ウェイト・アンド・キャッチ
死者の眠りに祝福あれ。誰もあなたの安らかな眠りを妨げませんように。神ぞ見守りて、どうか、ぼくの胸の奥でいつまでも眠っていてください。 夢の中のぼくは白い毛皮を着て墓地の冷たい土の上に横たわっている。両目から涙がぼろぼろっていうか、もうだらだらとだらしなくこぼれて止まらない。壊れた水道だ。修理屋を呼んでくれ。金なら払うよ。 でもぼくは悲しいんじゃない。泣くのがイヤなんじゃない。ただぼくの涙が冷たい土の下で眠るニコラスを濡らしませんように。ぼくの涙さえあなたの眠りを妨げませんように、兄さん。愛しきあなたよ、ぼくの罪には触れないでください。神の御手により天に召されたあなたです、もうなにものにも穢されてはならない。ましてぼくの罪なんて! いいや、でもぼくは今、このままでもいいんだ。ニコラスが眠る冷たい土の上に横たわっている。素裸の上にまとった白い毛皮はにちゃにちゃと音を立てながら肌に貼りついてぼくを侵蝕する。その内、名前も呼べなくなるだろう。兄さん、と。 「ジャイロ…」 違う、兄さんの名前を…。 「ジャイロ」 ああ、ごめん兄さん、ぼくが最後の声で呼びたい名前は…。 「赦されなくてもいいよ」 ぽつんと呟くとそれが本当に声になったことにぼく自身驚いて、それで目が覚めた。 「…なんだって?」 気怠げなジャイロの声がすぐそばで聞こえて、うん、と曖昧な返事を返す。 駅の雑踏がじんわりと耳に蘇る。遠い照明のぼんやりした明かりが、しかしうとうとしていたぼくには少し眩しく感じた。ベンチの上で身体を起こそうとすると、もたれかかっているジャイロの身体が急に重たく邪魔になる。 「ジャイロ、居眠りしてたのか?」 「そりゃおめーだろ」 支えてやってたんだよ、とジャイロが身体を起こしぼくの上半身は少しふらつく。 ゲティスバーグに到着した時にはもう日が暮れていたのに、ぼくらは今夜泊まる場所さえ決めずギターを担いで駅に向かった。急に歌いたくなったんだ、しょうがない。長距離ドライヴの疲れも何のその、鬱憤を晴らすかのように弾きまくって歌いまくって疲れて、ベンチに座り込むとジャイロがコーヒーを買ってくると言った。その、ほんの数分、ぼくはうとうとして、夢を見た。 身体にはまだライヴの余韻が熱になって残っていたが、心が夢の中で泣いた後なので妙に落ち着いてしまっている。手渡されたコーヒーを一口。溜息をつくとジャイロが横目にぼくを見下ろす。 「…疲れたか?」 「うん?いや、そうでもないよ、多分平気」 「眠そうな面してるぜ」 「かもね。それだけは嘘ついた。うとうとしてた。ちょっと寝た」 「で?」 「……それだけさ」 ぼくらの他にもベンチに座っている人はいて、待ち遠しそうに改札を見遣っている。一体、誰を待っているんだろう。週末の夜、遅い時間、電車に乗ってやって来る誰か。それとも帰ってくる誰か。待つ時間は長い。人を待つ時間は特に。 一緒に暮らし始めてから、ぼくはよくジャイロを待っていた。ジャイロが帰ってくるのを、時には空腹と一緒に、時には寒さと一緒に。最初の頃は廊下に座り込んで待つこともしばしばで、あの頃のぼくは考えることや悩むことが山ほどあったはずなのに不思議とジャイロの帰りを待つ間は考え事もできなかった。ただ待つという行為と時間だけがあった。夜の中に耳をすまし、彼の足音を待った。 今、コーヒーを買ってくる彼を待つ間、眠れたのは何故だろう。疲れていたから? そしてぼくはニコラスの夢を見た。 ぼくはコーヒーのカップに顔を近づけ、ささやかな湯気の中に自分の顔を隠そうとする。でもジャイロには見破られていて、頭の上に掌がぽんとのる。 何か言われるかと思ったけど、ジャイロは何も言わなかった。 モーテルの外階段を上りながら、ギターケースが重い。手摺りは所々ペンキが剥がれて錆が浮いている。掌に錆がついたのを感じる。ぼくは一歩一歩、ゆっくりと階段を上る。ジャイロは階段を上りきったところで待っている。指先でキーをくるくると回す、微かな音が聞こえる。 そんなことして鍵をなくしても知らないんだからな、と言ったのは出会ったばかりの頃のことで、ジャイロはたとえどんな場所でも手の中、指先で回転させたものをコントロールできなくてどこかに吹っ飛ばしたりなくしたりしたことがない。医者だし、色々器用なのは知ってるけど、この技術は秘密めいている。 ちゃりん、と音をたてて鍵を掴んだ。ぼくは最後の段に脚をかけた。ぐいと身体を持ち上げる。ギターケースを下ろして、溜息。 「待たせるってのはよ、誰かの時間を奪うことだって言ったヤツがいたが、自分から待つにはその限りじゃねーよな」 「悪かったよ、待たせて」 「そうじゃなくて、な、ジョニィ。自分から待つってのはなかなか贅沢な時間の使い方だとオレは思う訳よ」 「嫌味にしか聞こえないけど?」 「待ってたぜ」 急に腰から胸の奥に衝撃が走って、つまり身体の奥が感電したみたいに動けなくなる。そのたった一言にぼくの肉体はぼくの感情より先に勝手に打ち震える。 身体がゆっくり傾いてぼくはジャイロの胸に抱きとめられる。 鍵を開けて部屋に入り、ジャイロが背中でドアを閉めた瞬間、もう一度ぼくはジャイロの胸に抱きとめられて、そのまま二人でドアの前にずるずるとしゃがみ込む。 「もう、ほんとうにさ」 ぼくは絶え絶えの息を吐く。 「赦してもらえなくていいから…」 「誰に」 「君の名前、呼んでいいか?」 外明かりが暗闇の中に粗い粒子でぼんやりとぼくらの姿を浮かび上がらせた。彼は少し笑っていた。 「誰に赦してもらえないんだ?」 「ジャイロ…」 「もう呼んじまったじゃねえか」 なだめるようなキスが額に降る。あふれた涙がジャイロの服を汚す。 ベッドの上で、冷たい土の話をする。濡れた地面から、とジャイロはまだ涙の乾かないぼくの頬に触れる。種子は芽吹くんだ。緑も、花もな。 そのまま眠り込んだぼくは夢の続きを見ていて、冷たい地面に顔を押し当て耳をすませている。冷たい土から芽吹いた草がさわさわと風に揺れて墓石の名前を隠す。兄さん、とぼくはようやく呼ぶことができる。白い毛皮ではなく草に埋もれて、ぼくは夢の中でも眠りに落ちる。 翌朝、目覚めると隣にはバラの花束が横たわっていた。ジャイロは慌てて起き上がったぼくを見てにやにや笑いながらコーヒーを飲んでいた。 「オレかと思ったろう」 「そりゃあ…君以外いないだろうさ」 「じゃあなくてだな」 ぼくはベッドの上で服を脱ぎ、素裸に花束を抱きしめてバラの花にキスをする。 「こういうことだろ?」 ニヤッと笑ってみせたはずなのにまたぼくは泣いていて、締まらない。
2013.3.30
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