今宵、最も罪深き一夜
飛行機は夕暮れの空を飛んでいた。サンディエゴの感覚からすればまだ早い時刻だったが、窓から見下ろされる雲はすっかり茜色に染まっていた。それは美しい眺めでもあったのでジョニィは隣の男をちらりと見た。気分に余裕があるようであれば彼をこの窓に誘おうと思った。しかしジャイロはいつになく難しい顔をしてプリントアウトした資料や膝の上の本に目を通し、所々アンダーラインを引いてじっと口を噤んでいた。唇は動いていないが頭の中ではひっきりなしに考えているのだろう気配がひしひしと伝わってきた。 医師、というよりは研究者の顔なのだろうと思う。イイ男の顔だと思わなくもない。トータル一昼夜におよぶフライトの間中ほっぽかれた末でなければ、イイ男だと見とれるのも吝かではなかった。ただ、今はもうどうしても退屈で仕方がない。ジョニィはあくびを噛み殺して雲の下を眺めた。 遠く離れた地上に、夕陽の色をそのまま鏡のように反射するものがあった。川面、それから湖。機内アナウンスが着陸の近いことを告げる。ハンブルク。茜色の夕景のイメージに反して、外は相当寒いということだ。 決して観光ではない。最初はジョニィが同行する予定もなかった。ジャイロがハンブルクに行くのは学会に出席するためであり、事実この機内でも資料から顔を上げようとしない。これはれっきとした出張なのだ。しかしハンブルク行きを聞いた誰も彼もが当たり前のように聞く。じゃ、土産はお前に頼めばいいのか、ジョニィ。 何も一人で行かなければならない理由はない。二人もあっさり頷いてジョニィはマスターにまた休む話をし、ジャイロは二人分のチケットを取った。 その時はまだ何か期待をしていたが、裏切りもまた人生の随所に散りばめられている。人生の側からすればほんのスパイス程度だろうが、ジョニィがあくびを噛み殺すのはもう何度目だろうか。 ようやく飛行機から降りて地面に降り立つ実感を味わっても、お互い出るのは溜息ばかりで、口数少なく早々にホテルにチェックインし、夕食を摂った。 適当に注文したのがいけないのだ。出されたのは鰻のスープだった。ジョニィは三度「ウナギ?」と聞き返し、結局口をつけなかった。ジャイロは食べたが何も言わなかったし、ジョニィも感想を求めなかった。その夜は早く寝た。 ベッドの上でジョニィは一度、目を覚ました。時計を確認しようとしたが、文字盤が暗く分からなかった。ジャイロの寝息が聞こえた。息が浅い気がした。いつもなら抱き締めて眠るところだったが、目の前にあるのは広い背中だけだった。ジョニィは静かにベッドから起き出した。 浴室の明かりをつけると、疲れの取れない不機嫌そうな顔が正面の鏡に映った。 ――今日、あんまり喋ってないな。 蛇口をひねるとぬるい水が流れ出した。それをコップいっぱいに注ぎ、うがいをしてベッドに戻った。 シーツに潜り込む際、ジャイロがわずかに起きているのを感じた。しかし彼も、ジョニィもまた何も言わなかった。すぐに目を閉じて、再び眠りについた。 翌朝、朝食もそこそこにジャイロは学会の開かれる大学に向かい、ジョニィは一人ホテルに残される。一人でどこにも行けないということもないが、頭を昨夜の鰻のスープがちらついた。ガイドブックに載っているレストランに行く気もしなかった。ハンブルク港で遊覧船にでも乗るか。赤煉瓦の建物が並ぶ倉庫街にでも行くか。どれもお定まりだ。 そしてジョニィはハンブルクと言えばお定まりもお定まりの通りにやって来たのだ。通りの入口で彼はしばし立ち尽くしてしまった。真昼のレーパーバーンにやって来るとは思わなかった。とは言え、夜にやってくる予定だったという訳でもない。