水色の器に、眠る







 机の上に石ころが転がっている。窓から月光が差し込み、机の上には長く伸びた影が落ちる。角がすり減り滑らかで丸みを帯びたフォルム。僕はそれを掌で転がす。手の中に掴んでしまえる大きさで、かつてより小さくなってしまったように感じるがそれは僕の手が大きくなったせいだ。昔はプンピレパレポンと軽快な音を立て遠くイタリアからの電話を着信したりしていた。今ではその着信音も聞かなくなって久しい。石ころの向こうから聞こえてきた声も。語り合った他愛もない話も。思い出す景色は鮮やかだ。そして遠い。
 全てのものから過ぎた時間を感じる。掌は水分を失って乾き、手の甲から腕にかけては皺が寄って血管が浮き出ている。暗くぼんやりと霞んだ視界の中にも染みを幾つか見出すことができた。直接の血の繋がりはないけれど、曾祖父ジョセフ・ジョースターの手に似ていた。
 僕の名前はジョージ・ジョースター。福井県在住のイギリス人で、名前を漢字表記すると「城字」。最初はおかしな気もしていたけれど、いつのまにかこの城字という名前は僕の人生にしっくり馴染んで、命名の際に相談した師トンペティはやっぱり未来を見通す力があった人なんだなと思う。今では僕が彼くらいの齢になってしまったけど、もしかしたら師トンペティは今日もチベットの山奥、渓谷に渡された綱の上に佇んでいるんじゃないかと戯れに思う。そんな不思議な人だった。
 不思議な人々、おかしな仲間との出会い、石ころ電話、城字という名。遠く、鮮やかな思い出。高校生だった僕は名探偵として杜王町に行き火星に行き宇宙を巡り、この世界だけでなく三十六巡前の宇宙をも巻き込んだ事件を解決した。あの冒険は果たして現実のものだったのだろうか。最近目覚めるたびに思う。全ては夢の中の出来事じゃなかったのか。顔を撫でれば皮膚が弛み皺が寄っている。髪はパサパサの白髪で、老眼鏡をかけなければ三代目洋平(犬)の運んできてくれた新聞がどこにあるかも見えない。時々昨日と今日が曖昧になる。っていうか昨日は何月何日で、それって本当に過ぎ去った過去なんだろうかと。
 そんな輪郭の曖昧になった僕を繋ぎとめる重力の核が城字という名だ。僕は自分が城字・ジョースターだと思い出す。すると一つ一つの出来事が名探偵の脳の中でパタパタと音を立てて整理され、連続した僕、城字・ジョースターという存在を形にする。そして机の上の石ころを手に取ればばっちりだ。そうだそうだ覚えてるぞ、僕はかつて一瞬で身長が二十センチ伸びた上に羽根まで生やされそうになったこともある西暁在住の名探偵、城字・ジョースターだ。
 名探偵らしく様々な事件に巻き込まれ行く先々で殺人事件に出くわしてきた僕の周辺も歳を取って随分静かになった。僕も僕で最近杖で歩くのもしんどいし、曾祖父みたいに車椅子に頼ろうかなあ、でも脚を使わんと余計弱るっていうしなあとか思いながらスローライフな生活をしていたら先の桜が散った頃からちょっと脚が立たないということがリアルに起き始めとうとう車椅子を導入したり、でもジョースター邸は古くからある屋敷だからあんまりバリアフリーでもなくて、生活の場が一階に移ったりジョエコの孫が僕の部屋を占領して名探偵を目指し始めたりとバタバタした変化があるが、僕の心の中はだんだん穏やかに、どんどん静かになる。僕は波紋も、ディスクなしではスタンドも使えないが、それでも自分のことはやっぱり分かるものなのだ。
 夕食の後、誰かが開け放した窓から吹き込む風の匂いをかいで、ああ今夜かもなあと僕は覚悟した。老人らしくいつもは日が暮れれば眠くなるが、今夜は屋敷中の人間が寝静まるまでこうして起きて待っていた。
 僕は待っていたのだ。ずっと前から。
 そして彼も待っていたはずなのだ。ずっと昔から。
 遺言状はとうに用意されている。他に何か言い残したいことは、と考えたがありきたりな感謝の言葉しか出てこなかった。僕は机の真ん中に石ころを置き残し、立ち上がった。杖で十分歩くことができた。窓の外を見る。屋敷から少し丘を登らなければならない。いつもならかったるいと思うところだけど、今夜はそうではなかった。少しワクワクしている。
 丘の上を、草を分けて進む。夜露がズボンの裾を濡らす。パッと見に徘徊老人以外の何者でもないし、このまま帰ったらジョエコの息子に来た嫁が汚れた革靴やズボンのことを叱るだろう。でも、もうその心配はない。ぼくは杖をついてずんずん丘を登る。行く先は分かっている。丘のてっぺんが月の下りてきたかのように淡く輝いている。
 月を背に佇む姿がある。それはギリシア彫刻のように美しい形をして、そして生きている。
「カーズ」
 しゃがれた声がその姿に向かって呼びかける。分かるだろうか。すっかり老いて姿も声も変わった僕のことを、彼は分かるだろうか。
 しかし光は僕に向かって呼びかける。
「ジョージ・ジョースター」
