テン・アンド・セブン・アンド・ハーフ







 ランドリーの丸い扉から洗濯物を放り込むと、ここまでの道のりやその中でジャイロが見せた表情、こぼしたコーヒーの味、夕焼け空の色が急に思い出されてゆっくりと手を止めた。ジャイロのシャツも自分のシャツもパンツも下着も靴下も何もかも、この鈍い銀色の光るドラムの中で同じ洗剤と同じ水によって洗われるんだな、と思うと、これから洗い流される匂いも愛しいし、また洗われたシャツを着てこれから向かう街を思い描くのも楽しい。ニッケルのトークンを滑らせる。機械の奥でカシャンと音がして、水がみるみる溜まってゆく。
 夜だった。モーテルの敷地内にあるコインランドリーは少し埃くさくて、薄暗かった。ベンチの上には雑誌が読み捨てられていたが拾う気にはならない。さっきフロントで買ったのと同じトークンがベンチの下に落ちているのが見える。ぼくはそれを拾って、ベンチの上で膝を抱えた。
 ジャイロは部屋で眠っている。タフな男だが、霧の中の運転で神経を使ったのだろう。この街につくや否やミルク色の霧の中にぼんやりと光るモーテルの看板を見つけ出し、五分寝る、と言ってベッドの上に倒れてしまった。精々一時間ってとこかな。夕飯だってまだだ。ぼくたちは今朝から何も食べていない。
 しばらくはジャイロの隣に寄り添って彼の寝顔を眺めていたけれど、五分が過ぎても、一時間が過ぎても、彼は一向に目を覚ます気配がなかった。ぼくはポケットの中で音を立てるコインを確かめ、洗濯物を抱えてコインランドリーに向かった。
 ボタンの横に灯る緑色のデジタル数字はなかなか減らない。あと十分。さっきもそう思ったはずだ。洗濯物は回り続けている。丸い扉には泡と水が打ちつけられる。
 急にキスがしたいと思った。理由は大してない。離れたからだな、と思う。ジャイロが目を覚まさないからだ。黙ってランドリーに出てきたからだ。思いもかけず離れてしまったから。離れた、とはいえ同じモーテルの中。大した距離じゃないのに、これまで一台の車の中、四六時中一緒にいたものだから、ほんの少し側にいないだけで景色が不完全に見える。これじゃあサンディエゴに帰った時どうするかな…。
 でもぼくにはこうして旅をしている間はゴールの更に先の光景など想像もできない。本当に毎日毎日が白紙なんだ。朝目が覚めて一日が始まる。誰も知らない未来に勇気を出して一歩踏み出せば笑い出しそうな二十四時間を駆け抜けることができる。そう、ジャイロが隣にいれば。膝を抱えたまま緩く笑う。ぼくはこの旅を楽しんでいる。
 幕開けからして波乱だった。アリゾナ砂漠でのエンスト、ミセス・ロビンスンのカフェ。ブンブーン一家に車を盗まれそうになったこと。逆に車のガソリンを盗んでやったこと。しかしロッキー山脈で見上げた星空は最高だった。クソ寒い中を野宿――車の中だが――だったが文句もなかった。美味いコーヒーに誰もいない世界、星空。カンザス・シティでは急な雨に降られて傘を買ったら傘屋の店主がやけに熱心に神のことを説いてきて、逃げられずに話を聞くはめになった。店主のブラック・モアめ、商品の傘をなかなか手放さないんだ。やっと話を打ち切って外へ出たら雨上がりの空に虹を見た。
 時々、キスをした。車の中で。たまにはベッドの上で。まだ服は脱いでいない。ぼくは悩んでいる。デリンジャーで撃たれこの脚が動かなくなった時、主治医にレイプされた…。わざわざ言うことだろうか。これからという時にそんなことを言えば気を悪くされるか、気持ち悪がられるか。たとえぼくがジャイロの性格を知っているとしても、どんな反応も可能性としてはあるだろう。笑って受け容れてくれるような想像はするだけ後々のダメージを深くしかねない。
 でも、触りたい。
 薄暗いランドリーのベンチの上、気分もモノトーンの薄暗い中に落ち込みそうになりながら、ぼくは胸の中にジャイロの目を思い出そうとする。自分を真っ直ぐに見つめる目。出会いの瞬間から今に至るまで、喧嘩もしたし殴り合ったこともあるが、彼は最初から自分を真っ直ぐ見つめた。正面から真っ直ぐ。たとえそれが見下ろす視線であったとしても、お互いの目と目が向かい合っていた。
 あの目がぼくを見る。ぼくはもうジャイロのものだ。喉の奥が、首筋がちりちりと痺れる。言えるだろうか。触って、と。彼に見つめられたまま言えるだろうか。まだ勃たない。男の男たるこの機能が死んだとは信じたくないんだけど…サンディエゴに来る前は死んだと諦めるしかないものだったし…今はジャイロに触れられるだけで心地良い、そんな快楽もあるのだと思う…でも…だから…。
 触、って。
 胸の奥で見つめる目に向かって囁くと本当に勃起しそうな気もした。早く部屋に戻りたい。
 カシャンと音を立ててデジタルの数字がゼロになる。ぼくは脱水された生温かい洗濯物を乾燥機の中へ乱暴にぶち込むと手の中のトークンを投入しようとしたが、慌てすぎたせいか指が滑る。落ちたトークンは薄暗いランドリーを涼しげな音を立てて転がり、ベンチの下で止まった。元の場所に逆戻りだ。あのトークンは永遠にあそこにあるのかもしれないな。
 ちゃんとフロントで買ったトークンをポケットから取り出し、今度こそ投入した。乾燥時間のデジタル数字が灯る。三十分。十分な時間じゃないか?
 走りだそうとした脚がよろめく。ぼくは自らを叱咤しながら部屋に戻った。