赤を基調とした原色のネオン、ピンク色のウィンドーは昼間でもそれなりの雰囲気を醸しており、さすが名に聞く世界で最も罪深い一マイル。 同時に陽の下ではカフェやレストランも当たり前の顔をして営業しており、グローセ・フライハイトとの角にあるビートルズ広場では観光客が写真を撮っている。ジョニィはそれを横目に立ち止まり、自分の隣を振り返った。バンドの相棒は今頃、プロジェクターの光を浴びつつ発表の最中だろう。ジャイロがいないことも、手の中にギターがないことも物足りなかった。小さく、誰にも聞かれないような声でゲット・バックを口ずさみ、通りを進む。 真っ昼間からディルドを装着したマネキンなんかを見るとムラムラするよりも軽く二日酔のような気にさせられる。夜なら楽しい見物だったかもしれないが、いかんせん降り注ぐ陽は明るい。冬のドイツと聞けば常に曇っているか薄く雪の積んだ泥濘のイメージがあったから、青空の下レーパーバーンを一人歩く自分の姿というのは、ちょっと現実離れして感じた。 そのウィンドーに目が留まったのは、他ほどけばけばしいピンクが用いられておらず薄暗かったから、自然と目が休まろうとしたのだろう。けれども飾られているのはボンデージや鎖や鞭といった類いのもので、決して青空の下堂々と健全な訳ではない。それでも目が留まった。入口は開いていて、薄暗い店内の、開いたドアを押さえるようにして男が立っているのが見えた。コーヒーを片手にジョニィを見ていた。黒髪で、眼の色の深い黒は全体の雰囲気を東洋人的に見せていた。 「君の手はそうでもないが」 唐突に男が言った。 「君に触れる人間の手は美しいようだ」 何のことを言っているのか分からない。ジョニィは振り返ったが自分に触れる人間どころか人影さえなかった。 「幽霊でも見たのか?」 きき返すと、男は肩をすくめてドアの前から退いた。入口がぽっかりと開いた。ジョニィは店の中に踏み込んだ。 店内は所狭しと箱が積み重ねられていたが、居心地は悪くなかった。たとえボンデージを着たマネキンのトルソが並んでいても、それは変わらなかった。男は奥から新しいコーヒーを運んできてジョニィに手渡した。ジョニィが初心者的ドイツ語でありがとうと言うと、それも気にならない様子で髪に触れた。口元まで運びかけたカップが思わず止まる。熱い湯気の立ち上るコーヒーの上を波紋が、ひそかに吐いた息に押し出されて広がった。 男が触れようとしたのは髪そのものではなかった。耳に、正しくは耳の裏に触れるような仕草をした。ジョニィは間近で見る男の手が、よっぽど美しいことをその目に認めた。 「悪くない」 男が言う。 「何が」 「君の恋人は悪くない手をしている」 透視能力でも持っているのか。しかし遙々ドイツまでやって来て、しかも真昼のレーパーバーン、あやしげな店の並びに、あやしげな東洋人風の男、幻術になどどこでかかったと見分けるのも難しい。ジョニィは正気の境界線を探すのを放棄して、話を合わせた。 「会ったことがあるみたいだな」 「ない」 意外に男の返事はにべもなく、しかし「会う必要はない」と続けられた言葉にはジョニィも訳も分からないまま頷いてしまうような奇妙な確信に満ちていた。すっかり男のペースだ。 「手が、どうかしたのか。コレクションにでもするつもり?」 トルソの横に並ぶ幾つかの手はマネキンのそれではなく彫刻らしく、手錠を嵌められていたり、あるいは鞭を握っていたりする。男は答える。 「コレクションしているのは女の手だけだ」 振り向く視線に誘われるように目を遣ると、奥にモナリザの複製画。ジョニィが敬意を、というつもりで軽くカップを持ち上げて乾杯すると男が初めて笑った。