ハートと剃刀







 ジョルノと出会ってから病院に行ったことがない。血を流すのは今でもままあることだ。だがそこまで酷い傷ではない。地位が上になれば周りを取り巻く人間の数も多くなる。が、自分の代わりに部下たちが血塗れになっているということはなかった。グイード・ミスタ。稀な幸運の持ち主。彼はその幸運と実力で流血を退ける。
 であるのでフィレンツェの病院の白い天井を眺めている自分はとても非現実的なものに思えた。夢を見ているのかもしれないと思った。しかし視線を下ろせばギプスを巻かれた左足が吊されていて、今も鎮痛剤の防御網をかいくぐってじくじくとした痛みを脳に届ける。車は大破し、運転していた部下は集中治療室の中だ。骨折だけですんだのはラッキーなのだろう。だが全く手放しで喜ぶ気にはなれなかった。
 薬が効いてくる。痛みの輪郭がぼやけ、厚い膜の向こうに遠ざかる。ミスタは眠る。

 次に目覚めた時、黄金の夜明けを見た。事実夜明けではあった。消毒液の匂いがなりをひそめ、ひんやりと湿った朝露の香りがした。瞼を開くと部屋中に光が満ちていた。
 鼻が触れ合うかという距離にいたのはジョルノではなくゴールド・エクスペリエンスだった。手が吊された左足に触れている。もう痛みはない。それが鎮痛剤によって遠ざけられたものではないと分かる。ギプスの中で足がもぞもぞ動く。むしろ痒い。
 せっかくだからゴールド・エクスペリエンスの拳でギプスを割ってくれと頼もうとしたが、目の前にあるのは当のスタンドの顔のドアップであり、本体であるジョルノの姿が見えない。いや、顔を背け窓の外を見ているのが何となく分かった。ジョルノに見られていれば分かるのだ。その視線さえ眩く輝く風のような男だ。
「ジョルノ…」
 呼んではみたもののこちらを向く気配はなかった。
 気にし始めるとギプスに包まれた足がいよいよ痒い。痛みが消えた分、尚更だ。
「なあ、ジョルノ…」
「誰が怪我をしていいと?」
 ジョルノがぽつりと言った。
「僕に心配をかけていいと、誰が許可しましたか?」
 その実、駄々っ子のような科白だ。
「心配したかよ」
「君の命は僕のものだ、ミスタ」
「オレたち二人のものだって、去年のクリスマス言ったじゃねえか」
 ベッドの中で、という続きを言う前に、ずい、とゴールド・エクスペリエンスの無表情が近づく。思いの外、怖かった。これがゴールド・エクスペリエンス・レクイエムだったら目を瞑っていただろう。
 ジョルノがここに来たということは、部下は集中治療室を出、車を爆破させた犯人は始末され、フーゴが説教をしようと病室の外で待っているということだ。ネアポリスに帰るのはその後だろう。
「ジョルノ、なあ、ジョルノってばよォ…」
 ミスタはゴールド・エクスペリエンスの顔面を両手で押し返しながら、その向こうで朝日を背に自分を睨みつけているボスに声をかけた。
 するとジョルノはゆっくりとこちらを向く。金色の髪、そして軽く持ち上げた手が、指が輝いている。鋭利な輝きのそれは…指ではない。剃刀だ。
「覚悟はいいですか、ミスタ」
 何の、と尋ねるには怖すぎた。

 湯とタオルを持って来たのはフーゴではなく看護婦だった。フーゴはと尋ねると、ポルナレフと共にネアポリスに残っているということだ。
「じゃあ誰と来た」
「シーラEですよ」
 彼女の鼻が必要だったのだろう。
「喋らないで。首を掻き切りますよ」
 シャボンの泡に濡れた顎を剃刀の刃が滑る。確かに一昨日からズタボロのままだったから無精髭が伸びていた。ミスタはベッドに横になったまま動けなかった。ジョルノは有無を言わさなかった。
 心配はしていない。ジョルノは不器用な男ではない。もし怪我をしてもゴールド・エクスペリエンスがいる。しかし不穏な恐ろしさがある。ミスタは全てを任せるつもりで瞼を閉じた。
 触れるジョルノの指は剃刀の刃と同じように冷たかった。ミスタは目を瞑ったまま想像した。もしかしたらゴールド・エクスペリエンスの指かもしれない。ジョルノはまたそっぽを向いているのかもしれなかった。
 熱いタオルが押しつけられる。心地いいと思っていたら、どんどん圧迫され苦しくなった。瞼を開けた。ジョルノがタオルを押しつけながら遠い目を窓の外に投げていた。
 ジョルノと呼ぼうとしてもタオルの下で唇が動かない。辛うじて鼻息が漏れるがそれさえ塞がれそうだ。
「ミスタ」
 ジョルノがぼんやりと呟いた。
「君のいない世界を想像したのですが」
 待て、不吉な科白はやめろ。
「もう一度言いますので覚えておいてください。やはり君がいないと困る。たとえ代わりの人材が見つかっても、ファミリーの運営に支障がなくとも、困る」
 タオルが取り除かれ音を立てて息を吸い込むミスタに、ジョルノがぐいと顔を近づけた。
「この痛み、覚えておいてください」
 ジョルノの手から剃刀が消える。それが胸の中に溶けこむのをミスタはしっかりと見た。肉体と部品が一体化するビリリとした痛みが走った。
「ジョ……」
「僕は切られたかと思うほど痛かったんだ」
 微笑むジョルノの顔に手を伸ばし、皮膚の下の筋肉の震えを感じた。
「オレが死ぬかよ」
「四十四歳になった時も同じこと言ってください」
「うお…」

 ジョルノが誰かの髭を剃ったのは、この朝の一度だけだ。



2013.6.27 夜中のGEテロ。