ルーフトップ・アンド・モンスターズ
アパートの屋上には雨上がりの気持ちいい風が吹いていて、湿気をたっぷり孕んだしかし爽やかなそれが身体に残った鬱々とした気持ちを吹き飛ばすのが実にいい。ジョニィは林立するアンテナの下をくぐり、屋上の端まで来た。ベルトに挟んでいた単眼鏡で通りを覗く。 水たまりにはサンディエゴの街と青空が映っている。子どもの頃は水たまりの中にも空が広がっていると信じたものだ。ニコラスが大丈夫だと長靴で踏んで教えてくれてもなかなか信じられなかった。 ジョニィは鼻歌を歌いながら街を眺める。大通りと交わる交差点では信号待ちの間にウェカピポがマジェント・マジェントに捕まってうんざりしている。もうすぐ夕方だ。ウェカピポは病院に妹を迎えに行くのだろう。 二人の前を、信号はもう赤になろうというのに一台のロールス・ロイスが走り抜ける。ウェカピポはひょいとよけたが、マジェントはコートの裾を泥水で汚した。それなのにマジェントが文句を言う相手はウェカピポだ。信号にWALKのサイン。早足で歩き出したウェカピポを、コートの裾を摘んで指さしながらマジェントがついていく。 単眼鏡は泥水を跳ね上げたロールス・ロイスを追う。どこかで見たことのある車だ。雨の雫さえピカピカと光らせながら走る。そしてなんとアパートの前で止まる。思い出したのと車から出てきた男を見たのは同時だった。先に思い出せなかったことが腹立たしかったが、思い出したところで顔が歪むのには変わりない。 ディエゴ・ブランドー下院議員が濡れた路上から屋上を見上げてにやりと笑う。ジョニィは単眼鏡を外した。耳まで裂けた口がニヤリと笑うのを間近で見て気分が悪かった。 逃げも隠れもしないが出迎える義理もない。鉛玉のお出迎えはナイスアイデアだと思ったが、マテバはベッドマットの下だし、弾もないのだ。 考える内に右手には細かな星型の痣が幾つも浮かび上がる。屋上のドアが開いた。 SPを連れて来なかったのは連れて来るまでもないということか。今でもジョニィのディエゴに対する殺意は本物だ。状況が整えば躊躇いなく撃つ。だが走っていって殴り蹴倒し目を潰し首の骨を折るほどの積極性はない。黙って、暗い視線だけを送った。ディエゴは雨ざらしでそこここ濡れ汚れたコンクリートで自分の靴の裏を汚すのが惜しいのか、アンテナの林を抜けてこちらに来る様子はない。 「見たぜ、日曜のレース」 「死ねよ」 「見事なカムバックだ」 「心にもないことをわざわざ言いに来るほど暇なのか?」 「中継の裏番組でインタビューを受けたが、視聴率は雲泥の差だったな」 「つまらない話をするのが仕事なんだな、議員」 「過去の栄光など捨てろ」 ハッとする言葉にディエゴの顔をまじまじと見ると、絆創膏は貼っておらず右の口の端が耳まで裂けているのがよく分かった。覗く歯が牙のように光っている。 「汚泥を舐めろ、ジョニィ・ジョースター。オレのようにはいくまい。這い上がり、頂点に君臨し、更に上へ昇り続けるこのDioのようにはな」 ジョニィは黙ってその言葉を聞いた。今更傷つくことはない。ディエゴが目の前にいてその声を聞いているという不快感以外はない。言っていることは至極当たり前のことのように感じた。 そうだ、先週のレースは散々だった。だがエージェントは笑顔で次の予定を組んだ。次を、期待している。次の日曜、次のレース。観客の声援はまだまだだ。だが馬の背の上であの砂の匂いをかげば。両手で掻き寄せるように視線を、声援を、期待を。 次はできる。次はもっといい走りができる。不安は雨上がりの風が吹き飛ばした。 だからジョニィは悪意は無表情で跳ね返し、言葉は風のように屋上の外へ吹き流した。 それでもディエゴは言葉を続けた。 「そこに立てるのは人間を超えた者だけだ。人間を超える者に、オレはなった」 「だろうな、モンスター」 モンスターと呼ばれたディエゴは愉快そうに笑い、ドアの向こうに消える。笑い声の余韻は風の中にもしばらく残っていた。上に立つ者のキラキラした爽やかな笑いだ。テレビの中からも溢れ出し、日曜のレース以上の視聴率を叩き出す笑い。あれがサウンドマンの施してやった化粧だろうか。嫌になるくらいいい仕事だ。 ロールス・ロイスを見下ろすと、運転席の傍らに当のサウンドマンが佇んでいる。ジョニィは軽く手を振った。サウンドマンも手を上げた。 すぐにディエゴがアパートから出てきて、ロールス・ロイスは二人を乗せて走り去る。水飛沫が跳ね上がる。ちょうど歩道を歩いていた男が泥水を引っかけられ、走り去る車に向かって中指を立てた。 「テメーどこ見てんだ!そのピカピカのケツ汚れろ!どっかぶつかれ!へこめ!」 ジャイロだ。 ジョニィは笑いながら立ち上がる。うっかり単眼鏡が落っこちそうになるのをキャッチし、ベルトに挟む。大きく吹き上げる風が吹いた。裾が捲れ、露わになった腹を青空の手が撫でる。銃創にわずかな疼き。腰の骨が痺れて、電気信号が身体の隅々まで行き渡る。 生きているというのは、時には結構いい気分だ。 ジョニィは部屋に下りる。ジャイロは一足遅れて入ってきた。まだブツブツ言っている。 「あんのロールス・ロイス、クソッ」 「服脱いで」 「このスーツ、先週クリーニングから返って来たんだぞ、知ってるよなジョニィ」 「知ってるよ。いいから脱いで」 洗濯機に放り込むと、だから先週クリーニングから返って来たって言ったよなあ?とジャイロが縋るが無慈悲にボタンを押した。 「染みになるよりマシだろ」 「ジーザス…」 「君もシャワー浴びなよ、泥水まみれで歩き回らないでくれ」 すると急にジャイロの腕が抱き寄せ、バスルームに向かってつんのめる。 「来いよ」 ジャイロがニヤリと笑う。 「ぼく、今から夕飯作るんだけど」 「いいから来いって」 「どうして」 するとジャイロは両腕でしっかりとジョニィを抱き寄せ首筋の匂いをかぎ、耳元に囁いた。 「いい匂いがする」 「何それ」 決して甘い匂いなどしていないと思うのだが。 「オレの好きな匂いだ」 雨上がりの風、屋上の青空。ディエゴへの殺意。そういう匂いが好きだと言うならば。 ジャイロの手はもう服の裾を捲り上げている。 「冷たいな。ひえてる。どこにいたんだ?」 「屋上」 「ああ」 陽の光を浴びた額と髪の上に口づけがおりる。 「道理で」 夕飯は暗くなり始めてから作った。食べながら見るテレビにはまたディエゴ・ブランドーの姿。あの笑顔。 ジョニィは指鉄砲でディエゴの眉間を撃つ。ジャイロはリモコンで番組を変えた。
2013.6.27 キ/リ/ン/ジの「風/を/撃/て」を聴きながら。
|