青い窓







 窓からは細い路地と路地の隙間から古い裁判所が見えた。その遠く狭い、暗い窓から監視されているような気がする。電話を取った時、そう思った。
 朝が来ることを惜しむ。夜が続けばいい、と願う。運河を満たす水のように青い空気がひたひたと寝室に満ちて二人の裸を包み込む。ティッツァーノは声を殺したがスクアーロのキスがあまりにしつこいので思わず笑いをこぼした。青い空気の中でスクアーロも笑う。ティッツァーノは促し彼を仰向けにさせると腰の上に座り込んだ。
「もう一回」
 胸に手を這わせ、ねだる。
「そんなによかったか?」
 満足げな表情の中に誇らしさを滲ませたスクアーロが手を伸ばし、雪崩れ落ちる髪を梳く。青い闇の中でティッツァーノの白い髪はいっそ存在が確かだ。
 ティッツァーノはわずかに前にのめり自分の髪と戯れる指を掴まえると頬ずりした。
「いつもどおり、でしたが?」
「ちぇ。なんだよ」
「気を悪くすることはないでしょう。いつもどおり、よかったと言っているんです」
 だからもう一度したい、と囁きキスをすると優しく愛撫する掌が強く自分を抱き寄せた。四月に入ったばかりの冷たい夜の空気の中、抱き寄せるスクアーロの腕の熱さは心地良かった。この肌から熱が消えてしまう前にもう一度。
 電話が鳴る。青い空気がさざ波立つように震えた。無機的な電子音は熱と吐息にたゆたっていた夜を不意にただの午前五時に変えた。
「…モーニングコールだ」
 スクアーロがベッドの下の電話に手を伸ばす前にコール音は消える。
「起きよう」
「ここまできたのに?」
「ドッピオがヴェネツィアに入っている。仕事かもしれねー」
「ボスの指令が…?」
「アイツがいるってことはそーゆーことだろ」
 身体を起こしたスクアーロの、半分ほどギャングの顔になったのをしげしげと見つめ、ティッツァーノは最後にと両腕で抱いた。
「残念です。今朝はもう少し君に抱かれていたかった」
「今夜続きをやればいい」
 凛々しい表情に自分を抱く男の色気を見ながら、両手で撫でるとスクアーロはいつものスクアーロの顔で笑う。名残惜しげなキス。それから起床。
 朝食の前のシャワー。蛇口を締めた後も聞こえる水音は常にこの街を流れる日常の底流音だ。人々が目覚める前の運河の囁き。青い空気は流水の穏やかな囁きに連れられて流れ去り、テーブルにエスプレッソとバゲットにジェラートが並ぶ頃には早朝らしい爽やかな空気が火照った身体を撫で、窓の向こうには明けの光が空を淡い花びらの色に染めていた。
 二度目の電話は朝食の最中で、電話にはスクアーロが出た。電話を片手に引っかけ長く伸びたコードを引き摺りながらスクアーロは朝食のテーブルに戻ってくる。
「裏切り者が?」
 ティッツァーノはエスプレッソを飲み干し、電話の声に耳をすませた。漏れ聞こえてくるのはドッピオの声だ。ボスからの指令を読み上げている。裏切り者の名はブローノ・ブチャラティ、ジョルノ・ジョバーナ。生死は問わず。特に注意すべきは新入りの能力。彼らは組織を裏切っただけではない、暗殺チームの人間も殺してここまで来ている…。
「気合い入れてかないとな」
 受話器を下ろし、スクアーロがこちらを見た。
「ボス直々の暗殺指令だ」
「ええ」
 テーブルの上のバゲットをどかし――エスプレッソは手に、ジェラートの位置は死守――パソコンを据えるとブチャラティを筆頭とするチームのデータが送られてきていた。最後に戦ったのはサン・ジョルジョ・マジョーレ教会。ほんの五分前のこと。
「ヤツら、もう空港に向かってるだろうか」
