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風と梢に、かくされた湖に、我らの帰る場所に
空港のざわめきが心地良く、もうしばらくベンチに座っていたいと思う。否、地に足をつけていることの安心感だ。もうしばらく乗り物には乗りたくないと思ってしまった。 ――馬以外。 とジャイロは胸の中で付け加える。 咳を堪えると隣から心配そうな目が見つめた。ジャイロ、と控え目に呼ばれる。 「…ジョニィ?」 「病院、行く?」 「医者はオレだぜ」 「分かってるよ。ともかく市内に行こう。ここにいたんじゃどうしようもない」 思いやっているようで有無を言わさない口調だったので、ジャイロは妥協案を提示する。 「五分」 「なに?」 「あと五分だけ」 するとジョニィは溜息をついた。 「ここはぼくらの部屋じゃないんだぞ?」 「分かってるよ。オレらのベッドじゃねーんだろ」 「じゃあここがどこか言ってみろ」 「ナポリ」 生まれ故郷の街、その中心から北東に外れた空港にようやく到着したばかりだ。サンディエゴを出て二度の乗り継ぎ。機中で夜を越し、三食不味い飯を食ってやっと辿り着いたのだ。 「根性出せよ」 と言いつつもジョニィも五分は許容するつもりらしく、ベンチの背もたれにもたれかかる。腕が頭を抱き寄せた。その肩に重い肉体をあずけながらジャイロは瞼を閉じた。清潔な構内にこだまする懐かしい祖国の言葉。そうだ、とうとう帰ってきた。ナポリだ。それなのに隣にはジョニィがいる。グラッツェと囁くと、あと四分半、と返された。 ナポリ。いつかは里帰りすると思っていた。ごくたまに電話する母親はたまには顔が見たいと言っていたし、彼が読んだかは知らないがジャイロは一度父親に手紙を書いている。そこにはジョニィのことも、ジョニィを人生のパートナーとして考えていることも記した。半ば家出のようにアメリカへ渡ったツェペリ家の長男が同性のパートナーをつれて帰ってくることを、あの厳格な父のことを考えれば歓迎するとは思えなかったが、それでもジャイロ・ツェペリが唯一その本名を明かし神の前で誓い合う相手を得たのだと、そのことを誇っていると伝えなければと思っていた。 とは言え、頃合いは図るべきであり、それ故に『いつか』というプランだった訳なのだが、先週病院にかかってきた国際電話は父の引退を報せるものであり、あの心身共に頑健な父のこと、詳しくは話されなかったが仕事を引退するということは相当の何かがあったのだろうと直感的に感じたジャイロはすぐさま休暇を申請し、皆まで言わぬ内から何を悟ったのかルーシーに追い出されるように病院を出て、そのまま旅支度を始めた。途中でコーヒーショップにより、まだバイトの時間が残ったジョニィを連れ出したがマスターは何も言わなかった。そしてジョニィも当たり前のようにナポリへ向かう支度をした。 そうだ、まるで当たり前のように。空港へ向かう道すがら、ジョニィは何人かの人間に声をかけられていた。ゲイパレード用の衣装を両手に抱えたマジェント、建設途中のビルのてっぺんから手を振ったポーク・パイ・ハット小僧。それぞれの口が言う。ようジョニィ、どこ行くんだ?旅行か?いつ帰ってくるんだ? 「ナポリ!」 ジョニィが当たり前のように叫び返した街の名前。 ――マジで来ちまった。 今更のように思うと体調は悪いのに口元が緩んだ。 「寝ながら笑うなよ、キモイ」 無感情にジョニィが言うが離れようとしない。多分、五分はとっくに経っただろう。 「…行くか」 瞼を開く。ガラス張りの壁から射す陽が眩しい。立ち上がれないでいると、ジョニィはジャイロの分まで荷物を持った。 「ロミオ、そこの色男、ジョニィ…」 「惚れ直すのは後にしてくれ。バスが出る」 ジョニィはジャイロがついてくるのが当たり前のようにすたすたと歩き出す。その後をついていきながら、ジャイロは惚れ惚れと溜息をついた。ジョニィにはまだ何も言っていない。