接吻と老人







 霧雨が夕暮れを青く染めていた。映画のフィルムの中を歩くように非現実的な光景だった。坂は大きな曲線を描いていた。自分たちが歩いてきた足跡を線にしてなぞれば螺旋が描けるだろう。青く濡れ、所々を街灯に照らされた坂道は終わりがないかのようにどこまでも下っていた。地理的にそんなことがあろうはずがない。隣をゆっくりと、そしてしっかりとした足取りで歩く小柄の老人に傘を傾けたブチャラティが地獄へ向けて遍歴するダンテのようだと想像するのも仕方の無い、フィレンツェの夕暮れだった。
 老幹部のペリーコロが偶々仕事でフィレンツェにやって来たブチャラティと偶然出会う…ということはあり得ないだろう。フィレンツェ行きはポルポの命令だったが、ペリーコロなりの思惑があり動いているのだろうとは想像できた。二人が出会ったのは駅を出てすぐのことだったのだ。
 二人は昼食を共に摂り、用があると言って立ち上がったペリーコロに連れられるままにウフィツィ美術館へ向かった。彼はそこで小さな包みを受け取り、土産物の絵はがきを数葉手に取った。振り向く。
「選びなさい」
 ボッティチェリを指さし、結局はありがちなヴィーナスの誕生に落ち着く。老人はまるで孫にそれを与えるかのように金を払い、ブチャラティに手渡した。
「ありがとうございます」
「贈り物ほど恐ろしいものはないと思わんか」
「ペリーコロさんからいただいたものなら…」
 もうすぐ十七になる少年は控え目にそう答えた。
 美術館を出ると霧雨が降り出していた。ブチャラティは用意していた傘を開いたが、ペリーコロはそのような様子を見せない。自分のシマを持つようになったとは言え、とても並んで歩けるような立場ではない。しかしブチャラティは物静かに隣に並び、相手に傘を差し掛けた。ペリーコロは何も言わず歩き出した。それからずっと黙って歩いている。
 ポルポの命令は気になった。ターゲットがトラットリアに姿を現すのは日の暮れる頃だと情報を得ていた。衆目の面前で殺す必要はないがそれなりの作戦も考えている。行かなければ、とも思う。しかしペリーコロとのゆっくりとした一歩一歩に焦りも苛立ちも起きなかった。 坂道の終わりに街灯がぽつんと灯っていた。その下でペリーコロは立ち止まった。
「行きなさい」
 ブチャラティが小柄な彼を見下ろすと、見下ろされた側は微笑んで、傘を掴んだブチャラティの拳をそっと押しやった。路地の先には明るい通りが見えた。トラットリアはもうすぐだった。
「ホテルで待っている」
 降り続く霧雨の中をペリーコロは歩き出し、先に通りの人混みに消えてしまった。ブチャラティは傘を掴んだままその背中を見送ってしばらく街灯の下に佇んでいた。
 ふと寒気がした。ずっと片側に傘を傾けていたため濡れた肩が鳥肌を立てている。恐怖によるものではない。ブチャラティは息を吐き、吸い込む。冷たい雨と、古い路地の、このイタリアという国に染みついた、自分の肉体に馴染む匂いがした。
 恐怖はない、現実を取り戻しただけだ。ブチャラティは街灯の光から濃い青の夕闇の中に踏み出した。仕事は上手くいくだろう。慢心ではなく、予感としてそう思った。

