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 濃い影は紫色に見える。夜の廊下に葡萄の汁を落としたような濃い、塗りつぶしたような紫。黒と紫の間。岩の影は擬似的な狭い夜だ。少なくとも眠るぼくらにとっては。
 簡易ベッドに横になり、多分正午近いだろう。腕時計を見なくても影の位置と色で分かる。空気の匂いで分かる。真昼の死の砂漠で命を繋ぐ場所。岩の影。まだ付き合って間もないのに、もうぼくの身体に馴染んでしまった馬の呼吸。スローダンサーは穏やかに呼吸する。休むべき時を知っている。隣のヴァルキリー、ジャイロの馬も。
 常に影の下にあるように配置したベッドは互いに平行ではなくて頭を寄せ合うような斜めに配置されている。ぼくは目を瞑ってはいなかった。ほんのさっきまでうっすらとまどろんでいた。夢の続きを見るように瞼を開いた。乾いた瞳が眠気を錯覚する。本当に夢の中かと思う。そうではないと知らしめたのは濃い紫色の影の中、眠る男の顔を見たから。初めて…そう、初めて見たから。ジャイロの寝顔を。
 ぼくは寝息の続きのまま静かに息をしながら、眠っているのと変わらない静けさで彼の寝顔を見つめた。何かを考えた訳じゃない。特に感想はないんだ。ただ、閉じた瞼、閉じた唇にはしっかりとした沈黙が宿っていて、寝顔からさえ彼は自分の正体を明かさない。
 ジャイロ・ツェペリとは何者なのか。
 それはぼくだけじゃなくレースの主催者も気にしているところだ。ぼくは彼らの持たない情報を知っている(ほんの少しばかりだけど)。あの新聞記事。ツェペリ法務官とは?いつものジャイロと法務官という言葉はなかなかイクォールでは繋がらないけれど、この沈黙を守る瞼と唇からは彼が隠している彼の正体がただ者ではない気配を強く漂わせる。そこからはうっすらと冷たい匂いもする。幼い頃を過ごしたイギリスの屋敷のように。暗く、常にどこか湿って、冷たい。そして厳然としている。
 静かな寝顔だ。しかし穏やかではない。冷たい…だろうか。砂漠の正午、濃い岩陰の下、彼の寝顔はとても現実的だった。目の前にジャイロ・ツェペリがいるな、と思った。本当にそれだけだ。彼の寝顔は何も語らないから。ジャイロ・ツェペリと名乗る男の肉体が眠っている。
 男の寝顔なんか、まじまじと見るのは初めてだ。ニコラスの寝顔だって見たことはなかった。
 そうしてふと掠めた兄の名前がぼくをむりやり寝かしつける。忘れるんだ、ジョニィ・ジョースター(忘れられる訳がないけれど)。今は何も考えずに眠れ。今宵もきっと月夜になるだろう。日が傾いてからの行軍を考えろ。馬たちは三日前に水を飲んだきりだ。ぼくらは命を懸けた瀬戸際に立っている。感傷なんか…。
 でも目を瞑ったぼくはダニーの夢を見る。

 ぼくが彼の寝顔を見つめていたことをジャイロは知っていた。ダニーのことは知らないが、よく夢を見ることも知っていた。同じ苦しみが繰り返し夢の中でぼくを襲うことを知っていた。けれどもジャイロは何も言わなかったし、うなされていてもぼくを起こすことはなかった。
 そのことを知ったのは旅も随分終わりで、ジャイロが口を滑らせたというかピロートークのついでにそれっぽいことを仄めかしたんだけど、もうぼくは別に構わないと思った。でもその事実を知ってから彼の胸に顔を埋めれば、またあの砂漠の匂いが鼻の奥に蘇る。
 真昼の岩陰。葡萄よりも濃い、黒に近い濃い紫色の影の下、彼の寝顔を見つめたこと。焼けて乾いた空気の匂い。砂を踏む昆虫のかすかなかすかな足音。夢うつつに遠く響く蹄の音。砂が流れる。ぼくはその中を泳ぐように移動する。鉄球の示す方角、ジャイロを探す。遺体からは人間のものとも、死体とも思えないような匂いがした。乾いたハーブのようでもあり、鉱石のようでもあった。まばたきをすると、またジャイロの寝顔が目に映る。ぼくは彼に話しかけたい。急に目覚めた彼の姿が、ひょうきんでいて不敵な笑みが見たくなる。
 これらがジャイロに顔を押しつけたほんの数秒の間に混ざり合い捏ね回されぼくの胸の中で制御できない塊になる。ぼくは呻く。ぼくが夢にうなされていても起こさないジャイロだが、こうしているとふとその指がぼくのあたまに触れる。伸びた後ろ髪に触れ、毛先を弄るように耳の裏に触れる。
 何故だかその瞬間恥ずかしくなった。ジャイロのこと、彼は耳の裏まで綺麗なんだ。ぼくは触れなかった。もうセックスだってした後だったけど、触れるのを躊躇ってしまうような清潔だった。ぼくは触れられなかった。
 無言で手を払うと、急に態度を変えたぼくの顔を覗き込む。
「そこ、触るなよ」
「弱かったっけ?」
 ジャイロはそこをくすぐろうとするが、ぼくはその手を掴んで止めさせた。
「そうじゃない」
 拒めばジャイロはそれ以上触れてこなくて、先に寝ろと言う。
 ぼくらの身体はあっさりと離れた。ジャイロは立ち上がり、焚き火の向こう馬たちのところへ歩いてゆく。その後ろ姿。赤い煙の向こうの後ろ姿。耳の後ろ。
「ジャイロ」
 呼ぶと振り向いた。
 君が当然だと思っていることは世界ではまるで秘密も同然なんだ。君の耳の裏側が綺麗で清潔であること。ぼくが口を噤んだまま死ねば、この事実は世界から永遠に失われる。君は当然のことだと思っているだろう。君の周囲の人間――滅多に話題に上らない家族、君の故郷の人々――も当然のこととして見えていても見えていないも同然だろう。ぼくが見るから、それは世界にとって秘密となる。
 眠る君の瞼と唇のように、決して語ろうとしない語られることのない秘密。
 ジャイロが笑う。
「なんだ、ジョニィ坊やはおやすみのキスがないと眠れないってか」
 赤い煙の向こうのニヤニヤ笑い目がけてぼくは爪弾を撃とうとし、やめる。ふてくされて瞼を下ろすと足音が近づいてきた。
「おやすみ、ジョニィ」
 ぼくは目を開けなかった。ジャイロの気配はほんのしばらく立ち去らなかった。キスをされたかどうか分からない。分からない場所にされたんだろう。軽く叩く音が聞こえる。でもぼくにはその感触が分からなかった。だから多分そういうことだ。
「おやすみ」
 瞼は開かないが、小さな声で返す。足音が静かに遠のく。
 誰かとおやすみを言い合う生活は…本当に何年ぶりだろう久しぶりだ。あの砂漠でもぼくらはこの挨拶を欠かさなかった。努めた訳じゃない。ぼくらは当たり前のように言い合った。おやすみ。それから、おはよう。
 秘密でさえない。でも誰も知らない秘密。
 毛布に顔を埋め、ぼくはうめく。砂埃の匂いが蘇る。ぼくの唸り声を聞いてジャイロが近づいてくる気配はない。




2013.2.2