男がロミオである理由







 永遠の夜が居座っているかのようだった。
 廊下は暗く、遠い非常灯の光も道しるべと言うには乏しく、見る者を心細くさせる。しかしその中に長く居続ければ乏しい光にも目が慣れ、自分がどこにいるか分かるようになるのだった。床は毛足の短い絨毯敷きで、壁は古風な柄の壁紙が破れ、剥がれかけていた。ブチャラティはその壁に背をはりつけ、足下をじっと見つめていた。
 生首が一つ、転がっている。
 首の切り口は異様な形をしていた。ジッパーで切り離した首。首だけになった男は口をぱくぱくと開閉させる。しかしもう悲鳴は漏れない。呼吸も随分遅くなった。その口が何を言おうとしているのか、ブチャラティの視線はそれを確かめるようでもあった。呪詛。罵倒。哀願。命乞い。女の名前。どれであれ、最後のメッセージを伝える気などないが。
 ジッパーの傷口からじわりと血が滲み出る。漏れ出したそれは男の最後の命だった。呼吸はもう聞こえないほど小さくなっていた。血はたらたらと流れだし絨毯に染みこんだ。深い夜のような暗闇の下で、暗く染まった絨毯は更に深淵へと続く穴を空けるように見えた。
 殺しの仕事は多くはない。汚れ仕事はそれを専門にする者たちがいるものだ。利害であれ、見せしめであれ、復讐であれ。しかし普通に笑い合いながら街角を行く人々に比べれば断然、その死に触れる機会は多い。彼はその証拠となる肉体の一部を能力で切り取り、一部の抉られた死体の写真を撮った。暗闇の中にフラッシュが光る。永遠の夜を破くような閃光。しかしそれが消えればいっそう闇は深くなる。しかしブチャラティは溜息一つつかない。
 裏口から路地に出た。もしも振り向けば潰れたシアターのくすんだ物寂しい壁面、明かりを灯さなくなって久しい看板を見ることができた。だがブチャラティは振り向かず、何食わぬ顔で路地を明るい方向へ進んだ。時間は真昼時だった。昼食の時間だ。屋根の上から射す陽に照らされて、犇めく壁は眩しいほどの白に塗りつぶされていた。ブチャラティは思わず一歩立ち止まり、目を細めた。
 狭いドアの向こうには昼間から飲む老人たちが政治の話に興じている。ブチャラティはワインを一杯にクラッカーを囓ってから店を出た。老人たちはめいめいに手を振る。またな、ブチャラティ。今度ゆっくり奢ってくれや。
 ブチャラティは買ったワインを軽く掲げ、笑顔を残して老人たちに背を向けた。
 貧しい人々の住む街角だった。バーの先にあるアパートはボロボロで、さっき死体を置き去りにしたシアターがよっぽどマシに見える。しかしここはブチャラティのシマだ。見上げると屋根に近い階の窓が開いていた。暗い穴のような入口をくぐり、明かりのない狭い階段を上る。窓の開いた部屋の鍵は開いていた。ブチャラティは軽くノックをして部屋に足を踏み入れた。
 天井の斜めになった部屋はひどく狭い感じがしたし、確かに狭かった。しかし窓から射す明るい光が、その光の落ちるベッドの上だけ、まるで別世界のように変えていた。真っ白なシーツはどこまでも広がる海原のようだった。そこに一人の女が横たわっていた。
「ブチャラティ…」
 しゃがれた声が呼んだ。顔のほとんどを包帯で巻かれ、喉も同様だ。シーツの下の身体も同じだとブチャラティは知っていた。
「具合はどうだ」
 ワインを掲げて見せると「最高よ」と女は包帯から覗く顔を引き攣らせて笑った。
「乾杯をしよう」
「何かいいことが…?」
「君の回復を祈って」
「……アイツが…死んだの?」
 ブチャラティは答えず、ワイングラスをそっと女の唇に寄せた。女はグラスの縁から溢れるそれを飲み込む力をほとんど持たず、幾らかがこぼれて包帯に赤い染みを作った。
 うう、と女は小さく呻いた。
「わたし…娼婦なんか早くやめたいと思ってた…故郷に帰りたいと…。でも…とても悲しい。涙が出て…止まらないよブチャラティ…。わたし…もう…仕事できない…」
 こんな身体じゃ、と震える手がシーツをたぐり寄せ顔を隠そうとしたがブチャラティはその手を押しとどめ、逆に剥いだ。勿論それは女にとって残酷なことで、女は両手で顔を覆い泣き出した。しゃがれた嗚咽。ブチャラティの手は女の服に伸び、ボタンを外す。
 包帯には血が滲んでいた。抉られた肉。歪に形を変えた胸。
 ブチャラティは女の上に覆い被さると女の胸にキスを落とす。
「汚いよ…」
 女は言ったが、包帯の上から胸を吸った。包帯が舌に触れた瞬間消毒液の匂い、しかしそれはすぐに血の匂いと饐えた体臭に変わる。それでも舌は包帯の上を這い、唾液を染みこませた。ブチャラティは女の名前を呼んだ。
「君は今でも、オレのシマで一番の娼婦だ」
「…嘘つき…」
「嘘をついていると思うか?」
 ブチャラティは女に自分の頬を舐めさせた。女はくすくすと笑って、また泣いた。

          *

 夕方に娼婦が死んでしまい、ブチャラティは後を神父と葬儀屋に任せるとアパートを出た。陽が落ちて、今までいたアパートも路地も夕闇の黒に塗り潰される。しかしどこかの窓に明かりがぽつんと灯り、それを合図とするようにあちこちの窓から生活の気配が漂ってきた。夕飯の匂い。飲んだくれの男の怒鳴り声。夫婦喧嘩。そして陽が落ちて早速始まる房事の声。ブチャラティの指は汚れた壁をなぞる。その指先がその気になれば路地の壁中にジッパーを描き、中の出来事を丸裸にするだろう。
 足は遠回りをしながら事務所に向かった。
 事務所で報告書を作っているとアバッキオがやってきた。ワインを一本、手に提げていた。
「このメールを送ってから」
「…窓を開けてもいいか」
 軽く手を振って了解する。
「匂うか?」
 アバッキオは黙っていたが一言、馴染みだろ、と答えた。
「その通りだ」
 送信のボタンを押し、椅子から立ち上がる。
「乾杯を?」
 アバッキオは肩を竦める。立ったまま乾杯し、二人で窓辺に佇んだ。
 ブチャラティは事務所から見える狭い夜景を眺めた。アバッキオが自分ばかり見ているのは気づいていた。しかし微笑むだけでワインを飲み干す。
 何かを諦めるようにアバッキオが煙草に火をつけた。ブチャラティは手を伸ばしてそれを取り上げる。
「お前も見ろよ」
 煙草を口にくわえ、アバッキオの肩を抱いて引き寄せる。
「ほら」
 アバッキオは窓から見える狭い夜景をその目に映し、耐えかねるように瞼を伏せた。ブチャラティはもう一度微笑んで、夜景の上に紫煙を吐き出した。



2013.5.11 跳ね箸さんにリクエストをもらって。