何故、突然ナポリに来たのかも。ジャイロの父親の名前さえジョニィは知らないのだ。それなのに、何が来ても怖くないとでもいうようなしっかりした足取り。 もしも父がジョニィと別れツェペリ家を継げと言ったら…。不意に浮かんだ空想は、自分の手をとってバスに乗り込むジョニィだった。シチュエーションも駆け落ちもベタすぎて、ジャイロは自分に苦笑する。 行列に並ぶジョニィに追いつき、自分の分の荷物を持った。 「これからオレの父上に会いに行く、ジョニィ…」 「勿論、ぼくも行くけど?」 顔を見合わせると、ふ、とジョニィは笑った。 「まさか置いていくなんて言わないよな」 「つうか、その前に服買おうぜ」 「え?正装?」 バスに揺られる間に押し寄せる春の熱気にまた気分が悪くなってきて、ジャイロは瞼を伏せる。ジョニィも黙っているが、手が握られていた。 「君の父上の名前って?」 ぽつりと尋ねる。ジャイロは薄目を開けて車窓の景色を見遣った。道は緩やかに続く下り坂、密集する街の屋根屋根と、その向こうに宝石のように深く美しい青を抱いたナポリ湾が見える。 懐かしさ。緊張。重たい身体の湿った息。全てを吐き出し、答えた。 「グレゴリオ・ツェペリ」 ジョニィは口の中でその名を復唱した。 「君に似てる?」 「どうかな」 若い頃の父親の姿を、ジャイロは知らない。父は写真を撮らず手紙も書かない。 再び瞼を伏せた。胸がどきどきいっていた。まるで子どものような気分だった。 ――…ああ、子どもか。 バスを降り、次はどこに行けばいいとジョニィが尋ねる。自然と足は動くが頭が働かない。 「駅」 「トラム?地下鉄?」 「あれ」 「ああ…ケーブルカー?」 駅に到着した時には一足違いで発車してしまっており、ジョニィが残念そうに坂を見上げた。ジャイロは黙ってベンチに腰を下ろす。 「次が来る」 「ああ」 未練は早々に断ち切って隣に座ったジョニィは、しかしさっきとは違う口調で「本当に行くのか?」と尋ねた。 「いや、行くっつったろ、お前も」 「行くけどさ、君、本当に大丈夫か?顔が土気色だ」 「行くしかねーだろ」 「眉間に皺寄せて?目の下に隈を浮かべて?ゾンビだってまだ元気そうな顔してるぜ」 「…そんなに酷いかよ」 「一休みしよう。自分の生まれた家がある街でわざわざホテルなんてって思うのかもしれないけど、でもそんなんじゃ君は君の父上に勝てないだろう?」 「勝つ…?」 「ぼくらの関係を認めてもらうのに決闘でもするんじゃないの?」 「しねーよ…」 ジョニィはイタリアとツェペリ家のことを何だと思っているのだろう。呆れて返すと、冗談だって、とジョニィは笑った。 「でも、ここまで来たんだ、もう焦ることないだろう。それとも君の父上、本当に危篤で?」 「いや…」 ジャイロは頭を振り、掌で顔を拭った。 「仕事を引退したんだ」 「監獄の…お偉いさんだっけ」 そこでジャイロは初めてツェペリ家が代々受け継いできた仕事について語った。ジョニィは大して驚きもせずそれを聞いた。むしろジャイロが医者であること、人の命を助けようとすることや、運命について語る時のことなど、色々と納得がいったと答えた。 「でもさ」 「ん?」 「君、自分のお父さんのこと好きなんだね」 「…家族だろ」 「それに尊敬もしている。羨ましいよ。そういう父親がいるということ。そういう心を持てるということ」 ジャイロもまた知っている。兄の死によって決定づけられたジョニィと彼の父親の確執。 しかしジョニィはつらそうな素振りを見せなかった。現実を忘れている訳でもないようだった。 「心地いい」 ジョニィは空に向かって手を伸ばす。太陽の光に掌の血管が赤く透ける。 「ぼくと父さんの間には傷がある。それは大きく広がってジョースター家の瑕でもある。ぼくはまだジョースター家を誇れる立場にいない。でも、ここで君の隣にいて、太陽の光を浴びていると…。不思議だ。君の生まれ故郷の太陽の光だと思うからかな。