愛なき、だが溢れる熱の







 重たく濡れたレインコートを着たまま、した。
 ワードローブではなかった。脱がせてもらえればいつもどおりの反応ができたはずだが、そうはいかなかった。不規則な息。唐突に跳ねる身体。そんなものを楽しむための関係だったとしても…自分たちの関係はもっと淡々としてフラットな温度だったはずだ、とフーゴは思い出す。赤い唇が滑り耳のピアスを囓る。カチカチと歯とピアスのぶつかり合う音。一瞬、別の誰かかと思うが、もう一度その唇を見れば他人であるはずがないと分かる。ルージュではない唇の赤。昔唇を噛む癖があったのかもしれない、皮膚の下の、血の赤だ。アバッキオのどこにそんな過去があったかは知らないけれど。
 重いレインコートから染み出した冷たい雨か、自分の冷や汗か、身体を濡らすものもいつもと違っていて、覚えた違和感に気を取られると隙を狙ってアバッキオはフーゴを侵蝕する。爪の先、硬い歯、それから見間違えようのない唇。じわりと食い込むのだ。いつも夜が終われば忘れてしまえるような気持ちの良いセックスだったのに、今夜のこれはじわじわと食い込んでフーゴの中に痕跡を残す。
 安いテーブルが揺れる。ベッドでさえない。そうだ、アバッキオの部屋。彼の部屋を訪れることを許されたのはあれ一度きりだった。雨の中連れられた、このたった一度の記憶。
 ここまでくるとフーゴは目覚め始めていて、これが夢で記憶の再構築だと自覚する。あのセックスの終わりはどんなだったろう。自分はレインコートを脱ぐことができただろうか。この後でベッドに行っただろうか。シャワーには。
 夢の中でアバッキオに手を伸ばすと、果たして記憶のとおりだろうか、ぎろりと睨まれる。傾く身体。耳を強く噛まれる。血の匂い。
「やめてください…」
 青臭い匂いは自分の精液だ。
 そうして目覚めた朝、隣で知らない男なり女なりが寝ていたら、カネのためのセックスの後遺症とでも思って汗を洗い流すのだが、ホテルの狭く汚い部屋には自分しかいなくて、しかもフーゴ自身の吐息のせいで部屋は熱が籠もり、澱んだ空気は息苦しいほどだった。フーゴはベッドに横たわり荒く息をついたまま、手だけをそろそろと下へ伸ばした。たった今放ったばかりのもので下着はべっとりと濡れていた。溜まってた…、とシーツに顔を押しつけて思った。
 下着を捨てようとしたが、それ以外に穿くものがなかったので、結局洗濯したそれが乾くまでフーゴは裸のままベッドに転がっている。狭い窓のほとんどは壁や屋根に遮られ暗かったが、濡れた石畳の上を吹く風はその隙間を縫って部屋まで吹き込んだ。昨夜は本当に雨が降っていたのだ。レインコートはなかったので、バーからホテルまで濡れて帰った。濡れたままベッドに横になり、眠った。別に気にはしない。ベッドはもとから湿った匂いがする。風邪を引いてしまうかどうか…自分のことだがあまり興味が持てない。昨日のギャラは握りしめた手からこぼれ落ち、くしゃくしゃの形を保ったまま床に落ちていた。
 フーゴはだらりと腕を垂らし、指先で札と小銭を選り分けた。今夜のホテル代。そろそろここにも長居をしすぎただろうか。今日のメシ。今日の酒…。今夜もバーに行きピアノを弾けばちょっとしたものにはありつけるだろう。そこで自分の尻を触ってきた客にプライドを売り飛ばせば明日の朝飯まで確保される。ただし尻を触られた瞬間に相手をぶん殴らなければ、の話。
 身体とシーツの間に挟まれた分身が示した反応はフーゴの心理状態とは無関係で、ごく肉体的な反応だった。擦られその気になりかけているそれにフーゴは手を伸ばす。尻を撫でられればキレるくせに、フーゴには今更肉体に裏切られるほどの心もない。それを昨夜の夢と共に思った。
 アバッキオが出てきた。ヴェネツィアで袂を分かって以来、確かにその動向は気にしたものの夢になど出て来なかった人物が。