「それはないでしょう。海を越えようとすればすぐに見つかるのは相手も分かっている。それに朝食抜きで動きますか?」
「だな。最後の朝飯って訳だ」
「晩餐ならぬ、ね」
「なら都合がいいぜ。レストランは都合がいい。コーヒーもワインもある。スープも」
「鍋も水道も、何でも」
「行こう」
 立ち上がった。その時、ふとスクアーロの視線が囚われたかのように窓の外を見た。手がティッツァーノの庇うように伸びる。
「…スクアーロ?」
 もう、敵が?と囁きかけると、いや…、と歯切れの悪い返事。
「違う。さっきの電話の時も感じた。大したことじゃないのかもしれないが…」
「話してください」
「見られている感じがする」
 窓から見える路地と路地の隙間を縫った細長い景色。その向こうには古い裁判所の暗い窓がある。ティッツァーノもそれを見た。建物の影になり、まだ夜の濃い青い空気の残る細長い景色から、確かに妙な気配を感じた。見られていたのだろうか。この朝食も、電話も、浴室から出たばかりの裸も、そしてベッドの上も。
「ヤサを変えよう」
 窓の外を睨みつけたままスクアーロが呟く。
「そんな勝手に…。ボスが許しませんよ」
「だからドッピオが街にいるうちに相談しよう。この仕事を片付けたら。あいつも連れて部屋を探せばいい」
「わたしは……」
 言いかけた時に三度目の電話が鳴る。今度はティッツァーノが出た。
 相手はカルネだった。短い言葉でドッピオからの連絡があったことを告げた。
「あなたも出るのですか?」
 それに対しては曖昧な答えで、二人の成果を信じていると言った。
 その時ティッツァーノも感じた。窓の外に視線を遣る。遠い窓。暗く青い空気の閉じ込められた古い窓。誰かの視線。窓は…かすかに開いている?
 電話を切った。
「あいつに仕事はさせたくねーな」
 スクアーロが呟く。
「あいつの為じゃねーし、ボスの命令は絶対だ、成し遂げる。でも…」
「仮定の話はよしましょう。我々は勝利します。今回もね」
 視界の端で窓が閉じる。
 玄関を出る前にもう一度その首を掴まえてキスをした。
「クラッシュの調子は?」
 すると目尻に浮かんだ涙に波紋を感じた。夢の中で聞くようなかすかな水音。ティッツァーノは微笑む。
「おまえのトーキング・ヘッドは…いや、試さなくていいぜ、ティッツァ」
 オマケのようにバンダナを捲り上げ額にキス。またその後をそっと隠す。
「そうだ、さっき何か言いかけたよな」
「え?」
「引っ越しのこと」
「ああ…」
 君と住むならばどんな部屋だろうと眺めのいい部屋になると言おうとしていた。しかしスクアーロの手はもう玄関の扉を数センチ開けていた。そこには朝の光が射し、外の世界が待っていた。運河の水音。朝日に照らされたどこかのレストランで朝食を摂っているに違いない裏切り者たち。さっき涙の上で優しい波紋を立てたクラッシュが、裏切り者たちの喉笛を食い破る。
「仕事が終わったら言いますよ」
「勿体つけるなよ、ティッツァ」
「他愛もないことです。仕事を優先させましょう。ボスの指令だ」
「そうだな」
 この仕事が終わったら。愛の囁きと、ドッピオを掴まえて新しいアパートの下見、昼食は一緒に摂ってもいいだろう。しかし晩餐はスクアーロと二人きりで。そしてベッドの上で交わした約束を。今朝の続きを。
 スクアーロの腕がドアを大きく開ける。二人は部屋を出る。一瞬だけ朝日に照らされたテーブルの上の空っぽのカップ、溶けてしまったジェラート。二人の帰宅を待つような食器と家具。
 バタンと音を立ててドアが閉じた。



2013.4.30