ストレイライト







「じゃあヴァルキリーには君以外乗ったことがないんだな」
「そんなこたぁないだろう」
 多分、と付け加える。夕映えに金色の歯が光る。笑っている。冗談のつもりかもしれない。
 ジャイロにはこういうのが多い。多分とか、きっととか、こっそり付け加える。そのせいで何度ハラハラしたことか。最初の頃なんか砂漠で命に直結する水場を求めている最中に、多分とか言われるんだ。たまったもんじゃない。
 だけど、彼がそういう性格と分かればこちらがフォローを…ということもなくって、突発的に出場を決めたぼくに対してジャイロはこのレースに勝つための研究をして参加しているし、ぼくより五つ年上という経験の差がある。馬に関してはぼくだって負けるつもりはないが――こういう闘志、馬に乗ったらあっさり蘇ったよな――、でもちょっとした勘とか働くのは彼の方のように思える。当のジャイロは時々逆のことを言うけど――「お前の言うことなら信じるぜ、ジョニィ」。
 川面は静かで波の音は聞こえない。時折渡ってくる風が川岸の背の高い草を揺らし、心地良い音を立てる。さっき渡ったばかりの河。河の流れる先には太陽がその身を沈める。軽く柔らかい雲が地平線の彼方の陽を反射し、残照は午後がまだ続いているかのように明るい。
 しかし今夜はこの付近でキャンプだろう。今日はもう十分に走った。河を渡って、道も見つけた。ぼくは疑ってかかり、ジャイロが「あるぜ、多分、きっと」と言った道。道があるということは人が住んでいるということだ。もしかしたら一晩越すことのできる小屋があるかもな、と言うと、それに対する答は、さあな、だった。ともあれ乾いた道を踏みしめる、蹄の音は軽い。
「じゃあ、誰が?」
 ぼくは他愛も無い会話を続けようとする。
「誰だろうと関係ない。ヴァルキリーは我が愛馬に違いないんだからな」
「君の女神って?」
 答えないので戯れに、ヴァルキリー、と呼んでみたが、ジャイロの馬は知らぬ顔で前を見つめている。代わりにスローダンサーが返事をして軽く息を吹き出した。
「なんなら乗ってみるか?」
 え?とぼくが声を上げる前にジャイロは馬を下りている。
 ジャイロの馬。しがみついたりということはあったけど、ぼくがヴァルキリーに乗る?
 考えもしなかったことだ。一瞬、躊躇した。いいんだろうか、と思ったがジャイロは頓着もなく軽い調子で、ほれ、と促す。
 緊張はしない。ただ久しぶりに恭しい気分になり、ぼくはヴァルキリーに乗った。ヴァルキリーは相変わらず道の先か、遠い景色を見ている。乗り手が変わったことに、やはり頓着していないらしい。ぼくは首を撫で、よろしくヴァルキリー、と挨拶をした。その時初めて黒い瞳がぼくを見た。振り落とされることはなかった。
 初めて馬に乗る時のように背筋を伸ばす。これがジャイロの見ている景色だろうか。彼の目にはここからどんな色で世界が見えているのだろう。異国人。王から手紙をもらい、贈り物を賜る。医者…そうは見えないけど、多分。仕事とか使命とかに誇りを持っている。でも馬も好きで…破天荒なこともやらかす。一途な真面目さと大胆な自由さは矛盾しない。本当に不思議な、謎の男。同じ馬に乗っていても、彼とぼくとでは見える世界が違う、きっと。
 とん、とジャイロが背中をもたせかけた。帽子の陰になり表情は見えない。でも妙な穏やかさがある。この夕映えの景色みたいに。ぼくもヴァルキリーの上でリラックスし、少し身体を傾けた。
 ねえ、と一言声をかけるのさえ物憂いような、声にしなくても通じるような、むしろ通じてなくても全然構わないような、そんな気分だった。ぼくは心の中だけで語りかける。君はこのレースが終わったらどうするんだ。国王の恩赦で少年の命を助けたその後は?ぼくらはさようならをするんだろうか。君は君の人生がある。ぼくはぼくの目的で遺体を集め、何が何でも歩けるようになる。最初はその鉄球の力で立とうと思ってたけど…。
 レースが終わったら、なんて。今夜の寝床も、明日のことも分からないのに。でも道は続いている。その途上に、ぼくらは確かに、いる。
 生きて、いる。
 ジャイロを失いかけた恐怖はまだ胸の底にひやりと残っていた。今日も無事に河を渡ることができた。大丈夫だよ、多分な、というジャイロの声を聞きながらぼくはどれだけそれを信じたかっただろう。
 彼の言った、多分、の言葉の分だけぼくは祈った。
 こうして夕映えの景色の中にいると、祈りの届く先はあるのだと思う。それが天か、神か、聖人かは分からない。

 小屋の壁には農具の刃がずらりと並んでいて、まるで処刑人の部屋みたいだ、とぼくは感想を言うがジャイロは何も言わない。火を熾し、コーヒーで乾杯。夕方の余韻が残っていて、ぼくらの距離は近づく。ジャイロの手が服の下にもぐりこみ、ぼくの背中に残された遺体の脊椎の上を撫でる。
 心地良さに彼の胸にもたれかかりながら、ぼくは薄目を開く。横目に見えるのは夕映えのような橙色に照らされた鋤や鎌の刃。背中の遺体も、光る刃も、どこか油断ならない。
「油断ならない」
 ぼくは呟き、ジャイロの胸に顔を押しつける。
「オレの科白だ」
 ジャイロは低く呟き返す。




2013.2.1