 僕は安心して頬が緩んだ。だらしない笑顔になったかもしれないが、それくらい安心したのだ。
 長いこと人間の前から姿を消していたこの究極生命体は、今再び僕の前に現れ、僕を僕と認識したのだ。何のために?僕の最期を看取るためっていう言い方でも間違いはないし、好意的な解釈をすればそのとおりなんだけど、事実はもうちょっとえぐい。
 僕を、ジョースターという名の人間を食べるためだ。
 覚悟はできていた。ここまできたら言い残す言葉もない。食事に名前をつける気はないと言ったのはカーズだし、僕も人生の最期はこうなるのだと何十年も前から思っていたしカーズ本人とも話し合っていた。来たるべき瞬間なのだ。
 カーズが一歩近づく。視界が光に溢れる。僕は杖を手放す。
 腕を広げ、受け容れる。
 これでさようならや。
 と思ったのに急に目の前が暗くなって、おや、ちょっと唐突すぎないか?と思ったら顔全体にひんやりと冷たいそして硬い感触。あ、と思う間もなく骨針が伸びてきてぼくの脳をずぶずぶと刺す。そして僕の肉体を襲ったのは、かつて経験したあの衝撃だ。身体中の骨がバキゴキボッキンと音を立て変な方向に関節がねじ曲がりでも痛くはなくて、あの時は身長が二十センチも伸びていたけれども、今度のぼくは七十才くらい若返る。
 石仮面が外れた。カーズの手の中のそれは確かに血に濡れていた。誰の血?勿論この場には僕とカーズしかいない。そして僕は無傷だ。
 何が起きたのかは理解できた。全く予想外の出来事ではなかったのだ。
 僕はカーズに手を伸ばす。今まで本当に目がかすんでたのがよく分かる。焦点の合ったクリアな視界。月光の下輝くカーズの姿。初めて会った時の姿のままだ。そして僕もあの時の姿に若返っていた。ただし場所は赤い砂の惑星ではなく、ジョースター邸の建つ小高い丘の上。若草が風にそよぎ、夜露の香りが一帯に満ちている。その中でカーズは月の光を形にしたみたいに、本当に輝いている。かつてはその身体に触れるということさえ恐怖だったけど、今の僕は躊躇わず伸ばした手をカーズの頬に触れさせる。
「やるかな、とは思った」
「逃げなかったな、名探偵」
「文脈に乗るのが名探偵やから」
 謎を解き事件を解決させ物語を終焉に導く。そうだ、僕の物語の終章の最後の最後を紡ぐために。
「で、食べるんだね」
「あれから半世紀以上、祝杯を我慢してやったのだぞ」
 あっという間だろ、と言おうとして言葉を飲み込んだ。そうだカーズにとってさえ、時間は長いのだ。僕を食べてもカーズの生は続く。この宇宙が終わり次の宇宙が誕生しても続く。そこでも歴史は螺旋の繰り返しを続けるだろう。ジョースター家も続く。DIOとの因果の糸もまた切れない。
 でも、僕は多分いない。
 特異点。
 もらわれっ子のジョースター。
 カーズは僕のことを覚えていくのだろうか。この祝杯を永遠よりも長い時間の中の須臾を。
 そんなことを考えるとカーズと一緒にいたいなあっていうかいられるよなあという欲が出てくる。さっきまでの爽やかな覚悟はどこにいった。しかも吸血鬼化された瞬間から僕は喉が渇いてしょうがない。僕が人間の血を吸いに行けばカーズは笑うだろうか。嘲笑を?それとも極上の祝杯が手に入ると普通に喜んで?今でもカーズの思考はよく分からない。結構濃い時間を一緒に過ごしたつもりだったけど。
 するとうずうずしすぎて百面相になった僕にカーズが近づく。
「欲しいのか?」
 ああ、血が。
 血が欲しいんだ。
 今にもその首筋に。長くたゆたう髪を掴んで引き寄せればすぐそこに。
 でも僕は思い出す。
 僕はジョースター家の一員だ。城字・ジョースターだ。
 僕は笑う。めちゃめちゃ無理して笑っているせいで半分泣きそうな顔になっている。
「うん、欲しい」
 僕が何を言うか、カーズは僕の表情、僕の目で理解している。僕は頷く。そうだよ、カーズ。
「君の中に思い出が欲しい」
 せっかくだから背も高くしてもらえばよかったかな。カーズがぼくに覆い被さるようにかがんだ。僕はカーズの両頬に両手を添えて引き寄せた。
 甘い香りがいっぱいに広がる。カーズが僕を抱き寄せるけど、僕はもうその手に触れられるのもこわくない。ただすっかり抱きかかえられてしまっているのが絵面として悔しい。精神状態もちょっと子どもっぽくなったな。でも嬉しい。高校生の僕のころのように嬉しい。そして人生の最期のキスを迎えて、月の光みたいに輝いているカーズを両手に抱いて、心の底から、嬉しいと思っている。
 もう、いつ食べられるかなんて気にならない。薄く目を開けると、カーズも目を細めて僕を見ている。笑っている。僕はもう一度唇を寄せる。
「おやすみ、ジョージ・ジョースター」
 カーズの口からおやすみなんて言葉を聞くのは初めてだ。
 おやすみカーズ、と僕は囁くけれどその時にはもう口も意識も月の光の中に溶けてしまっている。

