ジョニィ・ジョースターの凱旋







 明日は早いのに真夜中の映画を観ていた。白黒のフランス映画だった。ソファに一人だった。ジャイロが帰ってくるのを待っていた。
 キッチンには濡れた皿。夕食は一人で摂った。ジャイロは夜中までのシフトだった。珍しいことではないのに久しぶりのような気がした。出来合いのものを食べ皿を洗い、冷蔵庫からビールを取り出そうとしてやめた。身体は自然とジャイロが隣にいるリズムで動く。肉体の覚えた生活のリズムと現実のギャップに奇妙な余白が生まれる。部屋が広い。持て余してしまった。いつもはこうじゃないのに、今夜は少し寂しい。
 ジャイロが帰宅したのは夜中過ぎで、鍵がガチャンと鳴った。テレビの音より大きく聞こえた。ぼくは立ち上がって彼を出迎え廊下でキスをし、上着を脱がせた。
 彼がシャワーを浴びている間、また映画を観る。内容はよく分からない。字幕もろくにみていない。フランス語は授業でもサボった部類だ。目を閉じると耳馴染みのない発音が耳から耳へ流れて心地いい。
 ジャイロはぼくが居眠りしていると思ったらしく覆い被さってキスをしようとした。
「観てるよ」
 まだ濡れた裸を押し退けながらぼくは言った。
「嘘つけ」
「ほんとだって」
 両手で押し合いへし合いしながら、それでもキスをする。
 ジャイロはぼくの隣にどすんと腰掛けた。タオルでごしごしと頭を拭く。小さな水の粒が頬にかかる。
「髪くらい乾かしてこいよ」
 ぼくはテレビを観たまま言う。
 ごしごしという音が消えた。ジャイロが軽く頭を傾けていた。ぼくは仕方なく立ち上がり、ソファの後ろから手を伸ばして彼の髪を拭く。
「この映画、初めて観るな」
「多分ね」
「もうベッドシーンは終わったか?」
「そこ?」
「フランス映画なんだろ」
 ハリウッドだってイタリア映画だってそうじゃないか。ぼくは笑いながらタオルで髪をごしごしし続ける。そのうちジャイロは気持ち良くなったらしくて首が揺れた。眠いんだろう。キッチンの椅子に座っていた大きめのクマちゃんを取ってくると、ジャイロはそれを抱きこんで顎をクマちゃんの頭の上に載せた。
 映画の終わる頃、ジャイロは寝入っている。身体はすっかり横になって、抱いていたはずのクマちゃんは枕になっている。ぼくは賑やかなCMを流し始めたテレビを切った。光源の消えた部屋は暗く、青く見えた。ジャイロの寝顔が水の中に沈んだもののように見えた。ぼくはそれを眺める。しばらく、いいやずっとこうしていたかった。
 ジャイロをベッドまで抱いていく力がないので、ぼくは一人で寝室に行きベッドに横になる。ベッドが広い。視線を上げると真夜中をとうにすぎた時計が見える。まあいい。明日、飛行機の中で眠ればいい。
「ジャイロ」
 開けたままのドアの向こうに呼んだ。でも来るとは思わなかった。ぼくは目を瞑った。
 夢と覚醒のあわいにごそごそと蠢く気配がした。背中から腕が伸びてきてぼくを抱き締める。ぼくは、ジャイロ、と小さな声で呼ぶ。
「冷てーじゃねーか」
 ジャイロがぼくの耳元でぶつぶつと呟く。
「明日から五日も会えなくなるってのによ」
「寂しい?」
「お前もだろ」
 明日から五日間、このアパートを留守にする。シフトのせいでのすれ違い生活とは違う、ぼくは自分の身体を飛行機でヨーロッパまで運び、ジャイロはサンディエゴで仕事して一人のアパートに帰る。五日間。
「あっという間さ」
 腕を抱き締めると頭にキスを落とされるのが分かる。その後は何も喋らずにお互いの体温だけを感じて眠った。

