ドラッグ・アンド・ウォーター







 ハードボイルドエッグにラスク。それからジャイロの淹れてくれたコーヒー。それさえあればこれが最後の晩餐になっても後悔がないというメニュー。特にイタリアンコーヒーかな。死後の世界に匂いを連れて行けるとしたらこの匂いがいい。ジャイロの髪や彼が時々かぶるつば広の帽子、二人で眠るベッドの匂い以上の思い出がコーヒーの匂いには詰まっている。
 昨夜、風のない穏やかな夜だった。ぼくらは一晩中車を走らせ、夜明け前にちょっとだけ仮眠を取り、それからこの街に入った。スターバックスで朝食。コーヒーとスクランブルエッグ。君の淹れたコーヒーが飲みたいと独り言のように呟くと、豆買っていくか、とジャイロが後ろを振り向いた。カウンターを見ようとした何気ない仕草だった。
 でもつぎに顔をこちらに向けた時、ジャイロの表情は少しだけ変わっていたんだ。ぼくは気づいた。その目はぼくらが初めて出会ったあの時、早朝の横断歩道にへたりこんだぼくを見下ろしたのと同じ目だった。真正面から対象を見る目。だけど必要以上に近づいてはこない。視線の分だけ隔てられた適切な距離。
「なに?」
 ぼくもちらりと振り返ったけれど、カウンターとの間にはテーブル席についた客くらいしか見えない。大学生だろうか。若い女の子だ。コップ一杯の水をぐいっと呷るところだった。なんでもない光景だ…、そう思いながらぼくも首を戻し、しかし頭の中では視界の端々に映ったものを精査している。カウンターの男は黒人だ。ちょうどドアが開いたせいだろう、冷たい風が吹き込んで、肩に口を押しつけ咳をしていた。豆は何種類もある。ちょっと変わったパッケージが目についた。フェアトレードの商品だ。イタリアンロースト。ジャイロはこれを選ぶかもしれない。女の子は水を飲んでいた。コーヒーのカップは別にあるのに。何を飲んだんだ。手の側にはタブレットを取り出したらしいカラの包装が落ちていた。破れたアルミのシート。大きなタブレットだ。同じものが二錠。もう一つ包装の違うものがもう一錠…。
 ジャイロはあの薬を見た。そして彼女の病気が何かを知ったのだ。知ってもどうしようもないこと。美味しいコーヒーをおかわりしたくなる。ぼくはカウンターに向かおうと立ち上がり、ジャイロを見下ろす。
「ジャイロ…?」
「水」
「ほんとうに?」
 水を頼んだのは偶然すれ違った運命への感傷だろうか。最初から自分には触れ得ない、どうすることもできない人生が終わりに向かって突き進んでゆく。彼はそれを見ただけだ。コーヒーでは記憶に強く染みこんでしまうから、無臭で無色透明の水がいい。
 そんな風に考えたぼくの方こそ些細な光景から誇大な妄想を膨らませているだけかもしれない。もしかしたらスクランブルエッグの味が気に入らなかったのかも。
 ぼくは今日の夕方にでもなればもう、すれ違った女の子のことなんて忘れているだろう。ケンタッキーでつきあっていた女の子の顔だって何人も思い出せないんだ。スターバックスで水を飲んでいた女子大生なんてすぐに忘れる。
 隣の席に戻ってくると、ジャイロが突然こう言った。
「なあ、ジョニィ海流って分かるか?」
「あのさ、確かにぼくは子どもの頃ろくに本を読み通したことがないし、教科書を捨てたことだってある。でも流石に失礼なんじゃないか?」
「海の水がよぉ、地球を一周して同じ海に戻ってくるのに何年かかると思う?」
「さあ…百年くらい?」
「二千年だとよ」
 ジャイロはコップの水を飲む。
「そりゃあ国によって水の味も変わってくるよなぁ…」
 水を飲み干してジャイロは空のコップを目の高さに持ち上げた。その中に海でもあるみたいに。
 いつの間にか女子大生はテーブル席からいなくなっていて、カウンターの黒人がまた咳をする。ぼくらも店を出る。豆を買うのをすっかり忘れる。

 午後にはデラウェア湾が見えてくる。大西洋がすぐ目の前にある。ぼくはその水を抱きしめたくなる。冷たい海水を。白く泡立つ波を。冬の午後の光に照らされたその光景は懐かしくて、ひどく寂しい。
 ハンドルを掴むジャイロの手にそっと自分の手を重ねると、ジャイロはちらりとぼくを見た。ぼくの泣きそうな顔が彼の目に映っている。その目はほとんど横目に見ているだけなのに、ぼくの心を真っ正面から見る。そしてぼくが泣きそうなのに気づいてしまう。
 ぼくときたらひどく感傷的な気分になって今にも泣きそうなのに、彼は微笑むだけで何も言わない。しかしその沈黙は饒舌だ。たった一言を繰り返しぼくに囁いてくる。
「そうだね」
 ぼくは口に出して彼の視線の囁きに応える。
「君はここにいる」
 手を重ねたまま、車はウィルミントンに着く。ドラッグ・ストアに寄ってコーヒー豆買うことにした。ついでに他の棚も覗きながらぼくは、棚の一角を占める大きなタブレットに気づく。サプリメントだ。鉄分補給。女性には貧血が多い…。
「おい、なにをニヤニヤ笑ってんだ?」
 ジャイロが後ろから覗き込む。
「何でもない…」
「鉄分補給?足りてねーか?ああ…足りてねーよな。うん、今夜は美味いもん食おうぜ」
「そうだね」
 夜はイタリアンレストランで食事を摂った。と言っても高いところには入れなかったけど、ジャイロは入口の前で鼻をひくつかせ、ここなら間違いないぜ、多分、って本当に信じて良いのかって言葉を最後に付け加えたけど、本当に当たりだった訳だ。
 ワインに口をつけながらジャイロは上機嫌で、グラスの中の赤い液体をくるりと回す。グラスを一周。ほんの一秒。
「ジャイロ、君のコーヒーが飲みたい」
「ホテルに帰ったら淹れてやるよ」
 今はこれで我慢しろ、とテーブルの下でジャイロの爪先がぼくの爪先をつついた。
「…いや、変な意味じゃないんだけど」
 爪先がくるぶしからふくらはぎを辿る。なんだよ…、今日は、こう、もっと真面目な話をしようかと思ったのに。大西洋の波を見た時の気持ち、君に伝えてもいいと思ったのに。
 でもいいや、と思ってしまった。そういうのはニューヨークに着いてからでいい。今は、靴の爪先が触ってる、そこに神経を集中させる。瞼を閉じて、彼の爪先に話しかける。
「コーヒー、明日も」
「ああ」
「あとゆで卵とラスク」
「ハードボイルド?」
「もちろん」
 ぼくも爪先を彼の足に触れさせる。ジャイロが笑ったのが、目を瞑っていても、分かった。



2013.4.4