現実らしき現実







 ヤク中が鏡の中で死んだ。おそらく最後に見た恐怖が現実か幻覚かの区別もついていなかったろうし、幻覚のようなこの世界が現実だということも知らなかっただろう。しかし今まで死んだ――この鏡の中で殺した――誰よりもこの恐怖を現実のものとして味わって死んでいったに違いない。
 口の端からこぼれる泡には血が混じっていた。ヤクがなくて気が狂って舌を噛み切ろうとした。この痩せてボロボロの、多分風呂にだって何ヶ月も入っていない、吐瀉物にまみれた服を着た男はヤクのない鏡の中で死んだが、鏡の外の世界にいたとしてもヤクに殺されていただろう。それはパッショーネが流したブツであり、であれば自分が手を下そうと、そうでなかったとしても殺したのは自分たちなのだと、鏡の中の現実も外の現実もひとところに帰結した途端、イルーゾォは溜息をついた。爪先で死体の頭を小突くとそれは張り合いもなく転がった。オレがやるのはゴミ処理だ。昔からそうだが。
 鏡の外に靴を捨てた。ついでに鏡から出て手を洗い、ついでに服を脱ぎ、ついでなのでシャワーを浴び、ついでなので髭を剃って剃刀で切る。血に汚れた剃刀を捨てる。流れ落ちる血は流れ落ちる水と混じり合ってだらだらと流れ落ち裸の胸を汚す。タオルもみるみる赤く染まった。
 何か、したいと思う。何もしないのと同じくらい空虚で無色無臭の何かがしたい。呼吸よりも静かな何か。心臓を動かすよりも静かな何か。でなければ鏡の中に真っ黒なものを全て詰め込み、その暗闇の中で誰にも聞こえない大声で嗤いたかった。ホルマジオが訪ねてきたのは鏡に両手を突いて自分の顔を睨みつけているそんな時で、鏡面も、鏡面に映る自分の頸も血に赤く濡れていた。一応自分を心配する言葉を曖昧な頷きで流し、相手の視界の外に消えようと思った。洗面所の外。鏡の中。ベッドの奥。
「剃刀…?」
 背中からホルマジオの声。それさえ煩わしく手で払うと、指先がぬめる。血と水に濡れた手はホルマジオの頬に触れていた。ぬめる。滑らせる。離れる。次にホルマジオから触れられた時にはベッドまで待つ間もないと直感した。廊下だ。犬のように這わされ後ろからのしかかられるのに逆らうよりは、そこから得られるものに声を上げて自らを見失おうと思った。喘ぐ。次の瞬間には現実的な痛みに本物の悲鳴が口をつく。
 勢いでセックスをした後はお互い妙に事務的な現実感が蘇り、ホルマジオは濡れたタオルを持ってくると血に汚れた傷口を拭い絆創膏を貼ってくれた。イルーゾォは廊下に横になったままベッドか、せめてソファに行きたいと思ったが尻から流れる血やホルマジオの射精した後を片付けるのが面倒で動きたくない。
「おい」
 爪先で尻をつつかれ、睨め上げるとホルマジオは同罪だろうと言わんばかりの溜息をついて、散らかった服から煙草を取り出した。ホルマジオはすぐそばに腰を下ろした。ライターの音。煙草の煙の、最初の一筋に匂い。差し出されたそれを断ることはしなかった。
「本当はもっと別のヤツと寝たかった」
「オレだって別のケツがよかったぜ」
「女のケツ」
「当たり前だろう」
 下らない笑い。頭の芯を痺れさせる煙草の煙。ヤクなんざいらない。オレたちは充分に狂える。狂っている。そんなの当たり前だ。暗殺者なんて年がら年中この手で人間を殺しておいて、今更マトモだの何だのゲップが出る。どいつもこいつもオレもみんなも頭のおかしなヤツばっかりだ。
「こんなの初めてだった」
 イルーゾォは裸足の足の裏でホルマジオの臑を撫でた。ホルマジオが煙草を離し、口を半開きにして見つめる。期待しやがって。イルーゾォは思い切り媚を含んだ声で言ってやる。
「こんなひっでえセックス本当に初めて…」
「てめえ」
 ホルマジオが怒りまかせに煙草を押しつけ壁紙を焦がした。イルーゾォは声を上げて笑った。



2013.4.27