 パリは肌寒かった。十月もまだ最初の週というのに街角には既に初冬の空気が漂っていた。落葉した街路樹、枯れ色に染まったブローニュの森。タクシーの窓から近づくそれを見る。隣に座るルーシーもぼくの頭を越してそれを見ている。
 観光と言えば観光だが、目的地はブローニュの森のその隣、ロンシャン競馬場だ。
 そう、十月最初の日曜日。
 凱旋門賞。
 世界中のホースマンが憧れる最高峰のレース。
 ぼくがルーシーからフランスの出張についてきてほしいと言われた時、大したことは考えなかった。身一つでサンディエゴにやって来て以来スティール夫妻はたびたび世話になってる恩人だし、ルーシーという女の子はぼくにとって妹というか親族に近しい共感を持てる存在だ。頼まれれば断る理由もない。
 そんな訳でバイトを休んでほいほいついて来たんだけど、普通に考えてスティール夫妻が出張するのにたかだかコーヒーショップのバイトでしかないぼくが随伴するのがおかしい。ゴール前の人混みに揉まれ、ぼくはルーシーが大丈夫だろうかと振り返るけど、それより早くルーシーの細い腕がぼくにするりと絡みついた。
「はぐれたら困るから」
「そうだね」
 ぼくもルーシーを引き寄せる。
 流石にぼくにこれを見せるためだけにこのパリ行きが計画されたとは思わないが、今競馬場の懐かしい熱気の中にぼくを連れて来たルーシーは、そうだとしても構わないのよ、とでも言うかのように笑っている。
「スティール氏は?」
 ルーシーは背後のVIP席を指さした。そこではスティール氏が新聞なんかで見る顔と一緒に並び、喋っている。
「ジョニィも、ジャイロと一緒に来たかった?」
「そうしたかったらそうするよ。今回は君のお伴で来たんだ。仕事はするさ」
 この日は凱旋門賞も含め七つもG1レースが行われる。目の前で始まろうとしているのは二才牝馬のレースだ。ぼくは彼女に解説をしながらそれを眺める。いや、見つめる。
「真剣な目をしている」
「そうかい?」
「やはり憧れの場所なの?」
「そりゃあね。誰だって…」
 ありきたりな答えをしようとするぼくの目の奥をルーシーはじっと覗き込んだ。
「…ぼくがケンタッキー・ダービーで優勝したのは十六才の時だった。でも父は喜んでくれなかった。ディエゴは出ていなかったんだ」
「お父様とは?」
「まだ連絡は取っていない、一度も」
 ゲートが開く。一斉に走り出す馬の群れ。細胞がざわめき、鳥肌が立つ。
 ルーシーはワインを飲みながら寛いでいたけれど、ぼくは正直味も分からなかった。意識はずっと芝の上に惹きつけられていた。青々とした深い芝。それを馬の蹄が蹴り上げる。あの風の匂い。胸いっぱいに吸い込んで溜息と共に吐き出す。ゴールと歓声。
 やがて階段を一段一段上るように静かに緊張が漲る。
 今日の第六レース。凱旋門賞。
 ルーシーがグラスを置く。ぼくのそれは半ばも飲み干されないままとうに放置されていた。
 画面に大きく映るゲートの様子。馬がスタートする。ぼくの耳からあらゆる雑音が消えた。聞こえるのは蹄の音、鞭を振る音、そして自分の心臓の音。もう隣にルーシーがいることさえ忘れている。ほんの三分の馬の走りが物凄い勢いでぼくの世界を埋めてゆく。
 馬の息づかい、蹄の音、どれも耳の側で鳴っているかのようだ。僅かに身を前へ乗り出して目を閉じる。走ってくる。追い上げている。実況の叫びが聞こえる。一線に並んだ中から一頭、抜ける、抜ける。風を味方につけたかのように素晴らしい走りで。
 歓声が聞こえる。強者への称賛、美しいものへの礼賛、そして勝利への喝采。かつてこの身に浴びたもの。浴するほどという表現も相応しいほどにそれらはぼくの周囲に溢れていた。
 瞼を開く。太陽の光が眩しい。目が痛い。
 ジョニィ、と小さな声で呼ばれハンカチを差し出された。ぼくはそれで目元を拭った。泣いているとは思わなかった。
「ありがとう」
 ハンカチで瞼を押さえながら目をつむる。真っ暗な中に小さな光が瞬いている。点のような光は広がり、形をなす。
 ジャイロの背中。
 ヴァルキリーに跨がり熱い偏西風の中を駆け抜けるジャイロの姿が光となってぼくを貫く。
 ぼくはまた大量の涙が溢れてハンカチを濡らすのを感じる。ルーシーはすぐ側に寄り添ってぼくの背を支えてくれた。脚が震えていることにぼくは気づいた。腰をデリンジャーで撃たれてから初めて立ち上がった時みたいだ。早朝のサンディエゴの交差点で車に轢かれかけて立ち上がり、笑いながら歩き出した時みたいだ。
 ぼくは今興奮している。

