リビドー




 女が好きなのではなく良質な女体が好きなのであり、つまりメスの肉体、生産のための肉体を持つ女が好きなのだ。同じくして彼が好きなのはセックスではなく性交であり、遺伝子交配であり、そこに好みを持ち込むのは肉体のコンディションを万全に整えるためで、女に体位を選ばせる際の喜色満面のツラは良好な女の肉体が最高のコンディションでベイビィを産み落とすための材料が全て揃うことへの悦び…。人が何に悦びを感じようがギアッチョには関係ないからメローネのそれもわざわざ何かを言ってやるほどのことでもなかった。それ以上に気にかかる、何でこの世には理不尽な言葉が多いんだ、ヴェネツィアはオレも大好きな街なんだ、それをベニスだと、なめやがってクソッ…。
 ギアッチョがいらいらしている間にもメローネは新しい女をつかまえて実践をする。自分の精子で女を孕ませ十月十日を待つほど気は長くないので、彼は躊躇わずベイビィ・フェイスを発動する。今夜の仕事もベイビィの息子が順調に育てば苦労がない。とは言えターゲットが根城にしているホテルには先んじて回り込み、保険は怠らないが。
 その態度は正解である。暗殺者の仕事に失敗は許されない。しくじればあるのは死のみ。死を扱う仕事だ、それは当たり前のことだった。ベイビィの息子はターゲットの顔に火傷を負わせただけで、使命を果たさず朽ちてしまう。ギアッチョは男の逃げ込んだ部屋に忍び込み、洗面台の冷たい水で必死に顔の火傷を洗う男に向かって手をかざす。水道の蛇口から流れ出す水はみるみる凍る。顔の火傷が凍りつき触れていた手がひっついて離れなくなる。氷は濡れた部分をどんどん侵蝕して男の呼吸を止めてしまう。鏡には口と鼻の穴を綺麗な氷で塞がれ絶命した紫色の顔が映っていた。スタンドを解除すれば突然の呼吸困難で死んだ男の死体のできあがりだ。
 一応指紋を残さないようにとつけていた手袋を路地のゴミ箱に捨て、ギアッチョは頭の中で計算する。今回は二人の仕事だった。で、入ってくる報酬はというとメローネと山分けか? そんなことはねーよなぁ。この苛立ちに見合うだけの金が手に入ったことなどない。ソルベとジェラートの死して後は尚のことだ。今も時々夢に見る、郵便小包を開ける瞬間の嫌悪感。苛立ちさえどす黒く淀んでゆく絶望に押さえつけられ、夢の中でのギアッチョは悪態をつくことさえできない。
 アジトに戻る頃、携帯電話にメローネからのコールが入った。もう晩餐にも遅い時間だった。小さな冷蔵庫から、誰が作っておいたのかサラダを取り出して青い葉を囓りながら電話に出た。
『すまなかった。全面的に謝罪しよう』
 真面目な言葉がそれらしく聞こえないのはメローネの一つの才能かもしれない。
『見込み違いだったよ。母親のね…肉体は完璧だったんだが…』
「オレが始末したぜ」
『ベネ!』
「ベネじゃねーよ、クソがッ」
『グラーッツェ。心から礼を言うぞ、ギアッチョ。ところでオレはまだまだデータ収集が甘いらしい。女を見つけてから帰る』
「おい報告書は」
『もう送った。そこのパソコンを開けよ。印刷の仕方くらい分かるだろう』
「てめー、なめてんじゃねえぞ!」
『いいね、非常にいい。君が女だったら次の母親は君にしただろう』
 携帯電話を床に叩きつける前に通話は切れていたようで、ギアッチョは怒り任せにそれを踏みつけながら今回入る報酬は新しい携帯電話の料金に消えるのだろうと思った。こればかりは車のように盗む訳にはいかないから面倒だ。
 印刷した報告書は完璧でうんざりする。ギアッチョは半分手掴みでサラダを食べ終え、よく冷えたリモンチェッロをグラス一杯胃の中に流し込みソファに横になった。リモンチェッロはプロシュートが用意したものだろう。ペッシのためにだ。それともリゾットだろうか。彼の故郷はシシリーだという。シシリーのリモンチェッロも有名だ。まさか、だからと言って暗殺者が故郷の味を?
 ギアッチョには懐かしむものがあまりない。思い出すもの大体何もかも全てことごとく彼をいらつかせる。寝るに限った。酒精は胃の奥からギアッチョを感情を伴わない熱であたため、身体を重くさせた。眼鏡を外すのも忘れ、ギアッチョは目を瞑る。