口元が少し微笑む程度の微笑だったが、この店に足を踏み入れる本物の許可証を発行されたような、そんな雰囲気だった。 妹だという女が店の奥から出てきてぶっきらぼうな英語で何が望みかと尋ねる。 「あなたが?それともあなたの恋人の好み?」 兄らしい男はジョニィの恋人が男だと教えてやる必要を感じていないらしく、黙ってロープの類いを取り出す。 「いや、別に、ぼくは…」 「縛るのは嫌か?」 「縛られる方なんでしょう」 「そうじゃなくて」 目隠し、猿轡、革手錠。 たまの刺激は悪くない。ちらりと思う。 が、そんな凝ったことをしなくてもいいのだ。 「そういうのじゃなくて」 落ち着いた声でジョニィは言い、カップをカウンターに置いた。ウィンドーに寄る。ボンデージ衣装が表の光を受けて艶々と輝いている。 「ラバー?」 「それはね。革はこちら」 妹がトルソの肩を抱いた。見ているだけで皮膚呼吸が困難になるようなぴっちりとしたスーツ。腕に幾つも取りつけられたベルトが何のためかは聞くまでもない。 そうじゃなくて、とジョニィは繰り返した。 「拘束衣みたいなのじゃなくて、もっと視覚に体型的に訴えるものはないかな。締めつけるのはありだけど、もっとこう、魅せるようなものは?」 「誘惑するような?」 背後で少し男の笑う気配がした。 妹は自分のくびれた腰に手を這わせる。 「コルセット?女ものしかない」 「が、似合わないということではない」 妹の言葉を継ぎ、男は箱から別のものを取り出した。 コルセット。女のものだと思っていた。それに昔のものだと。鯨の髭で作ったボーン、女性の美が歴史を紡ぐ。 男が取り出したのは下着と言うよりファッションのようなカラフルな印象で、白地に飾りのレースが明るいピンク色をしている。 しかし妹が首を振り、また別のものを取り出した。ボーンは黒、生地は真紅。 「これはどうだ」 「乳首が見えるかもしれない」 「着せてみれば分かる」 「いや、あてるだけで…」 ジョニィの言葉には耳を貸さず、店員二人は上着を脱がせ服も脱がせた。 「見えるわね」 鏡はないが滑稽な格好をしているのはよく分かった。男はもう次のものを取り出している。 「カップは小さい。その分、締めつける」 「そのために選んでいるんでしょ」 新たに取り出されたそれは布が多用されていて、ウィンドーのものよりも純粋にファッション的な感じはした。しかし腰は砂時計のようにしっかりとくびれているし、背面のリボンも美しいがその目的は身体を締め上げるためにある。 それをあてられた格好のまま黙っていると、男も妹もジョニィが気に入ったのだと理解したようだった。とうとうベルトまで外された。 「悪くない」 男が言った。 「悪くないわ」 妹が言い、姿見をジョニィの前に置いた。 「…悪くない、か」 似合うという積極的な言葉を用いなかったが、自分でも意外なほど違和感というものはなかった。 これをホテルに持ち帰ってジャイロに着せてもらうのでは意味がない。妹が店の奥から階段の上に向けて声を上げる。降りてきたのは五十絡みの女で、目が悪いのか薄い色の入った眼鏡を掛けていた。しかしジョニィを一目見るなり声を上げ、心底驚いた表情を見せる。 「ポルノスターがいるわッ」 ジョニィは黙っていた。スターかどうかはさておき、そのようには見える。 不思議なのは男も妹もそれぞれに驚いた表情をしていたことで、珍しい、と男が呟く。 「彼女に人間と認められるヤツは少ないんだ」 「それ、喜ばしいことなのかい?」 女は妹が耳打ちすると、母親のように優しげな表情でジョニィの背後にまわった。 「そう、恋人のためなの。そう…」 衣擦れの音。