 カフェの電話ボックスに入り、受話器を持ち上げてちょっと考え込む。昨日と今日のシフトを思い出す。土曜日は夜勤だったはずだ。古い腕時計を見下ろす。時差は十時間。きっとまだ病院にいるだろう。
 番号をプッシュし呼び出し音を待った。小さな窓から見える表の風景はさっきまでの熱気から離れ、穏やかだ。シャンゼリゼ通りを望むカフェのテーブル、ルーシーの姿が逆光で細いシルエットになる。
 呼び出し音が途切れる。受話器から耳に流れ込んで来た英語をちょっと懐かしく感じる。ぼくはジャイロを呼んでもらう。電話に出た職員もぼくのことは知っているから笑いながら、待ってて、と言う。すぐ保留音に切り替わった。
 ぼくは電話ボックスの中で深呼吸をする。なんと言えばいいだろう。何を言えばいいのだろう。とにかく今、ぼくの気持ちを伝えたい。この心から溢れ出しそうなものを全部。
 なのに。
『ジョニィ?』
 ジャイロの声を聞いたら喉がつかえてうまく喋れない。唾を飲み込もうとしても口の中に余分な唾液はなくて、余計に喉が攣る。
 大きく深呼吸を繰り返すと荒い呼吸が向こうにも届いたのか、ジャイロが心配そうな声で呼んだ。
「ジャイロ……ジャイロ、聞いてくれ」
 ぼくは言う。するとレーススタート前のように、また耳の中が静まりかえった。ジャイロは沈黙を守ってくれた。ぼくの言葉を待っていた。
「ぼくは…歩き出さなきゃならないんだ」
 そうだ。ぼくに奇跡を与えたあの光はこう言った。何をしてもいい、と。
 ぼくの腰には奇跡が埋め込まれぼくの両脚は立ち上がった。
 ジャイロはぼくを再び馬に乗せてくれた。
 それなのにぼくは何故このことを考えなかったのだろう。
 再びあそこへ。馬の背に乗って、土の、芝の匂いのする、熱気と興奮の渦の中心へ戻ることを何故、考えなかったのか。
 怖かった?無理だと思っていた?もう動かないと思っていた脚が動くようになったのに、今更どんな無理があるっていうんだ。ぼくは自分の肉体を、この脚を動かしてどこへでも行くことが出来る。何をすることもできる。ぼくがしたいと望めば。
「ぼくは、もう一度、走りたいんだ」
 ぼくは望んでいる。
 そのことを、神の前で誓い合った君にあまさず伝えたい。
「優勝の歓声の中で君を抱き締めて、キスをしたい」
 説明足らずのぼくの言葉にもジャイロは笑わなかった。黙ってぼくの言葉に耳を傾けていた。ぼくは何も言わない彼の眼差しを感じた。
「ジャイロ」
 目の前にいるように呼ぶ。また目が涙に潤んで、小さな窓から見えるパリの景色も滲む。ここは狭い電話ボックスの中だ。
 電話線の繋ぐ遙か彼方、サンディエゴに向かってぼくは囁く。
「ジャイロ」
 遠くにいる彼に、遠くからこちらへ引き寄せるように囁く。
『ああ、ジョニィ』
「明日には帰るよ」
『迎えに行く』
「ジャイロ」
 上を向いて、と言うと彼が黙ってそうしたのが分かった。
 音のしないキスをそっと受話器から送った。
『ジョニィ』
 ジャイロの声が耳に触れる。
「ありがとう」
『イッツ・マイ・プレジャー』
 電話ボックスを出るとルーシーがフランス人の若い男にナンパされていた。ぼくはそれを追い払いルーシーの向かいに座った。
「ジャイロは?」
「まだ病院にいたよ」
「そう…。話せたのね」
 うなずくぼくの額を引き寄せ、ルーシーはやさしい祝福をしてくれる。

 週明け、サンディエゴ国際空港に到着したぼくを、ジャイロはヴァルキリーで迎えに来た。ルーシーだけじゃなく、その場にいた皆から拍手されて送られた。ぼくはヴァルキリーにありがとうを言い、厩舎ではまたぼくの顔を舐めてくれたスロー・ダンサーの鼻にキスをした。
 ジャイロとキスをしたのはアパートに戻ってからだ。
「上を向けよ」
 廊下に十月の静寂。パリはもう寒かったけどここは暖かい。ジャイロの指が耳の後ろに触れる。ぼくは上を向き、目を閉じる。



2013.6.18 跳ね箸さんのリクエスト。ジャイジョニ、パリ、午後。