チアー・アンド・エンゲージメント







 この旅に必要なものなんて多くなかった。地図と、ギターと、手紙を書くためのペンと、それから幾らかのお金。チャーリー・チャップリンが言ったとおりだ。サムマネーで十分。更に言えば地図はろくすっぽ役に立たなかったし、ジャイロはギターなしのアカペラでも歌えた。ぼくもそれについていけるくらいジャイロとは歌い慣れている。ペンはあった方が何かと便利だけど。ジャイロが急に新曲やギャグを思いついた時とか、色々。
 極端な話、ジャイロとぼくの身体を運ぶこの車一台あればそれで事足りる旅だったし、更にぼく個人の究極論を言えばジャイロが隣にいるだけでいい。ヒッチハイクだってバスだって、どんな方法もあるだろう?ぼくらは馬にだって乗れる。彼が隣にいてニューヨークを目指す旅、それが全て。
 だから余分なものはいらなかったのだ。何をもって余分とするかは線引きが難しい。例えばジャイロのクマちゃんは彼にとって必須。ぼくも撃つ訳ではないのに弾倉が空っぽのデリンジャーを手放さない。判断基準は主観的で、人生に直結していて、故にぼくはこのことを否定するのも…と思っているんだけど、正直今この助手席に座っていて気まずい。
 今朝の話だ。
 太陽の姿は見えないけれど窓を輝かせる朝の光が眩しすぎて、細めた目にホテルの部屋は青く見えた。片肘を突いてぼくを見下ろすジャイロの髪も、時々こわいくらいに物事の中心を見据える瞳を縁取るまつげも、青く透けて見えた。ぼくは手を伸ばして彼の顔の影をなぞる。ジャイロはぼくの好きにさせて動かない。指の背で空気と肉体の境界をなぞるように撫でる。鼻の影。唇の側をなぞっても、彼は噛みついたりふざけたりしなかった。喉から胸の上に滑り落ちて、そこにわずかな鼓動を感じた時、ぼくは衝動に逆らわずただし落ち着いた気持ちのまま彼の胸に顔を近づけて静かなキスをした。
 静かで充足した時間。ぼくらには分かっていた。車は今夜にもニューヨークに到着する。旅のゴールは目の前だ。あるのは歓びと感謝の気持ち。ああ、それだけで十分だったんだ。でもぼくの心の中には靴の中の石ころみたいに転がって無視できない問題があった。黙っておこうとは何度も考えた。これはぼくの罪じゃない。ぼくは口を噤めばいいだけの話だと。忘れてしまえ、もう何年昔の話だよ…。
 でもジャイロがキスしようとした瞬間にぼくはジャイロを押し倒し馬乗りになる。朝の冷たい空気が鼻腔から喉の奥を刺す。
 安ホテルの一室。清浄な十二月の朝。ぼくはかつて自分の主治医にレイプされたことを告白した。
 これが今朝のことだった。それっきりジャイロは何も言わない。いや、出発するぞとかそういう会話未満のものはあったんだけど、車の中ももうずっと無言で、ニューヨークに近づくにつれ道は少しずつ混み始めてスピードが緩やかになる。もう傾き始めた陽が目の前を走るピカピカのジャガーに反射して眩しい。もう夕方だって?昼食も摂ってない。それどころかジャイロと何も話してないのに!
「何か言えよ!」
「うお!」
 ジャイロは慌ててハンドルを切りあやうく中央分離帯にぶつかろうとした車をもとに戻す。後ろからクラクションが鳴らされる。ジャガーがぼくらと距離を取ろうとスピードを上げる。
「いきなり大声出すなよ」
 と言うジャイロの口調はそう怒ってもいない。たしなめる感じで、突然の大声には驚いたけどそれ以上はないって感じで、ぼくは更にむかっ腹が立った。
「君が何も言わないからじゃないか!」
「だから大声出すなって。タイミングの分かんねえヤツだな」
「分からないのは君の方さ!どうして黙ってるんだ、普通何か言うもんだろ!」
「何に…」
「話を逸らさないでくれ!」
「逸らしてねーって」
 あー、とジャイロは声を上げ、めんどくせえなあ、と呟く。
「めんどくさい?ぼくが?」
「落ち着けよ、ジョニィ…」
「だって…あんなこと聞いたら、普通……」
 今朝の告白を繰り返したってしょうがない。でも、じゃあ何を言えと?
 言葉に詰まったぼくが頭を抱えて俯くと、ステアリングを離れたジャイロの手が頭の上にのった。
「普通普通っておめーよぉ、慰めてほしい訳?それともおまえのこと気持ち悪いつって駐車場に置き去りにすればよかったのか?」
 そういうことじゃ…と弱々しく呟くと、小突くようにして手は離れた。
 それからまたしばらく静かになった。ぼくは俯いたままエンジンの音を聞いていた。こういうつもりじゃなかったって言うのも今更だけど、本当にこういうつもりじゃなかった。ニューヨークを目の前にケンカなんかするつもりはなかった。ぼくらは笑顔でこの街に入りたかったのだ。旅のゴール、ニューヨーク、マンハッタン島。笑顔で辿り着こうと思っていた。それがぼくの望み、ぼくの夢見たこと…。
 ジョニィ、と低い声が呼んだ。
「覚悟はあるか?」
「覚悟?何の…」
「オレはおまえを抱くぜ」
 知ってる。だからぼくは君にあの過去を告白したんだ。君は怯まないだろうと知っていたから。そしてぼくは何を望んだんだろう。彼の言ったように慰められること?なお愛していると言われること?
「…君を試した訳じゃない」
 ようやく言葉を絞り出したぼくは、返事が聞こえてこなくてももうヒステリーは起こさなかった。ジャイロは確かにぼくの言葉を聞いていたし、ぼくが言う前からそのことは知っていたのだ。

