ブルーグラス・ブレイク・ダウン







 ジャイロが退屈な男であったことはない。彼は月までぶっ飛ぶようなギャグを言い、悪魔の腹も捩れるような歌を歌い、寝顔一つでぼくをハッとさせ心に氷一つ落としたような波紋を立たせる男だ。彼の正体や過去を知らないというだけの話ではない。彼は目の前で呼吸し心臓を動かしコーヒーを淹れ飯を食い馬を駆り鉄球を回転させる、つまりこの上なく生きているのに、その現在と現実を目の当たりにしてもやはり謎の男なのだった。
 古い町がスティール・ボール・ラン・レースのせいで賑わうようになったのはロッキー山脈でも見た光景だ。田舎町、寂れた町にもお祭りのような一時の熱風が吹く。ぼくらはその第一陣だ。ぼくらが遠くサンディエゴに始まったレースの熱気と興奮を運んでくる。しかも一番アツイ風を。
 廃屋同然だった二階屋が急ごしらえながらホテルに改築されていて、ぼくらとしては野宿も当たり前だったから屋根の下で眠れるだけでもありがたい。遺体を狙う者の襲撃も警戒しなきゃいけないから二人でぐっすりって訳にもいかないけど、ベッドにシーツ、それだけですっごい贅沢。
 ぼくらに続いて町に入った人間はいないみたいで、それでもぼくはいつかディエゴと一緒になった時の記憶がちらちらと脳裏を掠めちょっと落ち着かないがジャイロは、来たらブッちぎるだけだろ、って意外と楽観的なことを言う。まあ、ファースト・ステージからそうしてきた男なんだけど。
 通りを挟んだ向かいの酒場は明かりが煌々とついていて、いつまでも賑やかな笑い声が聞こえる。うるさくて眠れないって、そこまで神経質なことを言うつもりはなかった。この田舎町の空気を明るくし、人々を陽気にさせたのはぼくらなのだと思うと、それは結構愉快なことだからだ。どうせ眠れないからと、先に見張りを申し出た。
「おっ、いーの?そんなこと言って。町に着くまでって結構走ったぜ?」
「じゃあぼくの気が変わったら交代してくれるのか?」
「男に二言はなしって言葉知ってっか、ジョニィ」
「ケチなこと言うヤツは男じゃないさ」
 それは失礼、とジャイロは帽子を脱ぎ深々と頭を下げる。窓辺の椅子に腰掛けたぼくは一瞬ぞくっとする。その時ジャイロから広がった空気は、ここが廃屋同然だった急ごしらえのホテルだということも忘れた。礼儀に則ったジャイロのお辞儀は、きっかけはおふざけだったにも関わらず完璧で、彼の受けた高い教育を彷彿とさせた。腕の角度、首の角度、足の位置はその爪先まで完璧だった。本物の作法というものがそこにはあって、ぼろ家屋も絨毯敷きの広間のように感じられた。一瞬、ぼくにはそう見えた。
 ぼくが背筋を痺れさせていると、背後からはまた酒場の馬鹿笑いが飛んでくる。それでもまだジャイロの謎のヴェールがほんの少しだけ捲れたという余韻は残っていて、ぼくは彼から目が離せなかったが、その当のジャイロが顔を上げニヤリと笑った。
 続けて酒場から聞こえて来たのは軽快なバンジョーの音色。ジャイロは帽子をベッドに向けて放り、音楽に合わせて身体を揺らし始めた。
 いや確かにお祭りで聴くバンジョーの曲って踊り出したくなるよね。気分は分かる。で、実際ぼくらがやって来たことでこの町はお祭り騒ぎだしね。分かる分かる。でもどうして目の前のこの男、ジャイロ・ツェペリはバンジョーの陽気なメロディに合わせて服を脱いでるのかな?
 ジャイロは帽子と同じく大袈裟なモーションでマントを放ると、早弾きのはじけるようなテンポに合わせてボタンを外し、合わせて流れ込むヴァイオリンの音色に合わせて身体をくねらせる。ぼくは吹き出す。完全にストリップじゃないか、これ。
 ストリップなんだけど一つ一つの動きは彼のギャグや変な歌みたいに奇妙でへんてこでおかしくて、さっきまでぼくの背筋を痺れさせたお辞儀をしたのと同一人物とは思えない。いや、仕草の一瞬、ぼくの上を笑って走る視線が男なのにじわりと汗ばむような色香を滲ませていて、やっぱりジャイロ・ツェペリだ。
 上着も鉄球のホルダーも脱ぎ捨て、ベルトのバックルを外す、片脚でバランスを取りながらズボンを足から抜く。
「おいおい」
 ぼくは笑いながら言う。
「まさか全部脱ぐ気なのか?本気で全部?ジャイロ」
「見たいか?」
 その一言でぼくは更に笑った。
「見たい、いや、見たくない」
「どっちだよ」
 ジャイロはパンツに指をかけて腰を振る。
「いいから寝ろって」
 ぼくはやまない笑いの発作に喉を引き攣らせながら手を振った。ほんと、もうやめろって。呼吸困難でぼくが死ぬ。
 ジャイロはようやく踊るのをやめてベッドに横になったけど、そこでもヴィーナスみたいなポーズをとっていて、ぼくはようやく解放されたと思った笑いの発作にまた取り憑かれる。
「もうやめろ、マジで、ジャイロ。寝ろって」
 でもジャイロはぼくの笑いがやむまでそのポーズで待ってて、ぼくに手を差し出した。
「おまえをベッドに誘えなくて残念だぜ、ジョニィ」
 その瞬間、またぼくの背筋は震える。
 二人きりの旅路。ぼくらは常に二人で、嫌になるくらい顔をつきあわせているのに……いや、あんまり嫌って思ったことはないかな。まあよくある表現を使えばそのくらい二人一緒にいることが当たり前なんだけど、ヴィーナスみたいなポーズをとったジャイロの手が本当にぼくを誘った時、世界がぼくら二人のために作られているような熱っぽい幻を見た。その手に誘われるままに窓辺の椅子から彼のベッドまでこの足で歩いて近づくことも、勢い余ってジャンプして飛び込むこともできないことが心底悔しかった。悔しい分、嬉しかった。
 だからぼくは嬉しさの分微笑んで、満足感さえ感じて窓辺に頬杖をついた。
「寝ろよ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ」
 ストリッパーの半裸はシーツの下に隠れ、寝顔はここからは見えなくなる。ぼくはちらりと向かいの酒場を見遣った。まだまだ祭りは続くようだ。バンジョーの音色は絶えない。
 謎多き男のストリップ・ショーはこの夜見張りをさせるぼくを退屈させなくて、どうやら酒場の男たちが酔い潰れバンジョーの音が止んでも頭の中では繰り返しリピートされる。完璧な作法をそなえた男の愉快なストリップ。でもその視線の端に、皮膚の下、骨の奥を熱でちりりと焦がすような色気。
 もしぼくが彼の誘うままにベッドに行ける身体だったらどうなっていたんだろう…。それを考えるぼくの顔ったら。窓に映ったのをうっかり見て本気で恥ずかしかった。でも、いつか、それも叶っていいはずさ。ニューヨークに辿り着く時、彼は優勝する、ぼくは全ての遺体を手に入れる。窓辺からベッドまでの距離なんて大したもんじゃない。行けるだろ?
 多分ニューヨークで流行ってるのはバンジョーじゃないだろうけどさ。きっとどんな音楽だって踊れるんじゃないか、ジャイロ・ツェペリは。なにせ本当に退屈しない男なんだ。



2013.5.3