ラブ・アンド・アライヴ







 およそ一ヶ月半の旅を終えてサンディエゴに帰ってきたぼくらにかけられた言葉は「おみやげ」だの「よう新婚さん」だの俗とからかいと親しみの混ざったいつもどおりのサンディエゴの住人たちのもので、ああこいつらいつもどおりだなあ、とぼくもジャイロも何だか安心してしまったけれど結構多かったのが「よく生きて帰ってきたな」っていう科白でみんなぼくらが帰ってこないとでも思ってたのかなと疑ったらルーシーまで「よかった、帰ってきてくれて…」と涙声になるもんだから、ぼくは彼女を抱きしめてそっとキスをする。
「帰ってくるさ。ニューヨークに電話くれた時も言っただろう?」
「ええ、今やっと安心した」
 みんなが考えていたのは旅先でぼくらが野垂れ死ぬということではなく、このままどこか遠くに行ってしまい帰ってこないのではないかということだったらしい。
 けれどもぼくにも、もう分かったのだ。コーヒーショップでマウンテン・ティムが、病院の中庭でシュガー・マウンテンが、教会の入口でホット・パンツがかけてくれた言葉にこそ全ては詰まっていた。
「おかえり」
 ぼくらは帰る場所に帰ってきたのだ。
「やあ再び生きて会えたことを嬉しく思うよ、ジョニィ・ジョースター」
 ディエゴには金輪際未来永劫会えなくても全然構わなかったんだけど。
 ニューヨークのホテルで受け取ったリンゴォからの手紙にはディエゴとホット・パンツのゴシップ記事が同封されていた。ジャイロは爆笑したけどぼくはしばらく不機嫌で、実際にサンディエゴに帰ってきてディエゴの顔を見ると不機嫌だとか殺意だとかでは生ぬるく、あのすました面を次元の彼方に殴り飛ばしたいと心底望んだんだけど、ホット・パンツが止める。彼女は神のように平等な修道女で、ぼくもディエゴもその鉄拳にて一発ずつ殴った。
「今度私の教会でそんなことをしてみろ、おまえらは縛り首だ」
 神を前にしてホット・パンツのその科白はいいんだろうか。
 着いた途端に色んな人に会ったもんだからアパートに着いたのが一番最後だ。ぼくらはもうくたくたで言葉少なに懐かしい階段を上りドアの前に立つ。
「ジョニィ」
 ふとポケットに手を突っ込んだジャイロが言った。
「鍵、持ってるか?」
「持ってるけど」
 ぼくはジャイロが作ってくれた合鍵をポケットから取り出し、手渡す。
「なくしたの?」
「いや、オレのもある」
 ジャイロはドアを開け、ポケットから自分の鍵を取り出してぼくに渡した。
「持ってるんじゃないか」
「それが大事なんだよ」
 なくすなよ、とぼくの鍵を壁の釘にかける。
「今更?」
 笑いながらジャイロの鍵をその隣に引っかけようとすると、ジャイロは急にぼくを抱き寄せて頬に手を寄せる。
「…今朝もおはようの時にした」
「そうだな。ここじゃあまだだ」
「確かに」
 目を瞑ると部屋の匂いがした。夕暮れの部屋の匂い。少し寒いけどカーテン越しの日光の匂いがまだ漂っていた。一ヶ月半ぶりのアパート。ぼくらの部屋。ぼくらの家。ぼくらはこの部屋で当たり前のように毎日を暮らしていた。無人の寂しい匂いと、玄関を開けた時に入ってきた新しい空気の匂いが混じり合う。それはぼくの鼻の奥をくすぐり、ちょっと涙が滲む。
「…シャワー?」
 瞼を開き尋ねる。
「ベッド?」
 ジャイロが尋ね返す。
「ベッド」
 ぼくは答えた。
 寝室に飛び込み服を脱ぎながら「窓開ける?」と提案すると、ジャイロはちょっと考えたけど「後で」と結論を出した。
「あ…」
 ぼくは手の中に鍵を握りしめたままだったのに気づく。