 郊外で一度、トンネルの中で一度、全く動けない渋滞にはまった。お腹は空くしトイレに行きたいしで、ルーシーがニューヨークに行くならここがオススメと教えてくれたレストランに着いた次の瞬間にはテーブルよりもオーダーよりもトイレに駆け込んでいる。ようやくニューヨークに着いた感慨もない。
 クリスマス目前でホテルはどこも混んでいたけれど、ジャイロの勘っていうか、こっちに行けばホテルくらいあるだろ、多分、っていういつものやつにまかせて進んでいたら、どうにか屋根の下のベッドに腰を下ろすことができた。
 背中合わせに狭いベッドに腰掛け、互いの呼吸の音を聞いている。ジャイロのは静かだ。いつもと変わらない。ぼくのは意識すると変則的になってしまう。シャワーを浴びた方がいいのか、それとも先に浴びてきたらと言うべきか。こういうのってどうすればよかったんだっけ。今までどうしてたかな。あんまり気にしたことなかった。だってぼくの知ってる女の子って自分から服を脱ぐんだぜ?
 あの日、ジャイロと一五〇〇〇メートルの勝負をした夜はジャイロがぼくを抱えていってくれた。別にそんなロマンチックなのを期待してるんじゃない。でも、あの夜は何だか心が通い合っていたんだ。今はすぐ背中にいるのに呼吸の音を聞いて息をひそめている。
「…らしくないよね」
 呟いた途端に、本当にそうだと思い笑いがこぼれた。
「何やってるんだろう」
 思わず声を上げて笑うと隣の部屋から壁を叩かれる。
「まったくだ」
 ジャイロがふっと息を吐くのが聞こえた。
「ジャイロ」
 振り向いて名前を呼ぶと、彼も振り向いてぼくの目を見た。
 ぼくらは手を触れ合わせてしばらく見つめ合った。多分、今朝の告白なんかなしに、ここでこそ何か言うべきだったのだ。愛の言葉とか感謝の言葉、旅の思い出話。それからキス。でもぼくの目には涙が滲んでそのうち彼の顔だってぼんやりとしか見えなくなったし、泣きすぎて鼻水までこぼれてキスどころじゃない。
「しょーがねえなあ」
 呆れたようにジャイロが笑う。そして鼻水が流れ落ちてるぼくにキスをし、ぬるっとした感触に汚えっと声を上げるが笑っている。
 笑いながら泣き、泣きながら笑い、涙も鼻水も流し尽くしてようやく泣き止んだ時、部屋は本当に静かになった。窓の外は、流石世界一の都市だ、夜だというのに音に満ちている。車の走る音、パトカーのサイレン、人の声、ストリートライヴのギター。でも薄い窓ガラス一枚はまるで世界の果ての壁みたいにそれらを遮り、ぼくらに届けなかった。
 ジャイロがぼくの服に手をかけた時、ぼくは彼が何も言わなくても彼のことが分かった。ジャイロは黙って静かにぼくの服を脱がせた。その指先には不思議といやらしさはなかった。時々触れる手が、ぼくのことをちゃんと尊厳のある一人の人間として扱っていることを言葉以上に教えてくれた。そこにあるのはぬくもりで、ぼくらが出会い、並んで馬を走らせ、隣同士に座って歌うようになり、同じベッドで眠るようになった日々共有してきたもの、そして培ってきたものだった。
 ぼくは身に纏っていたものを全て脱がされ、ジャイロに触れられた。ぼくが彼だけにあげた秘密、首筋の下の星型の痣も、奇跡の埋まった腰も、銃創も。彼がもう何度も触れたことがあるそれらの箇所を確かめることで、ぼくも自分の形を知る。ぼくには肉体がある。意志によって動く身体が、そして脚が。ジャイロはキスをする。太腿に、膝に、臑に…。爪先にキスをされた感触がきちんと脳まで伝わってその反応でぼくの全身が震えると、ジャイロは満足そうに笑った。
 誰もぼくにこんなことをしたことはない、とぼくは思う。でも、もう言わない。ジャイロの裸を抱きしめて強く力を込めれば、ぼくにも今まで気づかなかった彼の身体の色んなことが分かった。
「熱い…」
 耳元で囁くと規則正しく整えられた息の合間が揺れてジャイロが笑った。
「お前の身体もだぜ、ジョニィ」
「君のは、もっと熱い」
 ぼくの褒め言葉はジャイロを喜ばせたらしく、息が獣のように乱れた。ジョニィ、と呼びながら彼は呼吸を整えようとする。ゆるやかに長く続くこの歓びを終わらせたくない。それはぼくも同じことだけど、でもジャイロの息を乱させる楽しさもある。
 ぼくはベッドの上で笑う。小さくだけど声に出して笑う。笑いながらまた涙が滲んでくる。涙が出ると感情が昂ぶるままに引き摺られて本格的に泣きそうになるけど勿論悲しいんじゃないのは分かるだろ?
 言葉にしなくても伝わるはずだ。ぼくは両脚を使ってジャイロを抱きしめる。ジャイロの手は今度はいやらしく、でも流れる汗さえ愛情に満ちてぼくの脚を抱える。

