レイン・アンド・コーヒー







 この旅において二人は何度かひどい雨に見舞われたけれども思い出深いのはカンザスの草原のど真ん中、オマケに車のタイヤまでパンクをするというハプニングに見舞われた夜が一つ。もう一つ挙げるとすればジャイロはごく個人的な思い入れからフィラデルフィアの霙降る朝を選ぶ。
 クリスマスも大西洋も目前だった。ひどく寒かった。ベッドの上のジョニィは半分服を脱いだまま沈黙を守っていた。テレビにディエゴ・ブランドーが映って不機嫌になり始めたばかりだった。こうなればジョニィは一日中だって不機嫌でいられる。ヤツのことなどもうどうでもいいと言ったのは一ヶ月ほど前のことだが、あの奇跡のような晴れ模様が永遠に持続するわけでもない。
 半分はおそれを抱いている。ジョニィの持つ殺意は本物だ。一瞬の躊躇もない、そこに人間性はない。正義や倫理など何を用いてもどんな言葉を使ってもジョニィを翻意させることはできない。ジョニィが躊躇のない殺意を行使しないのは、殺さないという選択肢もありジョニィがそれを意志によって選び得るからだった。故にジャイロは心のもう半分で、このロミオめと思うのだ。時々お前がイイ男すぎてオレはすぐさま服を脱ぎ捨てて身体をベッドに投げ出したくなるぜ、ジョニィ。
 事実「抱けよ」と言ったことがある。が、ジョニィはそうしなかった。あの時は単に眠かったのか、それとも勃起しないというシンプルかつ致命的な問題のせいか。もちろん後者の占める割合は圧倒的であり無視できないが、ジョニィはもしかしたらジャイロが心配するよりも自分の人間性を手放す気はないのかもしれない。そこに自分が無関係でないと感じるのは決して自惚れではないだろう。
 ごろりと転がる、寝乱れた髪に、弛緩した指先にジョニィの心を探した。その視線を察知されたのだろうか。
「コーヒー」
 ベッドの上から傲然と、無感情にさえ聞こえる声でジョニィは言った。
「飲みたい」
 本当かよ、ジャイロはと尋ね返したくなったくらいだ。それほど熱意のない声だったし何を求めるとも見えない不機嫌そうな顔だった。しかしジャイロはジョニィのためにコーヒーを淹れてやった。どうせ自分も飲みたいと思っていたところだ。この沈黙は飲み下すにはごろごろとしすぎて喉に詰まる。
 ホテルを一階までおりてキッチンを借りポットいっぱいに熱々のコーヒーを淹れて戻ると、ジョニィは半裸のままベッドに座り込み霙の降る窓の外を見ていた。その腰に銃創と、例の奇跡の骨を見る。骨の影はじっと見つめると最初からなかったように消えた。
「コーヒー」
 ジャイロが言うと手だけが伸びてくる。無精しやがってと思うが、黙ってその手にカップを握らせる。ジョニィは受け取ったそれを口元に持ってゆき、一口つけてから、熱い、と小さな声で呟いた。
「…ありがとう」
 感情はないが素直な声だ。
「どういたしまして」
「君は…ぼくの欲しいものをくれる」
「…そうか?」
 甘やかしたつもりはないぜ、と言うと、どうかな、と苦笑めいたものが生まれてようやくジョニィが少し振り向いた。
「ルーシーに叱られたもんさ、経済的自立をしろってね」
「それが十代の科白かねえ」
「まったくだ。……でもぼくも、少しは真面目に考えたよ。ここまで来るのに考える時間はたっぷりあったんだ。ぼくは何をやりたいのか。何になりたいのか。…ぼくの父は調教師だ。ぼくも馬が好き。ジョッキーをやっていた時より、多分今の方が色々上手くいってる。そういう仕事も悪くないと思う。でも父さんと同じ職業になるのは癪だな、とも思うんだ」
「ケンタッキー、だったか?」
「今は会いに行けないよ。ぼくは神様の奇跡で脚が動くようになっただけ。まだ何かを自力で成し遂げられた訳じゃない。そんなぼくは父さんには見えない。父さんの目にぼくは映らないんだよ」
 君がぼくの欲しいものをくれるっていうのは、とジョニィはカップに口を近づけ、籠もった声で呟いた。
「君が真っ直ぐ歩いてるからだ。君の導きでぼくは一つずつものを覚える。再び馬に乗る方法、生き方、時間の使い方…。朝起きて朝食を食べて仕事をするってこと。働いて金をもらって、それでも自分の人生を生きるってこと。自分の脚で自分の二十四時間を歩くって姿をさ…、君が見せてくれるから」
 霙が屋根を打つ音。窓が冷たく濡れている。そしてわずかに明るい。四角く切り取られた明るい灰色の空を背にジョニィが振り向く。
「改めて君に敬意を払うよ、ジャイロ・ツェペリ。そして君に感謝してる」
 残り少ないコーヒーのカップを掲げ、ありがとう、とジョニィは囁いた。
 ジャイロはその姿をじっと見つめていた。まるで今にもオレが死にそうな科白じゃねーか、と思ったが人生においてどの瞬間に何が起こるか分からないのを常に最前線で見てきたERの医者だ。このジョニィの言葉を、最後にわずかに微笑んだ表情を覚えておかなければならないと思った。いつか思い出すに違いないからだ。深々と刺さったナイフが動脈を傷つけ身体中の血が流れ出てしまう時、腹にしこたま銃弾をくらい空を仰いで倒れる時、ヴァルキリーの手綱を掴んでいることが出来ず地面に滑り落ちる時、人生の最期を覚悟しながら、しかし自分は確かに生きたと思い出す時に今のジョニィの言葉は必ず必要になるだろう。
 今言うな、と思い、伝えてくれてありがとう、とも思った。霙降る朝。タイヤが滑るだろうからもう少し出発は遅らせる。その間に甘い時間でも、などと軽く考えていたが、どうして。自分はジョニィのためにコーヒーを淹れたが、ジョニィはそれ以上にがつんとくるものをジャイロにくれたわけだ。
 感謝のしるしに新しいコーヒーを注いでやった。ジョニィはこんどは感謝の言葉ではなく、頬をかすめるキスを返してそれを飲み干した。