 それはバーで耳にした噂が自分の中に少しずつ染み込み始めたせいだろう。毒のようにフーゴの心を侵蝕する噂。ブローノ・ブチャラティが死んだ。ショックがそれを跳ね返そうと心に殻を作ったが、繰り返し人の口に上る噂はその殻もじわじわと侵蝕し、フーゴの精神に染みこむ。そして冷たく囁きかける。ブチャラティは死んだんだ、お前の裏切ったお前の大事な人は死んだ…。
 それなのに夢に出てくるのがアバッキオであるということは、しかし何の不思議でもないだろう。かつて自分もいたあのチームの中でブチャラティが死んだとあれば、斃れた者は彼のみというのは考え難い。今夜にも噂がこの予感を裏付けるに違いない。
 フーゴは手を動かすが、機械的な動きに感情は一切なかった。夢に思いだしたようなアバッキオとの情事を浮かべるでもなかった。純粋な肉体的反応はだらだらと与えられる快楽のみによって終焉に導かれた。
 手からこぼれたものがシーツも汚した。フーゴは汚れた手を目の前に持ってきて、呆れた溜息をつき瞼を閉じた。
 気怠い熱の中で夢の続きを思い出した。イけよ、とアバッキオは言った。
「ほら、イけって」
「できません」
「できない、だ?」
 フーゴは雨でか汗でかレインコートのしっとり纏わりついた腕でアバッキオに縋ろうとしたが、その身体はまたテーブルの上に押さえつけられる。
「言え」
「何を」
「オレとヤるのはもうイヤだと言えよ」
「どうして…」
「ブチャラティを裏切っているようでイヤだと…」
 その瞬間冷や汗が全身から吹き出し、手足が冷たくなった。
「オレとは寝ないと言って、逃げろよ」
 それまで内臓を蹂躙していた熱い塊がずるりと音を立てるように引き摺り出され、急に冷めた顔になったアバッキオはドスンと椅子に腰を下ろした。
 テーブルの上に転がされたままフーゴは戸惑い、その様子を見ていた。裸の男は煙草を取り出し火を点けた。ライターの照らしだした一瞬、アバッキオの顔にはセックスの熱も、ましてぬくもりなどというものは存在しなかった。目の前には脚を開き尻の穴をだらしなく広げたフーゴがいるのに、もう目に入っていないかのように。
 フーゴはそろそろとテーブルから下りようとして失敗し崩れ落ちる。脚が立たない。そして下半身の重い痛み。血の匂いはこれだ。自分の尻が切れている。だが怒りは湧かなかった。
 濡れたレインコートを脱ぐ。肌にはりつくそれを引っ張りようやく袖を抜くと、息が上がった。服も脱ぎ、アバッキオの足下に身体を引き摺りながら近づいた。
 膝に手をかけてもアバッキオは視線を遣らなかった。フーゴは呼びかけることもなく、黙ってその膝の間に自分の身体を割り込ませた。口を使うのは初めてではなかったが、いざ触れようとすると唇も、舌から喉の奥にかけてもひどく震えた。それでも口に含む。すぐむせそうになった。これがアバッキオの体液の匂いと自分の身体の中の匂いかと思った。感じたのは愛しさではないが、頭の奥から引っ掻き回すようなマグマのような感情だった。
「…おい」
 低い声とともに髪を掴まれる。
「もっと口開け、ヘタクソ」
 言われたとおりに、した。
 軋む音がする。フーゴはハッとして目を開けた。天井からぱらぱらと埃が舞い落ちる。上の階の床が軋んでいるのだ。しばらくすると男二人の雄叫びのような声が聞こえてきて、フーゴはまた溜息をついた。何か匂う。自分の掌がくさいのだ。ようやく立ち上がりシャワーに向かうことにした。
 アバッキオとの関係の始まりはセフレ。それは終わるまでそうだった。それなのに、あの後椅子の上でやった、あの時ほど人と熱を共有したことはない。支えられ、抱きしめ、分かち合うようなセックスは、あれ一度きりだ。
「アバッキオ…」
 名前を舌にのせるとその先に告げたかった言葉も胸を押す感情に飲み込まれ、それっきりフーゴは浴室の入口に佇んだまま黙り込んでしまった。



2013.5.10