「五秒待ってて」
「待てるか」
 でもぼくは腕の中からするりと抜け出して裸のまま玄関の脇にとって返し、ぼくの鍵の隣に手の中のそれを引っかけてから帰ってくる。
「ただいま」
「おう、おかえり」
 ベッドの上にダイヴ。シャワーは翌朝まで持ち越し。

 一週間もすると落ち着いて、身体も日常のリズムに慣れてくる。ジャイロは今まで休んだ分とでも言うように毎日手術に治療にシュガーとのデートに盲導犬の訓練に励むウェカピポの妹の様子を見に行ったりと忙しい。
 ぼくはと言うとコーヒーショップのバイトはいつも通りだけど、久しぶりの立ち仕事は脚に堪える。でも来る客にみやげ話をするのは楽しい。みんなも結構それを楽しみにして来ているらしくって客足が増えたということだった。
「いーや違うね、ジョニィ・ジョースター。オレたちはおまえら新婚のノロケ話なんかどうでもいい、マジで」
 マジェント・マジェントがコーヒーを飲みながら言う。
「一ヶ月半も不味いコーヒーを我慢したんだ。新しいのを淹れてくれ」
 とマウンテン・ティム。
「オカワリ」
 いつもうるさいポーク・パイ・ハット小僧まで重要なのはその一言だけとでも言うようにカップを差し出した。
 ぼくは新しいコーヒーを淹れながらジャイロの手つきを思い出す。旅先で毎日のように見た、彼がコーヒーを淹れる手。思わず唇が綻んでいたらしくて、なにをニヤニヤしてんだよーッ、とマジェントが不機嫌そうに言う。
「聞きたい?」
「聞きたくねぇーよ。ノロケはもうたくさんだ!」
「ディエゴにフられたからってぼくに八つ当たりするなよな」
「フられてない!」
「だからウェカピポにしとけって言ったのに」
「あんなヤツ知らねえッ」
 でもぼくが新しいコーヒーを注ぐと急におとなしくなってそれを飲み干した。
「考えてたのはさ、そういうことじゃない。ルーシーが言ったことを思い出したんだ」
「ルーシーが?」
 食いついたのは勿論マウンテン・ティム。
「ぼくは経済的自立をすべきだって」
「正論だ」
「このみんながぼくのコーヒーを待っててくれたんなら、この店を乗っ取っちゃうのもありかなって考えたのさ」
「ジョォニィがマスター!」
 ポーク・パイ・ハット小僧はぶふーっと笑ってコーヒーをこぼす。
「てめえが帰ってきてからみんなうるさくてかなわねえよ」
 店主がぶつぶつ言いながらポーク・パイ・ハット小僧の汚したテーブルを拭く。ぼくが店を乗っ取るって発言したことへのツッコミはナシなのかなと思ったらくるっと振り向いた。
「図に乗るなよバイト」
 ですよね。
 するとポーク・パイ・ハット小僧が「ジョォニィ怒られてやんのー!マジダッセェー!」って笑うもんだから店主の頭にコーヒーがぶばーっと撒き散らされてマジェントなんかは勿論遠慮無く笑うし、マウンテン・ティムも顔を逸らして笑ってた。
 でもぼくがコーヒーを淹れるのが上手くなったのは本当のことらしく店主もそれを認めていて、バイト上がりのぼくに明日も遅れず出て来いと声をかける。窓際の席に腰掛けていたディ・ス・コが振り返り、黙って手を振った。ぼくは良い気分で店を出た。
 日は暮れたけど西の端の空はまだ明るい。ぼくはスーパーに寄って今日の晩ご飯を買う。紙袋を抱えてアパートへの道を歩いていると疲労がずっしりとした重みになって脚に食いつくのを感じた。横断歩道で立ち止まるとそれはいっそうはっきりとしたものになる。今日もすっかり疲れた。晩ご飯、惣菜でもよかったかもなあ。チャイニーズとか。あと冷凍ピザとか。別に冷凍じゃなくたってデリバリーを頼んでもいい。