リボンに手をかけたのだ。 「さあ気合い入れてねぇ。口から内臓が飛び出るわよぉ!」 シュッと衣擦れの音。一瞬にして息が詰まる。 きゃはは、と楽しそうに笑い女はジョニィの身体を締め上げ始めた。 ジョニィはベッドの上に横たわり、ゆっくり目を閉じたり開いたりした。そのたびに見える時計の文字盤に短い溜息をついた。学会の後で催されるパーティーがどれくらい時間のかかるものなのか分からなかった。ジャイロを待つということはジョニィが彼と出会ってからよくあることだったし慣れたものだと思っていたが、今夜はひどく苦しかった。勿論、肉体的な面でもそうである。 早く帰ってきてほしいと考えたのは空腹のピーク時だった。上からパーカーを羽織ってしまえばコルセットを着けていることなど分からないからどこかに食べにでも、出るのが面倒ならルームサーヴィスでもと思ったが、口に入れて嚥下した次の瞬間には胃から追い出されて逆流しそうな不安感があった。 ――多分、吐く。 水の一滴も喉を通らない。欲しくて欲しくてたまらないが、食欲という本能にまかせて全てを台無しにする訳にはいかない。何のためのレーパーバーン、何のためのコルセットだろう。何のためにこの苦しさを我慢しているのか。 会いたいという思いと苦しみは二重螺旋を描いて綯われ、最終的にジョニィは不機嫌な顔になる。機嫌が悪いというよりいっそ無表情に近い。ベッドに横になり、瞼を閉じる。締めつける苦しみが肉体の形をなし、魂の形も規定する。魂が苦しみで形作られる。するとコルセットで締めつけるよりも昔からジョニィを構成してきた苦しみが首をもたげて、我も我もと瞼の裏に去来した。ニコラス、実の父から投げられた侮蔑の視線、虚しい勝利、そして貫くような痛苦として蘇る腰の傷。 ジョニィはだらしなく口を開いた。助けを求める声を上げたかったが、誰の名前も呼ぶことができなかった。勿論呼びたいのはジャイロだが今頃ドイツビールで酔っ払っているのかと思うと遣り切れない。ふらふらと立ち上がり、浴室の明かりを点けた。正面の大きな鏡にコルセットを身につけた自分の姿が映っていた。 ――男が、コルセットを、着けてる。 男を誘惑するためにだ。馬鹿馬鹿しさに終止符を打とうと背中のリボンに手を伸ばした時、ノックが聞こえた。 「ジョニィ」 ノックの音さえ陽気だった。気持ちのいい具合にアルコールが入っているらしい。ジョニィは振り返り、わずかの間逡巡した。帰ってきてほしい男がまさに帰ってきた。その割に喜ばしさはなく、事実だけがある。 暗い部屋を横切るのさえ億劫だったがここでドアを開けてやらねばジャイロは一晩を廊下で過ごすだろう。浴室の光を背に受け、のろのろと部屋を横切った。 ドアを開けると、まず溢れ出すようなジャイロの笑顔が目に入った。学会も無事終わり、ビールで上機嫌なのだろう。頬もかすかに赤い。 しかし笑みに細められていた目がまん丸に開き、ジョニィを見る。ジョニィはドアを開けたポーズのまま腕を伸ばし、ちょうどジャイロを通せんぼをする格好だった。廊下の明かりはジョニィの格好を照らし出すには十分だった。 胸元が黒いサテン地のプリーツで飾られているのも、その下を砂時計の首のようにくびれる曲線も。ボーンに沿ってアシンメトリーな模様のレースがコルセットを飾っている。光の加減で光沢を持つ部分とそうでない部分が分かれ、その美しさを目に焼きつけているはずだ。 しかし当の本人は、その首から上は無表情に限りなく近い不機嫌であり、口も利かなかった。これまで欠かしたことのないおかえりの挨拶もなしだ。 ジャイロとしてはどこから驚いたものか、言葉にすることもできない様子で、しかし目はしっかりと目の前の姿を観察している。 