特別なものに感じる。ぼくの傷も、父親との瑕も、ニコラスの死も、全部がプリズムの中にミックスされて、この太陽光と一緒に降り注いでいるみたいだ。今なら…」 受け容れられる気分だ、とジョニィは瞼を伏せ囁いた。 「ぼくも、父さんも、それぞれの瑕の形が違うからって、お互いの傷口に手を突っ込んで広げるような真似はしなくてもよかったんだ」 風が吹く。気持ちがいいな、とジョニィは目を瞑ったまま微笑む。 「君と出会って、君と色んな場所に行って、ぼくは少しずつ成長する」 「うん?」 「過去に空けられた穴の中にもこの風が吹くみたいだ。心の中に木が生えているみたいだ」 ジョニィの手は太陽光をもっと掌全体で受けようと伸びる。 「樹木のように心が育つんだよ。洞を抱えながらも、天に向かって枝を伸ばし、葉を繁らせる」 ジャイロも手を伸ばす。ジョニィの腕より少しだけ長い。太陽に透かす手。葉脈のように、しかし真紅の血の通う血管。 お互いに指を触れさせた。葉末の音が聞こえてくるようだった。思い出がこぼれだす。二人で築いた新しい思い出。サンディエゴ。 たとえどこに行こうとも、必ず二人で帰る街。 「ジャイロ」 呼ばれ、ジャイロはすっかり疲れ切っているという目元で微笑み、ジョニィを見た。 「今度ケンタッキーに、ぼくと一緒に行ってくれないか」 「いいぜ」 サンクス、と呟いたジョニィが覆い被さり、キスをした。 ホテルから電話を入れると、思ってもみなかったことに父も電話口に出た。思わず躾けられた口調になるのを、ジョニィがニヤニヤしながら眺めている。 「明日、参ります。ジョニィを昼食に招いてくださいますか」 『我が息子の伴侶だと言うのだろう』 電話を終えると今度こそ起き上がりたくもないほどぐったり疲れた。ベッドに横になると冷蔵庫から水を持って来たジョニィが、お疲れ、と額を撫でてくる。 「本当に酷い顔してるぜ、ジャイロ」 「戦う男の顔だろ」 「そうだね。勇気ある男の顔だ」 ジョニィは屈み込むと、ジャイロの眉間や目元を撫でた。 「君を好きだと繰り返してこの休暇を全部潰したい」 「豪勢だな」 「セックス抜きね」 「マジか」 「マジ」 ジョニィはベッドの上をごろりと半回転してジャイロの上に乗ると、乱れた長い髪を梳いた。 「でもキスを禁止した覚えはない」 「なかなか成長したな」 「気高く飢えた結果」 「変なとこで名言使うな」 「ぼくは大真面目だけど?」 キスで触れて、ジョニィは少し涙を目に滲ませた。 「これは君のお父さんに」 もう一度キス。 「これは君のお母さんに」 そしてちゅ、ちゅ、と何度か頬に触れ「これは君の弟たちに」と囁いた。 「それから…」 もうほとんど泣きながらで、唇が震えている。ジャイロは目標が逸れないように両手でそっと誘導する。 「君をこの世に使わしてくれた神に」 祝福とともに。 「サンディエゴ一のERのお医者さんに」 「イケメンの」 「超色男の」 ジャイロは泣きながら震えている唇に何度も自分の唇を触れさせた。頬に落ちてくる涙は自分のもののようだった。自分の分の涙もジョニィがこぼしていると思った。唇が触れるたび心の中で湖のようにたまっていた涙がジョニィに流れ込んで、ジョニィの目からこぼれている。ジョニィの涙と混じり合いながら、薄い水色の瞳の縁をこぼれだし、もう一度自分の上に降ってくる。 春の風がカーテンを大きく揺らした。 「明日の昼食、本当に楽しみ」 「オレもだ。子どもの気分だ」 「子どもの?」 「早く父上と母上にお前のこと自慢したい」 風の中に、窓から漏れる笑い声。それから梢の揺れる音。それが静まって、やがて穏やかな午後が来る。ベッドの上の二人はぐっすりと眠っている。
2013.5.29 aoko様のリクエスト。ジャイロとジョニィ、イタリア・ジャイロの故郷、春。
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