 歩くほどに脚の疲れは重くなって以前のぼくだったらアパートに帰ると同時にベッドに倒れ伏して動かなかったんだけど、買い物の袋を抱えているからそうもいかない。買ったばかりのヒラメを取り出して、一瞬冷蔵庫に放り込もうという衝動に駆られたけど、時計を見て、冷蔵庫にはジャイロから何のメモも貼られていないのを見て、おとなしくそれを料理することにした。多分ジャイロは夕飯までに帰ってくる。
 焼けたフライパンにオリーブ油を垂らすとそれだけで美味しい匂いが立ちこめて、やっぱり料理をすることにして正解だったと思わせた。ハミングしながらムニエルを焼いているとジャイロが帰ってくる。
「魚か?」
「君、好きだろ」
 ジャイロはフライパンを覗き込む。
「ヒラメか。いい匂いだ」
「安かったんだ」
「鱒も美味いぜ」
「じゃあ今度」
 そういえばどうして自分で料理をすると食べる前からお腹いっぱいになるんだろう。それにどんなレストランの料理よりも美味しく感じる。夕飯の後、満腹のぼくは皿を洗ってシャワーを浴びると満足しきってもう動けなくなる。ソファでごろごろしてたらジャイロが抱えてベッドまで運んでくれた。
「きついのか?」
 脚を揉みながら尋ねる。
「ううん」
 ぼくは首を横に振って微笑んだ。
「気分がいいよ」
 ジャイロはもう少し起きていると言い、ぼくは彼が寝室のドアを閉めるとすぐに眠りに落ちた。
 目が覚めたのは肌寒さでだ。そういえば髪が生乾きだった。起き上がり時計を見ると真夜中。ジャイロはベッドにいない。
 脚は動くようになっていたので起き上がった。息を潜めてドアを開けるとどこも明かりが落ちていた。テーブルの上にはジャイロが勉強の時に使う電気スタンドだけが点いている。当のジャイロは突っ伏して眠っているようだった。何故かぼくは声をかけず、足音を忍ばせて彼に近づいた。テーブルに伏した彼の手の下には書きかけの手紙が敷かれていた。
 分かってる。こういうのって読んじゃいけないよな。でも偶然目に入った分については罪は免除される…そうだろ?
 誰に宛てた手紙かは分からない。多分家族…両親のどちらかではないだろうか。手紙はイタリア語だった。見えた単語もほとんど読めなかったけど、一部判読できてしまったのは「あなたが自分の妻を見つけたように」「私のパートナー」「魚料理」、それから何度か繰り返された単語「脚」。
 ぼくは偶然見てしまったものを忘れることにしてトイレに行きベッドに戻った。

 ぬくもりが重量をもってぼくを抱いている。その重くて心地良い感じ。目覚めなきゃいけないんだけど、もう少しだけ抱かれていたい。…あ。なんか熱い。
「ジャイロ」
 目を瞑ったまま呼びかけると、んー、とまだ眠そうで気持ちよさそうなジャイロの返事。
「当たってる」
「お前が当てて……」
 言いかけたジャイロの喉がひゅっと鳴った。
「ジョニィ…!」
 ぼくも気づいた。ジャイロじゃない。ジャイロのだったらぼくは知っているのだ。これは違う。っていうか違うって言ったらこのベッドの上にいるのは誰だって話で、ばっと目を見開いてもベッドの上にいるのは当然ぼくとジャイロだけで、っていうかこの熱は、この忘れかけていたけれども確実に覚えている熱は。
「あ、あ、あ……」
 何て言えばいい?どうすればいい?っていうか何か言わなきゃいけないのか?これどうするんだ?せっかく…勃ったんならしなきゃ勿体ないんだけど、途中で萎えたりしないよね?萎えたらぼく泣くよ?落ち込んで立ち直れないきっと!
