしれない。先日も中学の同級生とばったり再会した、事件現場だったが。一夜を共にしたが翌朝には別れた。バスに乗り込む後ろ姿を見て、ああ、あの子は別の誰かと結婚するんやろうな、と感じていた。少なくとも自分の子どもを生んでくれるビジョンは浮かばなかった。
 友達はたくさんいる。数が問題ではないと思うが、信頼できる仲間と呼べる人々があちこちにいる。石ころ電話は時空を超えて絆を結ぶ。しかし城字は隣を見る。
 夜風が草を揺らす。溜息をつき、ゆるく笑ってビールを飲んだ。
 雲が切れる。深い紫に沈んでいた景色が青白く照らされる。
「随分と貧相な食事だな、ジョージ・ジョースター」
 頭上から降ってきた声に、表向き動揺はしなかった。少なくとも表情は変わらなかった。しかし人間は驚きすぎると無表情になるものなのだ。手がビール缶を倒した。唐揚げが草地をころころとどこかへ転がっていった。
「そんなものを食べなければ命を維持できないとはな」
「あ……」
「オレの名を忘れた訳ではあるまい、名探偵」
「カーズ……」
 勿論だ。何度その名を呼んだだろう。あの日も、彼が姿を消した後も、何度心の中で呼んだだろう。風が吹いた時、日が肩に当たった時、花の傍を通り過ぎた時や、足下に子犬の気配を感じた時、何故かいつも隣を見上げてしまったのだ。あんなにもこわかった存在が、今も隣にいるようで。
「カーズ」
 カーズなのだった。漆黒の翼で夜空から舞い降り、雲間から射す月光よりも輝く姿を晒している。
 カーズなのだ。
 あの日の姿のまま…。
「どう…したのさ」
「もう少しまともな問いは出ないのか。つまらんぞ」
「すいません…」
 答えながら半笑いになる。えーと、何をしに来たんだろう。今までどこにどこにいたのだろう。地球見学が終わっていよいよ人間を支配するとでも?いやいやいや……いや、カーズの思考はこれまで何度もあの事件を繰り返しなぞったが、やっぱり芯のところは分からないのだ。
 だがこの宇宙にいるカーズが人間の前に姿を現すとしたら、それはジョースター家の者であるのが当然だ。そしてそれはジョンダではない。ペネロペではない。ジョエコではない。自分、ジョージ・ジョースターだけだ。これは自惚れではなく真実だ。事実、そのようになったのだ。たった今、目の前で。
 城字は笑う。
「ちょ、カーズ先輩、寂しくなっちゃった?僕の方はいつでもウェルカムやで遠慮せんと遊びにくればええのに、もー、遠慮なんて人間くさいとこもあるんやなあ」
 こわさも通り越して感情が一周し、城字の顔からはもう笑いがこぼれている。もー、もー、カーズ先輩、と言いながらすっかり腰は抜けている。
 だらしがない、とカーズは呆れ、容赦なく城字の頭に指を突っ込んだ。
「ちょ、先輩、いきなり…」
 言い終わる前には城字の身体はベキベキと音を立てて変形し背中から羽根が生えている。
「ちょ…ちょー、カーズ!羽根!」
「行くぞ」
「行くぞじゃなくて、カーズ、そんな僕いきなり飛べんで…」
 これまた言い訳の終わる前にバチンと殴られ取り出されたディスクにカーズの頭で何か書き込みされたらしく戻ってきた時には羽根の動かし方も分かってる。
「いやいやいやそういうことじゃ…」
 再び繰り言が口をついたが、カーズの瞳、鮮やかに深い紫の夜空、雲の上で輝く月に、あ…と思った時には羽根を動かしている。
 ニヤッと笑ったカーズの羽ばたきは大きい。羽根を一打ちするだけで城字を追い越した。
「カーズ」
 小さな町の灯が足下に遠ざかる。雲を追い越せば梅雨空の上にも星が輝いているのが分かる。
「今までどこにいたの?」
 カーズは唇の端を釣り上げるだけだ。
「どうして僕に会いにきたの?」
「答えは今、お前が言っただろう」
「カーズ…僕はずっと君に会いたかった」
 気流に揉まれ、羽根が制御を失う。夜空から落ちる城字の身体を、すいと滑り降りたカーズが受けとめる。
「やっぱり僕は人間だ…」
「そのようだな」
「でも」
 城字は横たえられた草の上からカーズに手を伸ばす。
「ああ、人間でよかったって、今、思ってる」
 その身体に、触れる。恐ろしくはない。しかし触れた瞬間、ビリビリと痺れた。
「うは」
 城字は笑い、自分が少し泣いているのに気づいた。いつの間にか涙が滲んでいる。
「カーズ、もしかして僕のこと食べに来た?」
「もし、ではない」
 出会った当初から自分は何十兆年ぶりの食事だったのだ。
 そうやなあ、と城字の顔はくにゃりと緩んだ。
「今、か?」
「今がいいか?」
「カーズが僕に尋ねるの?」
 風に乗って蛙の合唱が流れてくる。丘になった屋敷の敷地からは田植えのすんだばかりの田畑が見渡せた。そこにも空が映っている。葡萄色の空、白銀の月、灰色の空の腹が月の光の反射で魚の鱗のように光る。
「上がっていきなよ、カーズ」
 城字は立ち上がり、カーズに手を差し伸べた。
「今日はうち、誰もいないんだ」
「だから?」
「僕の手製でよければ振る舞うよ」
 さくさくと草を踏んで玄関までの道のりを上る。少ししてカーズの足音がついてきた。裸足が湿った草を踏む、自分より重くて心地良い音がする。
 城字は玄関の扉を開けると振り返った。カーズの黒い髪が夜風に乱され、一筋一筋さえ輝いて見える。
 ああ、カーズだ。この姿は、カーズだ。
「ようこそ、ジョースター邸へ」
 城字は最上級のお辞儀をして、待ちわびた客人を迎える。



2013.6.27