 靴を蹴飛ばしながらベッドに上り、ドアの開く音で既に目覚めていたジャイロが何か言う前にキスをして襲いかかろうとしたが、その目に見つめられると一瞬動きが止まってしまう。するとジャイロが、泡の匂いがする、と言って自分からキスをした。
「薄暗い匂いもするぜ」
「ランドリー。……あの、ジャイロ」
 言えるだろうか。
「あのさ」
 靴はもう脱いだ。別に靴くらい履いたままでも。この際乱暴でもいいから。今なら、もしかして、勃つかも。
「さ……」
 触ってもらえれば。
「…っ………」
 喉が詰まる。唾を飲み込み、大きく息を吐いた。吐いた分だけ苦しく、息を吸い、また吐く。息をしているのに苦しい。空気は出入りしているのにうまく呼吸ができない。過呼吸のような息を繰り返している内に、何分経っただろう、三十分で終わらせて、それからランドリーに乾いた洗濯物を取りに行って、と考えるぼくの頭はおかしいような気がする。ジャイロは、落ち着けよ、と言いながら耳の後ろを撫でてくれる。
「ごめん…」
「どうした、ん、ジョニィ」
「ぼく……」
 今更、きれいだった時、を思い出そうとしてもニコラスの生前ですら臆病と意気地無しと、子どもにはキツイ言葉かもしれないがクズな性格の持ち合わせは否定しようがなく、ぼくはジャイロの言葉より自分自身に対する軽い失望感で落ち着いてしまった。
 もう勃たないだろうな、どう転んでも。諦めは失望と仲良く手を繋いで、ぼくは改めてごめんを繰り返しジャイロから離れようとしたが、いつの間にかジャイロは強い力でぼくを掴んでいる。
「痛……」
 そして離さない。声を上げる間もなくベッドの上に転がされた。ポケットの中で小銭が鳴る。そして静かになる。
「ジョニィ」
 ジャイロはにやりと笑っている。上から覆い被さり両腕の中にぼくを閉じ込めながら、尋ねる。
「おまえは何分くらいかかるんだ?」
「は?」
「何分あればやってのける?」
 乾燥時間は三十分。もう半分経ったか?
「…さあ」
「普通の男はどうなんだろうな。六分か?七分か?オレならその半分の時間でできるぜ、ジョニィ」
「……それって」
 ええと、それってマジなのか?この太腿で触れたことのあるジャイロの実に男性的な自己主張。あれが?本当に?マジで?六分の半分?インスタントのヌードルができる時間じゃないか!
「それって、ジャイロ、自慢できることなのか?」
 呆れて、呆れかえって、馬鹿にする気も起きない、むしろ本当に触れていい話題なのかって恐る恐る尋ねたら、冗談に決まってんだろ、と拳で頭をぐいぐい小突かれた。
「冗談だって?」
 ぼくは笑う。ジャイロは試してみるかとは言わない。でもぼくたちはいつかこの旅の途中で試すのだろうし、その時果たしてジャイロが六分か七分の半分の時間で終わらせたとしても幻滅する気はない。オーケイ、覚悟してかかろう。でも自分ばっかり先に気持ち良くなって!と怒るかもしれないけれど。
 もちろん冗談でもいい。このキスのようにゆっくりと楽しみたい。長い時間をかけて、ゆっくりと、気が遠くなるくらいに。

 乾燥機の中の洗濯物を思い出したのは夜中になってからだった。二人でランドリーに行った。シャツは盗まれていた。残っていたのは星柄のパンツとジャイロの靴下だけだ。
「趣味のワリー泥棒だぜ」
「まったくだね」
 取り敢えず、明日着るシャツがない。二人ともさっきまでの熱気の残るシャツを脱いでランドリーの中に放った。
「クォーター?」
「ううん、フロントでトークンを…」
 ふと思い出してベンチの下を覗き込んだ。トークンはまだそこにあった。
 もしかしたら永遠にそこにあるはずだったかもしれない運命を動かして、ぼくは拾ったトークンを投入する。滝のように流れ込む水。じゃぶじゃぶと音を立てて泡が踊る。ぼくらは上半身裸のままベンチで洗い上がりを待つ。水と泡の揺れる丸い扉の上にぼくらの姿が映っている。
「ゲイっぽいね」
「今更なに言ってんだよ」
 抱き寄せようとする腕を、監視カメラ、と言いながらはねのけた。でもジャイロはその手を掴んで、泡の匂い、と唇の端を持ち上げる。
 君にばっかりかっこういいことをさせるつもりはないんだからな。ぼくからその手を引き寄せ、キスをした。ジャイロの手は泡の匂いではなかった。ベッドと、眠気と、彼の匂いだった。それはぼくにとっての眠りの匂いでもある。安心と、安堵と、ぼくらが帰る家の匂い。
「眠い」
「あと十分」
 十分が待てず、ぼくはジャイロの肩にもたれかかり居眠りをする。



2013.4.2 しぶにアップしたものの一人称バージョン