          *

 時々、僕を呼ぶ声が聞こえる。
 顔を上げるとカーズの綺麗な水色の目が僕を見ている。僕はカーズの掌から舞い上がる。僕は蝶だ。カーズの周囲を飛び回り、長くたゆたう髪に止まる。

          *

 時々、カーズが地面に伏せて瞼を閉じている。睡眠は必要ないから眠っている訳じゃない。
 風が僕の身体をなびかせる。僕は花だ。高原に咲く小さな花。僕は白い花びらでカーズの頬をそっと撫でる。

          *

 光が明滅する。幾億の昼と夜が繰り返される。
 温度が失せ、音が失せ、世界が真っ平らな沈黙の世界になる。カーズはその中にぽつんと浮かんでいる。
 カーズは沈黙の中で静かに待つ。やがて針で空けたような小さな穴から光が溢れ出す。爆発は音より早く世界に満ち、水色の瞳の中が光でいっぱいになると星々のさざめきが身体を包み込む。新しい宇宙の誕生だ。
 僕は何だろう。星の光。ガスの塵。暗黒物質。それともカーズの掌の細胞の一つ。
 何なのかは分からない。でも僕にはカーズの微笑みが、細められた水色の瞳が少し潤んでいるのや、彼の中から溢れた彼の獲得した感情がその造形美に相応しい美しい笑みを作っているのが見える。
 僕は囁く。銀河の渦のうねりのように、彗星の尾の歌声のように。
「おはよう、カーズ」
 カーズも僕に手を伸ばして、言う。
「おはよう、ジョージ・ジョースター」



2013.6.22