黄金の皿、神の手、天気雨







 午後である。パリは雨だそうだ。ラジオの天気予報が伝えていた。
 昼時を過ぎた食堂は静かで薄暗かった。フーゴはテーブルの片隅に腰掛け、遅い昼食を摂っていた。大したものは必要なかった。水とほんの少しの野菜で今日は十分だった。体調が悪い訳でも、逆に調子が特別良いという訳でもない。朝からパッショーネの屋敷に射す日の光も、彼の精神状態もフラットだった。明るいが、透明だった。
 雲が破れて青空が覗く。風は雲を押し流し新たな雲が窓の外を覆うが、それも風に破られてしまう。透明な光が射す。フーゴの空っぽに近い皿がきらりと光る。食事はいつの間にか終わっていた。
 椅子にもたれかかり広い食堂を眺めた。パッショーネの屋敷の食堂だ。組織の構成員になったのはかつてのチームの中でも早い方だったが、それでも足を踏み入れたことのない場所だった。今ではここにも自由に出入りできる。屋敷の、そしてフーゴの主である青年はどこへ行ったのだろうか。昼時はとうに過ぎた。執務室か。しかしさっき空っぽのそこをフーゴは出てきたのだ。私室か。だとすれば昼寝だ。ミスタも一緒にいるだろう。
 光がゆっくりとテーブルの上を流れてゆく。皿の上を通り過ぎ、白いテーブルクロスの上を滑って床へ流れ落ちる。ぼんやりとした視線でそれを追っていると、不意に脚に触れるものがあった。
 テーブルクロスを越して何かが触れていた。しっとりとした重みを感じた。布ごしのぬくもりも感じられるようだった。猫か。
 だが食堂は物音一つしない。
 フーゴは身体を傾け、足下を覗き込んだ。テーブルクロスは確かに自分の脚へ向けて傾いていた。
 ゴツリ、と音がした。硬い音が床の上に転がり、また静かになった。フーゴは身体を傾けた姿勢のまま、何故かわずかな恐怖を感じた。得体の知れないものへの恐れ。幽霊?馬鹿馬鹿しい。しかし本当にそれを笑えるだろうか。
 頭の上を雲間から射す光が流れた。ぼとりと床の上に落ちた光は緑色に反射した。テーブルの下に転がっているのはペリエの瓶だった。緑色のガラス瓶、穏やかな曲線。フーゴの脚にはしっとりとした重みが蘇る。
 この瓶だった、のかもしれない。ぬくもりは幻だったのかもしれない。猫だろうという思い込みによるものだ。
 しかし何故こんな所にペリエの瓶が?空っぽだ……。
 音の前に耳が気配を感じとった。フーゴは顔を上げた。食堂の扉が開くところだった。顔を出したのはジョルノだった。
 彫刻のような美しさを孕んだ無表情が、わずかに人間的な苦い微笑に変わった。
「いたんだね、フーゴ」
「ジョジョ…」
 立ち上がろうとするのを、ジョルノは視線だけで制した。フーゴは浮かしかけた腰を下ろす。
「少し喉が渇いた。君も飲むかい?」
 食堂を横切り厨房のドアを開けるジョルノの姿に違和感を感じる。
「ジョジョ…?」
 あまり大きく開けないドアの隙間からジョルノは厨房に滑り込み、そして暗がりから、ああ、と嘆息が聞こえてきた。
 フーゴは立ち上がり厨房のドアを開けた。空の破れ目はまた雲で隠され、食堂はわずかに薄暗く、同時に影と光の境のないフラットな仄明るさとなった。均一化された薄灰の光景の中、フーゴの見た違和感は浮かび上がった。
 ジョルノは食器棚に手を伸ばしていた。正しくは伸ばそうとしていた、のかもしれない。腕が持ち上がりガラス戸を開けようとしていた。しかしできなかった。袖口から覗くはずの手首から先がなかったからだ。
「ぼくの右手、見ませんでした?」
 傍らに浮かび上がるのはゴールド・エクスペリエンス・レクイエムの姿で、磨き上げられた水晶玉のような眼球がじっとフーゴを見つめていた。
