バラの枯れる前に







 リゾットが最後にしたまともなセックスはもう何ヶ月も前で、別にこの数ヶ月間倒錯的な性欲に溺れた訳ではなく、ただ服を脱いでベッドの上で肌を合わせ女と共に朝を迎えたということがあまりに遠い記憶になってしまったという話だ。それは報告書よりも味気なく、瞼の裏のシシリーの風景のように幻じみたものだった。安寧とはほど遠い道を選んだとは言え、リゾットはふと自分の佇んでいるこの道程が乾ききったモノトーンの世界であることに言葉を失う。カネ、縄張り争い、暗殺、僅かな報酬、銀行の残高、現ナマ、返り血を浴びることのない仕事の終わりとアジトへの帰還。自分に流れている血もターゲットが流した血も同じく赤いものだと知っているはずなのに、石造りの古いビルの前で立ち止まり振り返る、そこに見えるのは薄汚く濡れた路地とそれを照らし出す切れかけた電灯だった。リゾットはアジトの前を通り過ぎた。
 街中寝静まっている時刻だ。アジトに戻っても誰もいないだろう。今宵自分が戻らないことが何ら問題になるはずもない。自分たちはハサミと同じ、ただの道具だ。もう望むべくは何もない。人を殺すために使われ、血に錆びついて切れなくなればゴミ箱に捨てられる。きっとボスはそうするだろう。自分たちなど最初から存在しなかったかのように、死体をゴミ箱に捨てさせるだろう。
 ソルベとジェラートを一緒に葬ってやることができたのは残されたリゾットたちにとって、そして悲惨な死を迎えた彼らにとっても唯一の幸運だった。これぞ薄幸としか言う他ない程度の幸運だが、しかし唯一の慰めだ。ソルベを額縁から出すのは酷く難儀したが、その面倒をギアッチョは文句一つ言わず――それは彼の性格を考えれば奇跡的なことだ――成し遂げた。ホルマリンから取り出された切断遺体を形の崩れる前に凍らせ、接着する。お蔭でちゃんと棺に納めることができた。そうでなければ憐れだった。二人は隣同士、並んで葬ってやらなければ。
 皆はあまりに広く流布した噂だったから今更真偽も確かめず冗談のように言っていたが、事実二人が一つのベッドで寝る関係だとリゾットは知っていた。確かにキレた犯罪者だったが、が故に幸福がどれほどの壊れ物か、それを守るために何をしなければならないかを知ったに違いない。でなければボスの正体を探るという禁に手を出すはずがなかった。上手くいくと思っていたのだろうか。思っていたに違いない。愛する者を持つ者は神にも等しい無敵の力を備えたような気になるものである。だがそれは幻だとリゾットは知っている。
 現実を積み重ねなければ心も、この世界で生き残る為の能力も、なまくらなナイフのように刃こぼれするだろう。自分の佇む道がモノトーンに見えるような思考停止をしてはならない。ターゲットに流れる血も、自分に流れる血も、残った彼の部下…仲間たちに流れる血も赤いのだと。そう思うと胸がざわめく。身体の奥から、ロォォードと歌う声が聞こえる。スタンドが死には早いと囁いている。もちろん死ぬ気は毛頭ない。
 無感覚を脱ぎ捨てるように明かりを探した。酒場の明かりはまだ残っていた。花売りが路地にしゃがみ込んでいた。リゾットはバラを一輪買い、それを握ってプロシュートの部屋を目指した。
 ドアの前に立つだけでいつも気づく男だがその夜ドアは開かなかった。ノックをしたが返事もなかった。リゾットは踵を返しアジトに戻った。手の中のバラが体温でしおれかけ、そう言えばドアの前にでも置いてきてやればよかったかと思うが、この稼業においてそれはいっそ嫌がらせだ。
 鍵を使ってアジトの部屋を開ける。しかしそこには人の気配がある。
 ソファで眠っているのはペッシで、奥の部屋を覗くとプロシュートがベッドの上からこちらを見ていた。
「…何故?」
「起きたんだよ、お前が帰ってきたから」
 何だそれ、と指さされる。しおれかけたバラ。
「…お前に」
 プロシュートが手を伸ばすので近づいて手渡した。ドアの向こうの夜明かりにかすかに浮かぶ花弁を撫でながらプロシュートが言う。
「女じゃなかったのか」
「気まぐれだ。大した意味はない」
「もらっておいてやる」
 小さく笑い、プロシュートは花に鼻先をくっつけた。その瞬間、リゾットの鼻先にもバラの香りが蘇った。夜道を歩きながら自分もかいだのだ。バラのかぐわしい香りを。生きたものの、透明な体液をもつものの、赤い花を咲かせるものの、清涼で誘惑的な匂いをこの鼻に吸い込んだのだ。
 タイに指をかけるとプロシュートがちらりと見上げた。視線が交わったまま彼らは彫像のように動かず、見つめ合ったが、やがてプロシュートの首が優雅に反った。タイを解きキスを落とす。頸動脈の生き生きとした脈拍。これは心臓の鼓動と同じなのだ。
 服を脱ぎ、相手の服を脱がせる。夜の視界の中でぼんやりとした輪郭の身体をなぞるとプロシュートが微笑み、笑みが触れるその手を愛撫に変えた。
「どうしてオレなんだ…?」
 プロシュートが囁く。
「女のところに行けよ…」
 リゾットは答えられない。なるほど娼館に向かいカネで女を買うこともできた。中には白い肌に金髪の輝く美しい娼婦もいたかもしれない。きっとその方がよかったのだ。しかしリゾットは首を振った。
「諦めてくれ」
「らしくねえ科白を吐くんじゃねえよ」
 娼婦の間にもクスリは出回っている。彼女らも安い金で働く女たちだ。安価に手に入るならばそれに手を伸ばす。それに手を伸ばした女は、こんな、キスをしただけで微笑み、感じるような血管は持てなくなるだろう。
 欲しいものな何だろうか。カネ。シマ。麻薬ルート。ボスの座。昔からいつだって守りたかったのはちっぽけな安寧だ。キスをし、服を脱ぎ、ベッドの上でセックスした相手と共に目覚める朝、その程度のものだ。
 ペッシを起こしたくないとプロシュートは手を噛んだ。そこから漏れる息が愛おしく、リゾットは手をどかして自分の唇で塞いだ。舌を噛まれ血の味が広がる。
「は、は、」
 プロシュートが吐息と共に笑う。流れ出る血の中にスタンドの囁きを聴く。それをプロシュートも聴いている。