互いにドア口で硬直したままの時間がどれだけ続いたのか、先に動いたのはジョニィだった。黙ってジャイロに背を向け浴室に向かった。そしてさっきまでと同じポーズでドア口に両手を滑らせ、首を俯けた。 背後でドアの閉まる音がする。視線だけを上げると背後に迫ったジャイロの姿が鏡に映っていた。 「…ジョニィ?」 呼ばれて視線だけは遣るが返事はしない。するとジャイロは少し苦く笑う。 「誘ってるんじゃあないのか?」 科白と一緒に腰に伸びる手は闇の中から伸びてきたようだが確かにジャイロの手だ。その手、その指、その爪だけを見てもジョニィはジャイロの手が分かる。 ジャイロの手はこちこちに固められくびれた腰を撫で、すげーな、十センチはマイナスしただろ、と呟く。 「…そそられる?」 ジョニィは首を反らし全体的な姿勢を正す。もとよりコルセットのせいで姿勢が悪くなりようもなかったが、それでも意識をすればラインは理想的な美しさを得る。ジャイロは鏡の中で視線を合わせ、取り戻した笑みをジョニィの頬に寄せた。 「どうする」 「君の好きにすればいい」 「ここで?」 「君が望むなら」 消極的だな、と頬を抓られる。その瞬間に限界を超えた。ジョニィは瞼を閉じ、背後のジャイロにもたれかかった。ふわりと涙が滲んで、一筋こぼれた。ジャイロが驚く。 「おい、ジョニィ?」 「ファックでも何でも好きにすればいい」 「どうしたんだ、おい、マジで」 「苦しくてたまらない…」 腕が力強くジョニィを抱き締めた。髪の上に降るキスを感じた。ジャイロは笑っていたし、呆れてもいるようだった。呆れてるんだろうと尋ねると、愛しいんだと答えられた。 洗面台に両腕をつき、身体を支える。待ちわびた衣擦れの音がして、リボンの結び目がほどける。まるでブーケのように装飾されたリボンが垂れ下がる紐になる。ジャイロはその端を手にとって恭しくキスをした。 一つ一つ縛り上げていた編み目が解ける。肉や内臓が元の位置に戻っていいのだと教えられ呆然としているかのようだ。痺れのような鈍い痛みがじわじわと身体の外へ拡散する。 最後の一解きでジャイロは手を止めた。ジョニィは鏡の中から背後の男を斜に見上げた。 「名残惜しいとか言ったら、撃つ」 「名残惜しいぜ」 肘鉄を食らわせてやったのに効いていない。むしろ嬉しそうだ。 ジャイロは腕を伸ばし、ずり落ちそうになったコルセットとジョニィの身体を支えた。 「大丈夫か?」 ジョニィは自分の腕で身体を支え直す。ジャイロはコルセットをまじまじと眺めた。 「ジョニィ」 「なに?」 片腕にコルセットを、そしてもう片腕にジョニィを抱えてのキス。ジョニィはコルセットをしていた自分といつもの自分に二股をかけられているような気になりながら薄目で抱えられたコルセットを見る。たった今まであの腰の形だった。軽くマイナス十センチ。光沢のあるプリーツとレースの模様。 両方を抱えてベッドまで移動することは無理だ。ジャイロが選んだのはジョニィだった。コルセットは浴室の乾いたタイルの上に転がる。 ベッドに俯せになる。ちらりと時計を見るとあれから一時間経っている。ジョニィはシーツに向けて溜息を吐いた。ジャイロはその脇に腰掛け、黙ってジョニィの背中をなぞる。締め上げられて真っ赤になった痕を柔らかな指先が撫でる。 「何か食うか?」 「欲しくない」 「食ってねえんだろ」 「食べたくない」 空腹が過ぎて、既に気持ちが悪い。ジャイロはミニバーから幾つか瓶を取り上げて見せた。ジョニィは泡入りの水を指さした。 ジョニィはもう起き上がる気がなかった。顔だけを横にずらすとスプーンが差し出された。