 ターゲットの死体がトイレで発見されるまでもう少し時間があるだろう。ブチャラティは走って逃げるようなことはせず、雨の中に傘を開き静かに歩き出した。
 街灯の下で聞いたホテルの名前を思い出していた。セント・マリアの病院を通り過ぎ、庭園に近い、深い緑の匂いのする通りでそのホテルを見つけた。
 入口の木製の扉を開けると、お香のような不思議な匂いがした。カウンターにいたのは若い女で、一度視線を上げてブチャラティを一瞥したもののすぐに俯いて仕事に戻ってしまった。ブチャラティも何も言わず上の階を目指して古いエレヴェーターのボタンを押した。
 揺れる鉄の籠の中でもう一度ペリーコロがフィレンツェにやって来た意味を考えようとした。ポルポの下で力を付け始めた自分を直に値踏みするためか。だが、この仕事に身を置きながらペリーコロの態度には父親めいたものがあった。もちろん組織はファミリーであり、ボスはゴッドファーザーである。上の者にはそういった風格があるものだ。しかしブチャラティが彼に嗅ぎ取る中には、今も病院で管に繋がれた実の父親と似た匂いだった。多分、ペリーコロは父親なのだろう。ギャングになる前から既に父親だった。
 音を立ててエレヴェーターが止まる。ブチャラティの考えは中断された。自分はペリーコロに父親を重ねているのだろうか、とも思ったがブチャラティの父はまだ生きていたし、二人を並べて考えると似ているとは言い難い。結局ブチャラティは、ペリーコロを信じているという一番シンプルな結論に戻らざるを得ないのだった。
 控え目なノックをするとペリーコロが出迎えてくれた。
「濡れたな」
 と老人は手を伸ばしてブチャラティの肩に触れた。
「いや、わしのせいか」
 乾杯の前にタオルが必要じゃったか、と呟く。テーブルの上にはワインと、ブチャラティのための料理だろう皿が用意されていた。その香りにブチャラティはハッとする。ホタテのオーブン焼きは自分の好物だった。何故それをペリーコロが知っているのか…。きっと偶然ということはあり得ない。彼はブチャラティのことを何もかも調べ上げてここへ来たのだ。
 二人で静かな食事を摂る。霧雨のフィレンツェの通りの夜景は淡く滲んだ。初夏は近いがただでさえ肌寒く、ブチャラティの肩は時々震えた。ペリーコロは彼にシャワーを浴びるように言った。
 そういうことなのかもしれない、とは可能性の一つとして一応用意しないこともなかったが果たして。それでもペリーコロ相手なら構わないと思う。この世界にもう五年近く身を置いているのだ、貞潔を守り通した訳ではないにしろ、男以外の役割をさせられるには覚悟が必要だ。しかしシャワーを浴びるブチャラティにあったのは覚悟ではなく、待つ思いだった。自分はきっと受け容れるだろう。この小柄な老人が望むのなら素直にそれに従うのだ。
 浴室を出たブチャラティを待っていたのはテーブルで一人ワインを傾けるペリーコロだった。
「着なさい。若者の好みに合うかは分からんが」
 手の指す方には着替えが用意されていた。ベッドルームのドアは閉ざされたままで、ペリーコロはネクタイ一つ緩めていない。ブチャラティはタオルも纏わず素裸のまま出てきたので、目の前の事態に少し拍子抜けしたが、やがて内側から込み上げる笑いを堪えなければならなかった。ペリーコロが自分を抱こうとした、ではない。自分の方こそペリーコロに抱かれたがっていたのでは?
 裸のまま近づくと、ペリーコロの斜視の瞳は半分こちらを向き、半分は薄暗い虚空を眺め、老人の目には毒じゃて、笑った。
「どうする、ブチャラティ」
「あなたに…感謝します、ペリーコロさん」
 ブチャラティは跪き、ペリーコロを抱き締めた。湯の熱が肌には満ちていて、それが乾きかけた老人にじんわりと染み入った。ブチャラティの中には感謝と、母と別れて以来、あるいは人を殺して以来消えかけていた好意が湧き出していた。
「グラーッツェ」
 その言葉に応えるように、ペリーコロはブチャラティの前髪を掻き分け額に接吻を落とした。

 十七になってしばらくして父が死んだ。ネアポリスにも秋の気配の訪れる午後だった。ブチャラティのもとにはメッセージのない絵はがきが届いた。ボッティチェリのヴィーナス。
 ブチャラティはその絵はがきを額に押し当て、涙をとめた。



2013.5.12