 霙はなかなか止まず、出発は午後になってもいい、とカンザスで買った傘を手にフィラデルフィアの街並みを散歩した。独立記念館を横目に公園を通り抜け、デラウェア川の河岸に出る。あっという間に指先が凍えた。コーヒーを買った。
 霙が傘を叩く下、ジョニィがコーヒーに口をつける。寒そうにしているが寒いとは言わない。ジャイロが即興の歌を口ずさむと、それに合わせてハミングする。すぐにサビのフレーズに気づく。コーヒーで唇をあたためて、時々小声のコーラスが入る。
「ジョニィ」
「……ん?」
 突然歌を止めて呼んだので、ハミングを続けていたジョニィの返事は少し遅れた。
「何?」
「オレがおまえに感謝していると、想像したことはあるか?」
「………」
 ジョニィは少し意外そうな顔をした後、バンドを組んだことに関してはね、と答えた。
「ああ、そうさ」
 ジャイロはコーヒーを河岸の手摺りの上に置き、手を伸ばす。
「だが、それだけじゃない」
 それ以上は言葉にしなかったが、おそらくジョニィには伝わったのだろう。既に日常となったキスの後でジョニィがこんなに顔を赤らめるのは久しぶりだった。
 いつの間にか雨の音が止んでいた。ジョニィは傘を畳むと空を仰いでふうっと息を吐いた。まだ照れている。耳が赤い。
「そろそろ行こうか」
「ああ」
 その時、音のするように雲の切れ間から光が射した。デラウェア川の川面に真っ直ぐと。ジェイコブスラダーの輝きに目を奪われ、二人は足を止める。今しばらく河岸に佇む。そして二度目のキスをした。今度は照れはなかった。ジョニィは穏やかに微笑んで、今朝の不機嫌を忘れたようだった。
「コーヒーが飲みたい」
「今飲んだろ」
「君のが飲みたい。さっきのは不味かった」
 これで君のコーヒーがあれば完璧さ、と言ってキスをするジョニィは実にジャイロが内心歯を剥き出しにしながら、このロミオめ!と叫んでやりたいほどであり、忘れようにも一生忘れられないだろうとジャイロは思う。
「…オレも覚悟しといた方がいいのかもしんねーな」
「何の話?」
「なんでもねーよ」
 歩き出しながらジャイロは、ぽんとジョニィの尻を叩いた。



2013.4.24