 眼鏡は顔の一部だというふざけた輩がいるが、事実眼鏡なくしては前も見えないギアッチョにとってツルや鼻当ての感触は呼吸同様自然な日常の一部であり、それがなくなった時、しかもそれが自分の手にならざるものであった時に感じるのは違和感どころではない、脅威だ。
 まず敵の攻撃だと思って目を明けるより早く周囲の空気を凍らせる。
「寒いじゃないか」
「てめーかよ、メローネ」
 夜が明けていた。カーテンの隙間から曙光が床の上に落ちていた。メローネはギアッチョの眼鏡を手に取ったままにこにこと笑っていて、起き抜けの目にも上機嫌で肌艶がよい。彼の口癖を借りればディ・モールト。そして良好というところ。ギアッチョは眼鏡を奪い返すと、まだ少し重い頭でメローネの横をすり抜けた。
「どこへ行くんだい」
「寝直す」
 テーブルの上の報告書を指さすと、出しておくよ、とメローネ。
「そうそう、ギアッチョ、あんた昼にやるのは?」
「…なんだって?」
「昼にヤるのは好きかと訪ねているんだ」
 呆れと軽蔑の視線だけを送ってアジトを立ち去る。
 実際にどうかと問われれば夜がいい。が、しかしギアッチョは宿の前に立っていて、それは決してメローネに煽られたからではないと毒づく。あんな変態のことなんざどうだっていいんだ。たまには昼にだってヤる。それだけだ。
 馴染みの女は昼寝の最中だった。裏で下着を洗濯していた少女が起こしてくれた。寝起きの女は不機嫌そうな顔一つせずギアッチョを迎えてくれた。
 ギアッチョは自分で外した眼鏡をサイドボードに置く。視界は真昼の白光の中で輪郭を失い、女の白い身体も乱反射の中ソフトな影となる。服を脱がずベッドに上ると、いらいらしてるのね、と女の手が布ごしに股間を撫でた。
「ったく、たまんねーよな」
「コッチはもうちょっとこらえてちょうだいね」
 うんと硬くしたげる、と女はギアッチョのズボンを脱がす。手を使い、指を使い、舌を使い、約束通りのそれを目の前に先端に降らせるキス。
「ベネ!」
「…おい」
「あら、よくない?」
 するりと根元まで滑る指に思わず口元が緩み、笑顔になる。
「悪くねえな」
「でしょ?」
 ギアッチョはセックスが好きだ。女も。人並みに。自分も揺れる胸を見て愉しんでみたいとは思うが、眼鏡だけは、かけたままヤると笑われるので外す。それだって胸と胸の谷間に顔を埋めれば関係のないことだ。





エロス




 ギアッチョと寝てみたいと思ったがあっさりフられてしまったので報告書を提出しヤサに帰った。おんぼろホテルの隣のアパートはホテルの部屋を覗くには絶好の場所だった。昼間からヤるカップルもいなくもない。薄いカーテン越しに腰がぶつかり合うのを見ながら、今朝アジトに戻る道すがら古本屋のウィンドーで見かけたものを思い出した。『カーマ・スートラ』だ。復刻、ビジュアル完本、オールカラー。状態は良好。
 カラーでは見たことがなかった。このカップルの性交が終わったら買いに行こう。しかしポケットに金はない。今度の報酬はいつ入るだろうか。ベイビィ・フェイスの攻撃は失敗した。取り分は少なくても文句は言えない。
 オーガズムが近づいたのだろう。女の声がここまで聞こえる。これだから隣同士というロケーションはいい。メローネは冷蔵庫の中で凍えていたチーズを囓りながら頬を緩める。
 カーテンの向こうで揺れる影が止まった。手指を舐め、その手を流しで洗った。パソコンの下やクローゼットの中を探ったが金はなかった。いつかホルマジオが言ったことがある。女を襲うならついでに財布も拝借すればいいんだ。
 それは違う。仕事はターゲットを始末すること。必要なのは良好な状態の母親、ターゲットの遺伝子。そこに自分の趣味を盛り込んで仕事ができるのだからそれだけでも感謝すべきだ。それにいい子どもを産んでくれる女をどうしてぞんざいにできる。
 子どもにはよい母親が必要なのだ。
 メローネはいずれベイビィに食われる女を一種尊敬もしている。自分では生み出し得ない素晴らしい子どもたち。それを作り出し産み落とす器官を男は持たない。それを持つ女はあがめてもよい。メローネはこれ以上なく女たちに愛情をもって接している。
 するとギアッチョと寝てみたいという今朝の衝動はとても不思議なものだった。男の股間にあるのは子種に、射精するための大砲――サイズには個体差がある――に、排泄器官だ。だがその排泄器官に自分のペニスを突っ込んで射精したら何が起きるのか。自分にはオーガズムがあるのか。ギアッチョには?
 怒るだろうなあ、と思ったし、殺されるかもなあ、とも予想が着いた。ペニスを凍らされるかもしれない。これがもげても死にはしないかもしれないが、今後の人生は楽しくないだろう。そう言えば中国には自分のタマとサオを切り取って女に仕える職業があったらしい。だが倒錯はメローネの好むところではなかった。シンプルでいいのだ。良好な肉体。良好に勃起したペニスと、たっぷり濡れた女のあそこ。そこに至るため、たとえ遠隔型スタンドであろうとも身体は鍛え続ける。健全な生殖は健全な肉体だからこそ。データ収集も怠らない。
「そうだ、そうだ」
 黴かけたチーズをゴミ箱に捨てながらメローネは独り言を呟いた。
「カーマ・スートラだ。買いにいかなくちゃあ」
 しかし古本屋の前まで来て気づく。金がない。
 街の女を物色しながらだらだらと時間を潰すと、夕暮れの通りで今朝別れたばかりのギアッチョと再会した。
「金を貸してよ」
「は? ふざけんな」
 二人してアジトに向かう。ギアッチョはまたぶつぶつと苛立ちを吐き出す。ブッ殺す、という直截的な表現のない分、蓄積してゆく怒りのエネルギーがメローネには心地良い。このギアッチョを女にして、楽しめるキスと楽しめる体位でセックスに導けたら、最高の子どもが産まれるに違いない!
「ああ、惜しいなあ」
「だから金は貸さねぇぞ」
 夕陽に反射するウィンドー。『カーマ・スートラ』の横を通り過ぎる。が、これ以上の執着は必要なかった。大切なのは本物の女の身体。肉と肉の性交、それそのもの。
 メローネは笑ってギアッチョの顎に触れる。
「ところで昼間にヤるのは良かったかい?」
「何で知ってんだてめえ!」



2013.4.28