「初めてだぜ」
 枕に顔を埋め、プロシュートが囁いた。
「こんなセックス」
「男と?」
「そういうんじゃねぇんだよ。こういうセックスをするヤツはお前以外にいないって話さ」
 手が伸びてきて汗で額にはりついた髪を払った。
「…そこで『よかったのか?』とは聞かないんだな」
「…ああ…よかったのか?」
「よくなきゃ殺してる」
 そんなんじゃねえよ、それだけじゃねえ、とプロシュートは呟く。髪をいじっていた手が頬を撫で、顔をこちらに向けさせた。
「歌うみたいにセックスするヤツは初めてだ。それがお前だってのも驚きだし…、褒めてやってもいいぜ」
「よかった?」
 返事ではなくキスを返された。互いに、ここまで触れるのは初めてだった。それぞれの能力は知っている。触れるということが生命にどんな恐怖感を与えるのか。だが今は恐ろしくなかった。セックスと、セックスの終わった後のベッドだ。汗の匂いと、人肌のぬくもり。
「歌うみたいな…?」
 尋ねたがプロシュートはうっとりと眠そうな目をして答えなかった。
 そのまま二人で朝まで眠った。起きたのは遅かったが、ペッシが起きるのはそれよりも更に遅かった。目覚めた二人にはキスをする時間があった。濡れた唇でリゾットは改めてソルベとジェラートを悼む言葉を呟き、プロシュートはリゾットの胸にもたれかかって溜息をついた。



2013.4.29