ハミングバード、その目に何が見えるのか







 こんな場所に来る予定はなかったのだ。しかし足を運んだことを面倒だとも不快だとも思わなかった。ビルは清潔で新品の匂いがした。自動ドアも、もののない玄関ホールも。途中のフロアは窓に半透明のシートが貼られたままで工事中のようにも見えた。それでも同じフロアで既に開いている事務所もあり、人が数人喋っていた。しかし声は聞こえなかった。この街に着いてからはっきり聞こえるのは雨音ばかりだ。
 夏には雨が多いのだという。マイアミと言えば常夏というイメージと、それから刑事ドラマか何かの舞台だったはずだと思い出す。ミスタにはその程度だ。そもそもスピードワゴン財団からの話でなければ訪れない。
 財団の施設は屋上を含めた上部階の何フロアも所有していて、そこでも人が忙しそうに働いていたが、やはり静かだった。
 廊下には、突き当たりにしか窓はなかった。しかし眩しいほどに明るく感じた。壁が白く塗られているからだろうか。雨さえ眩しく光って見える。白く光る雨だ。ミスタの脳裏にはコロッセオでの目覚めが蘇る。あの時も事態は想像を超えるような異常であったのに、降る雨は優しかった。
「止みませんね」
 不意にジョルノが言った。ミスタは驚いて思わず足を止めた。その間にジョルノの足は廊下の端まで進んで、ぴかぴかに磨かれ、今は雨に濡れてまるで溶け出すかのような窓ガラスに手を触れさせる。
 急にガタガタと、何かの振動する音が聞こえた。窓枠が震えていた。ジョルノが窓に額を寄せ、唇を尖らせて小さく口笛を吹いている。ミスタは慎重にその背中に近づく。
 ジョルノは窓の外で羽ばたくハチドリを見つめていた。激しい雨と風に揉まれながら、瑠璃色の小さな鳥が懸命に翼を羽ばたかせている。窓を開けてハチドリを中に入れようとしているのかと思ったがそうではないようだ。そもそもハチドリを作り出したのはジョルノなのだ。窓の鍵がなくなっていた。
「…何やってんだよ」
 ミスタが半分呆れ半分意味が分からなくて尋ねても、ジョルノは微笑むだけで答えない。こういう気まぐれからさえ命を生み出すことができる。
 財団の人間が迎えに来て、更に上の階で会談を行うことになった。エレベーターに乗り込む直前、ミスタは廊下の端を振り返った。ハチドリの小さな影は白く光る雨の中にまだはばたいていて、その小さな嘴でしきりに窓ガラスを叩いていた。
 会談の席でも常にゴールド・エクスペリエンスが寄り添っている。今回参加している人間たちはスタンド使いではないからその姿を見ることはできないが、ミスタには、まるで座の主のように椅子に腰掛けるジョルノを後ろから守るように腕を絡ませたゴールド・エクスペリエンスの姿がはっきり見えていた。
 そばに立つ者…守護者と言うより、まるで恋人か何かのようだ。実際にその立場にあるミスタさえ、平素そのようにジョルノに触れることはなかった。首に絡みつくのは金属質でありながらどこか有機物的な輝きを放つ黄金の腕だった。あの両手に治療されたことが何度かある。ジョルノが今もつけているテントウムシのブローチと同じモティーフを、その手の甲に見ることができた。
 確かにジョルノとゴールド・エクスペリエンスは一心同体なのだ。スタンドとはそういうものだ。それなのに奇妙な感覚を拭えない。もう何年も一緒にいるのに、まるで見てはならないものを見てしまったかのような後ろめたさを感じる。
 ジョルノの視線がちらりとこちらを見た。ミスタは、目は逸らさなかったが、ゴールド・エクスペリエンスの視線を確かめた自分に居心地の悪さを感じた。ジョルノのスタンドはミスタに無関心なまま、ジョルノの話し相手の方を見ている。否、見ているのはその向こうの窓か。夏の雨。輝く白い雨。
 会食の席に移動するためビルを出ると、雨が上がっていた。空にかかる虹をゴールド・エクスペリエンスが見上げていた。ジョルノは財団の人間の言葉に相槌も打たない。もうその話は三度目だからだ。これ以上耳に入れるのも無駄だと思っているのだろう。多分、スタンドがそうしているようにジョルノも虹を見上げたいに違いない。
 ミスタは拳銃を取り出して空に向かって一発撃った。全員が空を見た。悲鳴も上がって、どこかからサイレンの音が近づいてくるのもすぐに聞こえた。横目にジョルノを見ると、スタンドの姿は消えていて、ジョルノがまっすぐ虹を見上げていた。首がわずかにこちらを向く。目を細める。
「やり過ぎだ」
「控え目すぎんだろ」
 ジョルノは何食わぬ顔で用意されていたタクシーに乗り込み、ミスタも急いで後に続く。運転手に会食予定のレストランとは反対側を指示しながら、ついでにミスタが海の見えるレストラン、や、夕陽がきれいなレストラン、と注文をつけた。
 タクシーの走る先にハチドリの姿が見えた。追い抜いたのか、不意に消える。ジョルノが窓を開け手を伸ばす。その手が二重に見える。黄金に輝いている。戻ってきた指先にキスをするが、それは自分の指に?ゴールド・エクスペリエンスのあの手に?
 ミスタが手を掴んで引き寄せると、それは少し濡れていた。手の中に握り込まれているのは窓枠から取り外された錠。取り上げようとすると、それは急に花に姿を変え、開いた窓から吹き込む風に花弁を散らした。雨の匂いと花の香りがタクシーの車内に立ちこめた。
「ジョルノ、オレが今何を考えているか分かるか?」
「悪戯はこのあたりでやめておきますよ」
 スタンドに嫉妬しているのだと正直に言うのも馬鹿馬鹿しくて、ミスタは拳の背で軽くジョルノの額を小突くと、自分の側の窓も開け花びらを外に逃がした。その後、自分を引き寄せる手には抗わなかった。その手は雨上がりの夕陽に、黄金色に輝いて見えたが、触れた体温はいつものジョルノのものだったので何も言わなかった。

 夕食を終えてホテルに戻ると早速フーゴから連絡が入って、まさか財団の人間との会食をすっぽかすなんて、と怒ったが後ろでポルナレフがなだめるのも聞こえた。
「大事なのは愛だぜ、愛」
 どこまで報告がいったものか分からない。しかしその夜のベッドを共にする予定は変わらない。笑いながら謝って電話を切った。
 窓をコツコツとノックされた。ハチドリが飛んでいる。振り返るとジョルノは目を細め、口元で薄く笑っている。
 ミスタはカーテンを閉め、部屋の明かりを消した。



2013.5.28 山田さどる様のリクエスト。ミスジョル、フロリダ、16時。