 どうしたらいいか分からなくてぶるぶる震えながらジャイロの胸を引っ掻いていると、落ち着け、と手を押さえつけられた。
「落ち着け、いいか、大丈夫だ」
 ぼくは震えながら頷く。
「いいことなんだよ。スッゲーめでてえことだ。な?」
「うん…」
「じゃあこのまま、落ち着いて、オレの言うことを聞くんだ。オーケイ?」
「分かった」
「愛してるぜ、ジョニィ」
 その瞬間ぐわんと音を立てて熱が脊髄を直撃し、デリンジャーで撃たれた時の比ではない衝撃が身体中を駆け巡った。血液が沸騰するかと思うほど熱くなり、血管の流れる激流のような音が聞こえた。手足は痺れているのにぎゅっとジャイロを抱いて離さない。熱は…数年ぶりの熱は昂ぶりを増して脈打つ。痛い。
「ジョニィ」
「う…ん……」
 蚊の鳴くような返事をするぼくにジャイロはキスをする。いつのまに涙がこぼれたんだろう、濡れたこめかみや頬にやさしいキスが触れる。
「ぼく…もう言ったかな…」
「今日はまだ聞いてねーかもな」
「君を…愛しているよ、ジャイロ・ツェペリ」
 スッゲーよく分かる、と言って彼の手がぼくに触れた。
「触らせてくれるか?」
「もう触ってるじゃないか」
「返事は?」
「…いいよ」
 ジャイロの掌が触れて、ぼくは熱が勝手にほとばしりそうになるのを抑えたいけど上手くいかない。朝から二人でシャワーを浴びて、そこでもジャイロはぼくのに触れてくる。
「気に入った?」
「ああ。おまえの全身が生きてることを神に感謝してる」
「…ぼくもだよ」
 とうっかり浴室でも盛り上がりそうになるけど、ちょい待ち、とジャイロはぼくの肩を掴んだ。
「今夜が楽しみだ。そうは思わないか?」
「え?」
 ぼくは濡れたタイルの壁にジャイロの身体を押しつける。
「させてくれるの?」
「そりゃ今夜のお楽しみってやつだ」
 ニヤニヤ笑ってるってことは多分形勢逆転されることはないっていう余裕なんだろうけど、ジャイロ、笑っていられるのも今のうちだ。ぼくは彼の胸を一つ叩いて離れる。
「お、ジョニィ、男前じゃないのよ」
「今日一日のやる気が湧いた」
 浴室を出て濡れた足跡を残しながら下着を拾ったりコーヒーを淹れたりするうちにサンディエゴのいつもの朝がやって来る。窓から吹き込む風にぼくがくしゃみをするとジャイロが髪を乾かしてくれる。その後、ジャイロを椅子に座らせてぼくが彼の髪を乾かす。冬の朝の風とドライヤーの温風に舞い上がるジャイロの髪。ぼくはそれをそっと手にとってキスをして返した。
 仕事に出掛ける前、ジャイロは封をした手紙をポケットに入れていた。病院の前のポストに投函するんだろう。
「ぼく、今日は早いからクラブに行ってスロー・ダンサーと君のヴァルキリーを見てくるよ」
「じゃ、そのままいろよ。迎えに行く」
「夕飯は?」
「どっかで食って帰ろう」
「オーケイ。じゃ」
 ジャイロの車は気持ち良く通りを駆け抜けてゆく。ぼくはコーヒーショップまでの道のりを自分の脚で歩く。
 いつもの平日。いつものサンディエゴの街。高いビル。作りかけのそれの上で働くクレーンを動かしているのはポーク・パイ・ハット小僧だろう。パトロール中のマウンテン・ティムとすれ違う。ショーウィンドーのテレビにディエゴ・ブランドー議員のインタビューが映ってるのを無視して通り過ぎる。
「おはよう」
 店のドアを開ける。そこにはカウンター席に腰掛けたリンゴォの姿があった。リンゴォ・ロードアゲインがぼくのコーヒーを飲みに訪れたのは初めてだ。
 ぼくは今朝一番のコーヒーを淹れる。それからみやげ話を始める。何度この話を繰り返してるんだろう。よく飽きないよな。でも実際に飽きないんだ。ぼくは語る。ニューヨークにゴールする物語を、もう一度、サンディエゴから。



2013.4.18