花なき日




 プロシュートに連れられて例の通りに出掛けたペッシが初めて寝た娼婦は、彼には派手すぎる女で染めた髪にラメまで光っていた。女は見事な尻を突き出しレースと襞に隠された場所を露わにしたが、この世に生まれ落ちて以来それを見たことのなかったペッシはすっかり萎縮してしまい、女は小さくなってしまったペッシを容赦なく笑った。何もせずに出てきたペッシをプロシュートは殴り、慰めもしない。
「お前が殴られてどうするんだ、ペッシ。ええ?」
 殴った本人はそう言いながらもうもう一発殴り、ペッシは鼻血を飲み込んだ。
 二度目に例の通りに出掛けた時、目の前にはプロシュートともう一人、リゾット・ネエロの背中があった。しかしリゾットの姿はすぐに消え、ペッシはプロシュートと二人、再び同じ宿の前に立っていた。
 次に選んだのは年増の娼婦だった。女は最初また萎縮してしまったペッシを見て笑ったがそこに嘲りはなく、口紅を塗った唇を大きく開けむしろ尽くしてくれた。まだ二度目の経験だが具合は非常によく、ペッシは部屋を出る前も母親――いればの話――ほどの齢の女の手を握りまた来ると言い、宿を出ても通りを何度も振り返りながら見えない窓に手を振った。女々しいことをするんじゃねえ、とプロシュートは怒ったがペッシの笑顔までは殴らなかった。
 それきり、例の通りには行っていない。最初に死んだのはソルベとジェラート。あの『罰』の文字。額縁の輪切り。怒りと涙と沈黙の夜、ペッシは年増の娼婦の肌に溺れるよりも粗末な棺にかけられた湿った土の匂いと、スコップを掴み服の下でわずかに汗ばんでいるプロシュートの肉体の匂いに掴まっていたかった。仲間が死んだ事実と、兄貴であるプロシュートはまだ確かに生きて自分の隣にいることの方が、端くれとは言えれっきとしたギャングであるペッシをこの世に留めてくれたのだ。
 ネアポリス駅の六番ホームに向かいながら考える。ブチャラティたちをブッ殺して娘をゲットした暁には『一人で』例の通りに行こう。『一人で』だ。花も買ってみよう。ペッシはまだ花も買ったことはない。仲間の仇を殺し、花を抱えて娼婦に会いに行くことを考えると興奮し、鼻息が荒くなる。口からは金魚の口から泡の漏れるように「ブッ殺す」「ブッ殺す」という言葉がつき、プロシュートの低く重い声にたしなめられる。
「ペッシ…オレたちの仲間なら…分かるか?」
 使っていいのは『ブッ殺した』という言葉だけ。娼婦と花束のことはしばらく忘れなければならない。股間を膨らませてる場合じゃねえんだ。それは分かってるさ、兄貴。
 列車が少しずつ動き出す。並んで走りながらペッシはまた叱られて開いたドアから列車に飛び乗る。ネアポリスは遠ざかる。少しずつ、背中へ、その遠くへ。例の通りも、花を買うはずだった花屋も屋台も何もかも。ペッシはもう年増の娼婦には会えない。最初にペッシを笑った派手すぎる女にもリベンジしてヒィヒィ泣かせてやることは、ない。
 それらのことに気づくことのできないペッシは、まだマンモーニのままだ。