 ジョルノの微笑と感情を超越した双眸に見つめられ、フーゴは身動きができなかった。思い浮かんだのはテーブルの下のペリエの瓶だった。だがジョルノの能力は生命を与える力だ。その逆ではない。いや、だから構わないのだろうか。ペリエの瓶を失った右手に変えてしまえばいいのだろうか…。
 ジョルノは左手でグラスを二つ取り出すと、左手で大きな冷蔵庫を開け、左手で冷えたペリエの瓶を取り出し、左手のみで器用にスクリューの蓋を開けた。
「はい」
 なみなみと水の注がれたグラスを差し出され、フーゴの金縛りが解ける。フーゴは恭しくそれをいただき、ジョジョ、と呼んだ。ジョルノは自分のグラスも同じように満たして、一口呷った。薄暗い厨房、影に満たされた透明な明度を切り裂くように、黄金の掌がジョルノの背後から伸ばされる。
 ヴェネツィアングラス。半分残ったペリエが揺れ、グラスの中を一周する。赤く染まる。黄金の両手は優雅な仕草でそれを支える。空虚な袖口にガラスの手首。切り子細工の指。
 ジョルノは棚から新しいグラスを取り出すと、作ったばかりの新しい手の調子を見るように右手でペリエを注いで、右手でそれを呷った。
「もうしばらくしたら起こしてくれるかな。午後の内に終わらせたい仕事があるんだ」
 その為にもう半時間だけ眠るよ、とジョルノはフーゴの脇を通り過ぎた。振り返った時には食堂の扉が閉まるところだった。扉の閉じる瞬間の、黄金の軌跡が霧のように舞うのをフーゴは見た。
 口の中はからからだった。ペリエを一口飲んで息をついた。厨房のドアにもたれかかるようにしゃがみ込むと、もう一度、大きな溜息を吐いた。
 自分をしゃがみこませたもの、溜息を吐かせたものを見つめ直し、恐怖ではないとフーゴは結論した。ジョルノのその能力に彼は何度も、そして決定的に救われてきたのだ。
 畏怖、は勿論あった。だがそれだけではなかった。思うのは自分が跪き口づけする手の甲、ミスタが触れるその肉体は本当にジョルノのものなのだろうかということだった。だが何を疑うことがあるだろう。ジョルノが触れるものは総てジョルノとなる。ジョルノは生命そのものだ。瓶の中から溢れ出す水、中庭に咲き乱れる花、風にそよぐ梢も、草陰に憩う虫たちも、そして自分が死にゆく時はこの肉体もとうとうジョルノ自身となるだろう。
 幸福と名をつけるには余りに穏やかで波がなくフラットだった。薄曇りの窓のように、光らずだが確かに光に満たされている。取り敢えずフーゴは腕の時計を見た。半時間を覚えた。
 テーブルの上にはほとんど空っぽの皿が忘れられていた。フーゴはさっきまでついていた席に戻り、今度は手にグラスを握りしめたままなのを忘れていたことに気づいた。ペリエを最後まで飲み干し、もう一度溜息をついた。
 靴の上に触れるものがあった。フーゴは静かに息を止め、グラスをテーブルの上に置いた。息を止めたまま足下の覗き込んだ。
 緑色の目をした灰色の猫が自分を見上げていた。口を開けて笑ったようだったが声は上げなかった。猫はするりと滑ってフーゴの足の間をすり抜け、半分開いたままの厨房のドアから暗がりの中へ姿を消した。
 フーゴは立ち上がった。皿は置き去りにした。きっと誰かが片付けるだろう。厨房に入り猫の姿を見るのかペリエの空き瓶を見るのか。正体を確かめることほど野暮なこともない。
 半時間、と繰り返し食堂を出る。薄暗い廊下の向こう、玄関のステンドグラスがやにわに輝きを放った。フーゴは廊下の真ん中に立ち竦み、その光景を見た。無機物を生き物に変える力、生命の輝き…。
 追って雨音が屋敷を包み込んだ。天気雨だった。



2013.6.11 跳ね箸さんへの誕生日プレゼント。日付を越えた。