ストレイダンス







 スロー・ダンサーはもちろんスティール・ボール・ラン・レースのスタート前夜に僕が買った時にはその名前だったんだけど、その名前からイメージされるのとは程遠い出会いだった。それを言うならジャイロ・ツェペリとの出会い、第一印象、変化してゆく旅の日々と、このレースは意外と予想外と突拍子も無い未来に満ちている。
 性格のいじけた駄馬だと見物人は言った。ぼくもそうだと思った。そうだとしても乗ってやると思った。壮絶な長い夜。蹴られ、振り飛ばされ、夜が明けてもその戦いは続いた。スロー・ダンサーの気持ちが変わったのは何故だろう。スターティンググリッドの中ではぼくの顔を舐めてくれた。ぼくを鞍に乗せてくれた。老いた馬、しかしジャイロについて行こうとするぼくの無茶にも応えてくれた。競走馬としての闘志が老いていないのは最初のステージから分かっていた。そしてぼくの中でも馬と共に大地を駆けるこの爆ぜるような熱と闘志は消えていなかったんだ。
 スロー・ダンサー。一体誰がこの名前をつけたのか。彼女にどのような未来の夢を託したのか。またこの馬と共に夢破れた人間がどれだけいたのか。ぼくがスロー・ダンサーと名を呼ぶ時、不意に彼女も名の通りの優雅な走りをしたのだろうと思う時がある。想像するんじゃない。自然と頭に浮かぶのだ。いきいきと野を駆ける姿。斑紋のある美しい毛並みが太陽の光を受けて輝く。優雅に、競争なんて考えない、思いのままの走り。そこには幸福がある。
 ジャイロにそのことを話すと本当に苦々しい顔をして「どうしてそれに早く気づかない」と低い声で言った。いつだったかな。まだ雪が降り出す前だ。ミシシッピー川を渡る前か、後か。ちょうど乾いた草原の道をゆく、気持ちのいい日だった。
「あの時おまえさんが…」
 と言いかけてジャイロは顔をしかめ、男らしくねえな、と独り言を呟いた。
「何さ」
「いや、いいんじゃねえの、そういうの」
「何を言いかけたんだよ。気になるじゃないか」
「男なら細かいことは気にするな」
「気になるよ。それに言いかけて誤魔化すなんてそれこそ君らしくないんじゃないのか?」
 じゃあ教えてやるから馬を寄せろと言われ、スピードが落ちる。
 日はゆっくりと傾いていた。草原の彼方には遠い山並みがあった。風の中には冬の匂いが色濃くまじり、時々はっとするほど冷たい風が首筋を撫でる。でも走っている間はそれさえ心地良い。ジャイロのマントがふわりと一度舞って落ち着いた。ぼくらは隣に並んだ。
 この草原の中、視界の限りぼくら以外に人影はない。遠く山の方に見える鳥の影は鷲だろうか。気球の姿もない。北米大陸の大自然の中、二人きりなのにジャイロは手招きをし、ぼくは耳を寄せた。内緒話をするように。
 ジャイロの腕はぼくをぐいと引き寄せてキスをする。
「……意味分かんないんだけど」
「そうか」
「これで誤魔化す気?」
「どうだろうな」
 金色の歯を光らせてニヤリと笑いジャイロの姿はぼくの隣から消える。ヴァルキリーは黒い疾風のように草原を駆ける。
 ぼくはスロー・ダンサーに囁きかけ、同じように走り出す。
 心地良い風。乾いた草の鳴る音。空は高く、山並みは遠く、遮るものは何もない。ぼくらは時々ラインを交叉させながら走る。近づき、離れ、視線を交わし、再びラインが交わる。ぼくの走りたいようにスロー・ダンサーは走ってくれる。踊るようにぼくの身体を運んでくれる。
 ジャイロが手を挙げる。指さし示す。シカゴまでの距離を示したマイルストーンだ。旧い道。間違いじゃなかった。
 まだ日は高い。ぼくらは走り続けた。疲れていたけれど走り続けられた。馬に乗っていることがとても心地良かった。
 スロー・ダンサー。ぼくは相棒と呼べる馬にようやく出会えたと思う。壮絶な長い夜を越えた、ぼくと彼女は同じ傷を負っていたような気がする。何者も信じず蹴り殺そうとしていた彼女、馬をただただ従わせようとしていたぼく。いつか、お互い知らない過去の中で敬意を忘れるような傷を負っていたに違いない。互いに持つ傷、シンパシーがあのスタートに繋がったと思うのはロマンチシズムが過ぎるかもしれないが、例えばぼくは彼女が人間の女の子だったら――たとえ五十ちかいおばさんだったとしても――一緒に踊れる気がする。ディエゴ・ブランドーの結婚とは違う、今なら本当に心から踊れる。
 その夜ブラッシングをしながらぼくは少しうとうとしかけていて、そんなことを考えた。また顔を舐められた。
「うん…」
 ぼくは返事をしブラッシングを再開する。
「大丈夫か、ジョニィ」
「うん」
 もう一人の相棒が声をかける。
 こんな男に出会ったのも初めてだ。故郷はヨーロッパなんだよな。生まれを除いても色々な部分で根本的に違う男だけど、ぼくの隣を走るのは、そしてぼくの目の前をゴールするのはもうこの男以外考えられない。
「次こそ一位通過したい」
「あのなあ、ジョニィ」
「大丈夫、約束は覚えてる。君とワンツーでゴールしたい」
 焚き火に照らされてジャイロの顔は赤い。
「珍しく殊勝なことを言うじゃねえの」
「当たり前に思ってることを言っただけさ。ぼくらはそれが目的で一緒に走ってる。そうだろ?」
 するとジャイロが手を差し伸べる。
 イギリスの社交界で見たことがあった――まだニコラスが生きていた頃だ――優雅な手の仕草。シャル・ウィ・ダンス?の言葉と共に。
 ぼくがその手を取ると、そこに粗雑さも訝しみの感情も認めなかったジャイロが不意に真面目な顔になる。
 口に出したい言葉がある。でも言えない。なかなか改まっては言えないものだ。
 敬意を払えと君が教えた。感謝してるよ、ジャイロ。
 煙は炎に照らされて赤く輝いている。ジャイロの柔らかな手。一度だけ強く握る。

 夢の中でスローダンスを踊る。誰と?スロー・ダンサーと踊っていた気もする。人間のおばさんじゃない、ちゃんと老いた馬のスロー・ダンサー。ぼくの脚が動く。ぼくは手綱を握り、彼女と踊る。
 とても楽しいダンスなのでぼくは振り返って呼びかける
「ジャイロ」
 ぼくらのダンスを見守っていたジャイロがどんな表情をしていたか、分かる前に目は覚める。




2013.2.4