 ベッドにジャイロ一人を残してホテルを出たのは夜が明けるずっと前の時間で、誰も彼も深く眠っていた。拾ったタクシーに自由の女神の見える場所までと伝えるとバックミラー越しに見える目がぼくをカモにできるかどうか値踏みした。ぼくは黙ってそれを見つめ返した。運転手はすぐに目を逸らして車を動かした。
 ウォーターフロントガーデンから見る自由の女神は夜の名残に溶けるような黒いシルエットになっている。ぼくは柵にもたれかかって空が、そして空を映す湾が少しずつ光に染まるのを見つめた。最初はささやかに混じる光の粒子。空気が青く染まり、そして太陽の光を少しずつ溶かし始めた空が朝焼けの紫色に染まると、それまで水だったような空気の中で息が通るようになる。
「ジョニィ!」
 突然大きな声で呼ばれてビクッとした。振り向くとジャイロが立っていた。
「い…きなり大声出すなよ」
「仕返し」
 ジャイロは歯を剥き出しにして笑う。
「…どうしてここが?」
「知りたいか?いや、それはオレの方だね。なんたって目が覚めたら隣におまえがいないんだからな。オレの方が知りたかった」
「じゃあ君に譲る」
「どうして一人で来たんだ」
 隣に並び、ジャイロも朝焼けの湾を見る。
 何故なのか、ぼくにも理由は言えなかった。ただこうやって一人で大西洋を見つめていると、大切なことが一つ一つ分かってきたんだ。脚が再び動いた時、ぼくはこれの為に命を差し出しても惜しくないと思った。動くようになった脚でサンディエゴまでやってきて横断歩道でジャイロに轢かれそうになり、二年ぶりに大声で笑った。馬に再び乗せてくれたのはジャイロ。耳にこびりついて離れない変な歌を歌ってぼくに皿を割らせたのもジャイロだけど、世界一美味しいコーヒーを淹れてくれたのもジャイロ。
「君が隣にいることを確かめるために」
 ぼくは答えた。
 ジャイロは朝焼けの湾を背景にしたぼくの写真を撮った。ぼくは彼の構えた携帯電話の小さなレンズの向こうにジャイロを見、ジャイロの向こうにジャイロに出会うことで広がった世界と出会った人々を見る。
 十二月の早朝の寒さ。心から湧き上がろうとする笑顔と、真剣な気持ち。色んなものがぼくの顔の上で混じり合う。シャッターを切る音。
 朝日が上り、イーストリバーの川面が金色に輝く。ぼくらは歩いてブルックリン橋を渡り、マンハッタン島へと帰った。

 その後、色んな場所で写真を撮った。タイムズスクエアにも行ったし、ブロードウェイも、観光船に乗ってリバティ島に渡り改めて自由の女神をバック撮ったし、ウォール街に点灯したクリスマスツリーも見に行った。
 そうそう、それからツリーのすぐそばにあったトリニティ教会。ここでの出来事は、まあ世間一般に言わせればバカップルって言うか、ぼくは何とでも言えと思うんだけど、あまり吹聴しないでおこうかな。写真を撮ったんだけどね。ホット・パンツに送ることにした。うん、写真を撮るときジャイロはぼくを両腕に抱えてそれから…。
 あ、駄目だ、先に笑いがこぼれる。うまく喋れそうにない。でもここまでくると言葉にしなくても伝わるんじゃないかな、多分。
 ぼくはサンディエゴに宛てた手紙に写真を添えて投函した。後ろでジャイロがくしゃみをする。
「寒っ」
「ああ…そりゃそうだよ、降ってきた」
「早くワイン買って帰ろうぜ」
「うん」
 乾杯はホテルの部屋で。神への誓いが人のいっぱいいる場所だったから、これくらい二人きりでしなくちゃあね。



2013.4.13