Simoon
強い風が吹いてマントが、長い髪が巻き上げられる。ぼくは砂の上から眩しくそれを見上げる。ようやく昼が終わろうとしている。太陽の時間はこれで終わりだ。そのゆるやかに溶けてゆく残照の中、急に冷たい風が吹き、ジャイロ自身も風に煽られるように空を見上げた。 「何が見える?」 ぼくが尋ねるのにもジャイロは返事をせず、風の中でほんの少しだけ目を細めた。ぼくは機嫌を損ねはしなかった。ジャイロが巻き上がった髪を下ろす腕を見ていた。残照の中で筋肉と、腕の内側のあの皮膚の薄い部分の下、赤い血が流れているのだろうなと想像した。 「何も見ていないのか…?」 「おまえさんはオレを見ているな、ジョニィ」 彼に見下ろされる視線は不思議と不愉快ではない。ぼくを見下ろす視線というものはこの二年間ぼくを徹底的に叩きのめし打ちのめし泥の上に這いつくばらせた。そうしない…ジャイロの視線が優しいという訳ではない。ただし、そこに蔑みはない。ぼくらの間には距離があり、その距離に等しい分だけの視線がぼくに送られる。それだけだが、そんな見下ろし方をできる人間にはこの二年会ったことがなかった。それ以前も。父はぼくを見ていなかった。ニコラスはもっと近づいてくれた…。 冷たい風の中にジャイロはサンドストームの予兆を聞き取る。ぼくらと馬たちは岩棚の影に寄り添ってそれをやり過ごす。自分以外の呼吸がすぐ側で聞こえた。やさしい初老の馬のひそやかな息、気高きヴァルキリーの沈黙、そしてジャイロ・ツェペリの呼吸。 ちらりと横目に視線が合う。距離が近づいただけだ。ただそれだけ。 「ジョニィ」 なのに次にぼくの名前を呼ぶ彼の声には親しみが混じっている。 「ビビってんのか?」 「別に…」 「こればっかは仕方ねーな。おまえさんの銃も、オレの鉄球も役に立たない」 「そうなのか?」 「鉄球の回転が砂嵐を止ませるって?」 ふ、と鼻先でジャイロが笑った。それ以上は何も言わなかった。教えてくれなかった。 ぼくは膝に顔を埋めるふりをして横目にジャイロを見る。彼の顎の影とか、髭とか、残照の中吹いた強い風の中細めていた目とか。 彼はもう一度ぼくを見る。距離に相応しいだけの視線で。 「君は不思議な男だと思う……」 その時嵐が強く吠え、多分ぼくの言葉はジャイロには届かなかった。
Moon
礼儀作法と舞踊。どちらも怠けていた分野だ。イギリスにおいてもアメリカに帰ってきても。兄はどちらも完璧だった。完璧な走りと完璧なお辞儀、完璧な挨拶に完璧な笑顔。しかしジョニィの前ではふざけて冗談も言い、時には品のない言葉も使ってみせた。だから…完璧すぎる。自分にそんな真似はできない。しかし馬に乗ることなら。馬に乗って誰よりも速く走ることなら。その矜恃さえ奪われた時、遠いニコラスの面影は宗教画のように完璧で触れがたいものになり、ジョニィにとってたとえ歩き続けようとも永遠に辿り着かないものとなった。教会の高い場所から自分を見下ろすステンドグラスの聖人のように、投げかけられるのは影だけ、温度のない光だけ。あまりの眩しさに目を細めて、今やその姿を見つめることさえ難しい。 礼儀作法。お辞儀をして。手を。舞踊。兄さんが教えてやるよ。難しく考えることはない。女の子と手を握るチャンスさ。手を取って。右足から。 夢の中の足が床を踏むことができず蹌踉めく。びくりと身体が震えた。一瞬の覚醒でジョニィは遠いあのイギリスの庭からアメリカ大陸のど真ん中に帰ってくる。 ――大丈夫だ、引き摺っちゃいない。 脚が動かない自覚だってある。 ベッドの上に起き上がり、月明かりに腕の時計を見た。ただの夢だけで目覚めはしない。身体の中にはこの旅の時計が出来ている。そろそろ交代の時間だ。ジャイロの姿を探す前に、翳る月明かりで居場所が分かった。窓辺に佇む男は聞こえない程度の鼻歌を歌いながら指先で窓枠を叩いていた。昼間見たステップだ。 頭の奥で声がする。遠く幼い自分に話しかける声の記憶。ほら、爪先で踊ってみるんだ。楽しい駆け足みたいに。 動かない足が蹴った地面、倒れて舞った砂埃。今は動かない爪先、踏んだ感触さえ持てない。あの指先のように、タッ、タタッ。 車椅子を引き寄せると車輪がひどく軋んだ。砂を噛んでいるのだろう。ジャイロが黙って振り向くが、指先は窓枠の上でステップを続ける。タタッ。 「ご機嫌だな」 「いい夜だ」 明るい月が田舎町の風景を照らす。どの窓も眠り、静まりかえっている。満月に照らされた道は白く、動く姿があれば、たとえネズミだって黒い影を落としてすぐに気づくだろう。 今までジョニィの横になっていたベッドに腰掛け、ジャイロはあくびを一つする。 「願わくば、穏やかな夜を」 不意に口をついたジョニィの科白を横目に笑った。 「願わくば、な」 おやすみと小さな声で交わす。ジャイロがすぐに眠りに落ちたのが分かる。休むために休む身体。眠りさえコントロールされている。一体どういう男なのだろう。どんな教育を受け、どんな人生を歩んできたのか。変な歌に軽やかなステップ。月の光を受けて、いい夜だと言う。 ジョニィは窓辺により、指先で窓枠を叩いた。チーズの歌。サビは繰り返し。レラレラ。ゾラゾラ。リズムは覚えている。 ――ステップを。 爪がこつんと硬い音を立てた。溜息を飲み込み、ジョニィは窓の外に視線を投げる。手をとって、右足から。 動かない膝を撫で、スローステップを繰り返す。
2013.4.26 ピクシブにてしゃ様のイラストとアサイ様の漫画をそれぞれ拝見しながら。
絵を拝見しながら書くということは見ている側の勝手な解釈を含むもので、書き終えてから恐ろしくなります。 |