子どものようにそれを飲んだ。 スプーンに一杯ずつジャイロは水を注ぎ、ジョニィの口元に近づける。ジョニィは子どもか赤ん坊のように無防備にそれを飲んだ。スプーンを咥えると、行儀が悪いと怒られた。がちん、と歯で一度噛んでから返す。 ようやく笑みがこぼれた。空腹が空腹と感じられるようになった。半身を起こし、瓶を手に取った。流れ込む水は喉や胃の腑でぱちぱちと弾け、心地良かった。 電話の横にはルームサーヴィスのメニューがあったし、望めばジャイロは電話をかけてくれたはずだった。しかしジョニィはそうしなかった。両手で彼を抱き締め、今度こそキスで彼を誘った。身体に痕が残っているうちにしたかった。 ジャイロは服を脱ぐのを慌てなかった。もう彼を追い立てるものはない。 「明日のフライトの時間以外な」 「今夜は寝ないで、明日飛行機の中で眠ればいい」 ジーザス、と呟きつつも笑うジャイロは、同じく笑いつつも言ったことは本気らしいジョニィの手を導く。 「今度はぼくが脱がせる番?」 「じゃないかと思ったんだが」 「ぼく、疲れてるんだ」 「おいおい、今夜一晩もつのか?」 「君次第さ」 結局ジャイロは自分でスーツを脱ぎ、床の上に散らかした。クローゼットなど見向きもしない。 「たまにはこういうのも悪くないな」 囁きながらキスは赤い痕の残る胸から腰に下りてゆく。 ジョニィが疲れていると言ったのは嘘ではなかった。空腹は癒されていなかった。またジャイロも緊張と責務から解放されてネジが緩んでいた。熱は性急な昂ぶりではなく、シーツの下の二人の身体にゆるゆると沈殿する。 ジャイロがドイツ人の教授に言われたというジョークを披露した。ジョニィは鼻先だけでふーんと言った。 「やっぱ、そうでもねえよなあ」 「流石ドイツ人ってことだろ」 「…他に言うことないのか」 「君が一番だって言ってほしいわけ?」 「是非言われたいね」 プリーズ、ジョニィ、と囁かれジョニィは微笑んだ。力無い脚を腰に擦り寄せ、両腕で相手の首を抱く。そして今にもとろけそうな声で耳元に囁いた。 「君が一番だよ、ジャイロ。敵うヤツなんて世界中どこにもいない」 囁きの甘い余韻の中、二人は視線を交わした。だんだん我慢しきれなくなった。先に吹き出したのは言った当人のジョニィだった。二人、ベッドの上で大声で笑った。 「ああ」 笑い疲れて涙さえ滲ませながらジョニィが言った。 「早くサンディエゴに帰りたい」 「ハンブルクはお気に召さなかったか?」 「悪くないけど、ギターがないから。本当は今すぐにでもギターを抱えて君の隣で歌いたい」 「これ、やめてもか?」 「うーん」 ジョニィは唸り、やっぱりこれの後、かも、とジャイロを抱き寄せた。 翌朝、あくびをしながらもアラームに起こされた。荷造りをしながらジャイロが口ずさんでいるのはいつものオリジナルの歌ではなくゲット・バックだ。ジョニィは黙って肩をぶつけた。 「どうした」 「何でもない」 ホテルを出ると昨日とは一転した街の景色、えげつなく身を切るような風に二人声をそろえて寒い!と叫んだ。雪が降っていた。 「確かに早いとこサンディエゴに帰りたいぜ」 ジャイロは洟をすすり上げながら言った。 「飛行機が飛ばなかったらレーパーバーンに行こう」 「朝から大胆だな、ジョニィ」 「馬鹿、ビートルズ広場だよ」 ジャイロがゲット・バックをハミングする。 雪化粧のハンブルクを、腕を組んで歩く。
2013.6.7 YuU様のリクエスト。ジャイジョニ、ハンブルク、冬。
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