橋の上の異形、列車の中の人







 春は一度、ヴェネツィアに訪れる。何故でもだ。
 ネアポリスとは全く違う風景だ。行けども運河、行けども橋。その内、どこを歩いているのか分からなくなってしまいそうな路地の混み具合はミスタも慣れたものだが、細い運河、小さな橋を幾つも渡り、街角のマリア像をとすれ違ううち、迷路に迷い込んだような気にもなる。
 淡い日暮れが訪れようとしていた。マリア像に灯された灯明。すれ違った人間を振り返る。黒髪の、細い後ろ姿。何年も前に死んだ仲間を思い出す。
 ジョルノが見つからなかった。昼食は一緒に摂った。ミスタは一眠りした。ジョルノもすぐ側にいたはずだ。ミスタの腕を枕に眠っていたはずなのだから。ワンフロアを貸し切り、廊下に椅子を出して座っていたはずのフーゴの姿も消えていた。
 ヴェネツィア。何かと思い出すことの多い街でもある。
 路地を抜けると明るい空が広がった。波止場に出た。ヨットが波に揺れている。ミスタは周囲を見渡し、踵を返そうとして自分の歩いてきた路地がこの波止場から見ると左から四番目であることに気づく。別の路地に入った。
 小さな橋。日常的に人々が踏みしめる橋の上に、ジョルノはまるで昔からこの街に住んできた人間であるかのように、まったく自然に佇んでいた。欄干にもたれかかり、カナル・グランデへ続く河の流れに目を落としている。
 知る人ぞ知る、ではあるがジョルノはギャングのボスだ。それ以前も結構女にもてたらしく、街角ではしょっちゅう同級生に声をかけられていた。そのジョルノが、橋を渡る誰にも気に留められることなく佇んでいる。風景に馴染んでしまっている。街角のマリア像のように? いや、アパートの窓辺に咲くバラや、花弁にとまるテントウムシのように。運河を泳ぐ魚や、吹き抜ける風のように。誰も気にしたことのない、当たり前の自然の景色の一部のように。
 そしてミスタは見るのだ。傍らにぴったりと寄り添うゴールド・エクスペリエンスの姿を。ほぼ無表情なその顔が近づき、ジョルノが躊躇わず唇を触れさせるのを。
 ヒト型をしているが決して人間ではない、異形。だが目の前で見たのは子どもが人形にキスをするのとは違う。ミスタはそれを表現する言葉を持たなかった。ジョルノの姿を美しいとは思ったが、同時に彼の分身であるゴールド・エクスペリエンスの輝きに美しさと胸の奥を冷えさせるような恐怖を見た。
「ジョルノ」
 声に出して呼んだ瞬間、ようやく世界が動き出したような気がした。橋を渡った学校帰りの子どもが振り返った。アパートのどこからか視線が落ちた。ジョルノがこちらを振り向いた。
「ミスタ」
 微笑んだジョルノはミスタが目の前に立つのを待つ。小首を傾げるとすっかり伸びた黄金色の髪がさらりと揺れた。
「見てました?」
 ミスタは欄干にもたれかかり、さっきのジョルノのポーズを真似する。ジョルノはゴールド・エクスペリエンスがそうしたようにミスタの腰に手をまわした。しかし唇は近づかない。怪訝な視線を遣ると、君から、と命令を囁かれた。軽いキス。
「どこ行ってたんだよ」
「どこにも」
「フーゴは?」
「そのうち迎えに来ますよ」
 確かにそうだった。それまで、あと二回キスをした。一度はジョルノから与えられたものだった。多分フーゴは見ていたに違いなかった。それでも、何も言わなかったけれども。

 夜の列車でヴェネツィアを発つ。フーゴは律儀にコンパートメントの外に立っている。暗い窓には近づいては遠ざかる街の灯。不意に頬に手が触れた。ジョルノが何も言わずに唇を触れさせた。軽く抱き寄せ、ミスタは自分の唇を強く押しつけると笑顔でジョルノをかえした。
 ヴェネツィア、何かと思うところのある街だ。
 しかし訪れた人間、誰一人欠けることなくこの春もネアポリス行きの列車に乗っている。
「マリアがあっただろ、マリア像」
 ミスタは言った。
「ナランチャに似たヤツを見かけた。懐かしいな」
 ジョルノは笑って、小さく頷いた。



2013.5.24