金曜日の終わり




 タイを外した人間は何人もいたかもしれないが結んだのはリゾット一人だったろうと思う。肌触りのよい黒の絹を滑る手の動きは優雅で洗練されて見えた。暗殺者の手がだ。優しさにはほど遠い、どこまでも現実的な手が、だ。
 女も帰った、服を着る気も失せた、ひどく虚しく寒い夜にリゾットは現れた。真夜中だった。雨は降っていなかったが窓はペンキで塗られたかのように真っ黒だった。そこに映り込むリゾットの横顔は半分暗闇に溶けていた。リゾットから見える自分はどうだったろう。
 人生においてそんなに広いテーブルや大きな冷蔵庫は必要ない。プロシュートがそう気づくのは早かった。ましてギャングの、暗殺稼業についた今、それらは更に遠ざかる。
 だが今更肌寒さにひるむプロシュートではなかった。リゾットを扉の外に待たせ、大して慌てることなく服を着た。待たされた男は機嫌を悪くするでなく、開かれた扉から部屋に入った。運んできたのは仕事の話だった。人を殺す話だ。
 話は複雑ではなかった。プロシュートがワインを勧めたのは喉の渇きに従っただけであり、目の前のリゾットを追い出してから飲もうというケチなことを考えなかっただけだ。女が帰ってから一滴の水も飲んでいなかった。セックスの後の健全な喉の渇き。
 簡単な給仕。音の無い乾杯。喉が鳴る。
 ワインを呷りながら視界の端に様々なものを見た。しまい忘れたハサミ、空っぽの花瓶、裸のリラ札、トランプケースの中身は空っぽだった。安全ピンが幾つか入っていた。壁には何かの剥がれた跡がある。しかしポスターも写真もみつからない。画鋲が落ちている。一つ、二つ、三つ。
 タイが見つからなかった。
 グラス一杯の赤い液体を飲み干したリゾットは立ち上がり、プロシュートはワインが残っているのが分かっていたけれどもそれを引き留めなかった。しかし立ち去り際にリゾットは踵を返し、プロシュートの視界の外からタイを取り出した。
「…どこにあった」
「椅子の背」
 手渡される気配がなかった。プロシュートは黙って顎を挙げた。暗殺者の手は黒い絹と共に頸に触れた。
 思えば同じチームと言いながらクリスマスさえ一緒に過ごしたことのない間柄だ。同じ世界に身を置いてお互いどれくらいだろう。それさえ数えてはいなかった。
 リゾットは黙ってタイを結び、その仕草の一つ一つをプロシュートは軽く伏せた視界の中に見た。生い立ちも、過去も知らない男が、殺し屋の手が触れている。殺されることはない。そう信じながら目を閉じる。衣擦れの音が耳に届く。
「金曜日に」
 不意に聞こえたその言葉と共にリゾットの気配が離れた。
「…金曜日に」
 プロシュートは瞼を開き、繰り返す。
 人を殺す日だ。
 扉が閉じる。部屋に真夜中の続きが蘇る。プロシュートはもとの椅子にかけた。椅子の背に触れると、思ってもみない冷たい息がそっと滑り出た。狭いテーブルの上に空になったグラスが二つ、半分残ったワイン。プロシュートは正面のグラスに半分注ぎ、そしてその半分を干した。唇の触れた後を薄暗い部屋の中で透かして見た。頸に触れる。ヴェルヴェットの肌触り。タイを結んだ指の、あの膚の下には得体の知れないものが棲んでいる。そのざわめきが、指の離れた今、プロシュートの膚の下に蘇るようだった。
 残ったワインを、目を閉じて一気に干した。ベッドに身体を投げ出すと、埃に乗せて女の匂いも舞い上がった。プロシュートは自分を無理矢理眠らせた。

 金曜日、ペッシを連れて例の通りへ行く。リゾットと合流し、離れる。
 仕事は上手くいった。
 報酬は雀の涙だった。
 年増の娼婦の部屋に泊まり込んだペッシを置いて、夜明け前の路をアジトに向かう。扉を開けるとリゾットがいた。ワインの封は切られていなかった。
「給仕が来るのを待ってたのか、え?」
「お前を待っていた」
 ぽつりと呟いたリゾットのために封を切り、乾杯をする。飲み干したのは悪魔の金で贖った神の血。悪魔にも娘がいるという情報の流れてくる、もう少し前の話だ。



2013.4.28