ナイト・アンド・スモーク







 背中が痒くて引っ掻いているうちにそれが夢の世界ではなく現実の自分の肉体だと気づき、すると今まで自分が浸っていたのが夢の世界だと気づく。ばりり、と身体の内側に響く音がした。背中を掻くのをやめた。強く掻きすぎて皮膚を破ったのだ。背中にじわじわと食い込む痛みと、爪の間の違和感。皮膚のかけらと血が詰まっている。
 目を開けるとベッドサイドの明かりが点いていて、冬の濃い夜闇が柔らかく溶かされていた。隣に寝ていたはずの男はいなかった。ぼくは起き上がりながらまた背中を掻いた。痒い。皮膚は破ったのに痒みは消えていない。痛みと痒さが同時に襲ってきて不愉快だ。
「ジャイロ」
 彼の寝ていた場所に両手を落としながら呼ぶが返事はなく、確かに狭い部屋の中のどこにも彼の気配はない。荷物はそのままだけど脱いだ服が消えている。ぼくも落ちていたズボンを拾い脚を通した。
 真夜中のホテルは廊下の明かりさえ息を潜めるように静かだ。すっかり古くなって擦り切れたカーペットが足音を吸収する。階段を下りながらふと上を見上げると、階段の描くらせんの果てが見えなかった。まるで夜の中に沈んでいくみたいだ。
 ロビーは暖炉のような低い暖色の明かりに抑えられていて、フロントには若いフロントマンが俯きながら何か仕事をしていた。あくびを噛み殺している。目尻に涙が光る。ソファには誰も座っていない。ぼくは玄関の扉を開けた。
 夜の匂いと煙の匂いがふわりと身体を包み込む。通りの一本向こうにはシカゴの街明かりも雑踏もあるのにここは暗くて、染みこんだ冬の寒さと冷たさが夜の匂いにまじって鳥肌を立たせる。そこにまぎれこんだ煙の匂いが、それを吸い込み吐き出した人間のぬくもりをほんの少し残していて、ぼくは鳥肌を立てながらホッとした。階段の一番下の段にジャイロは腰掛けていた。
「君、煙草なんか吸ったっけ」
「ジョニィ…」
 ジャイロは振り向き、ぼくが隣に座ろうとすると掌で煙をぱたぱたと追い払う。
「たまに、か」
「その煙草、どこから?」
「フロントマンから買った」
「眠そうにしてた」
「ああ」
 まだ半分残ったそれを足下に捨てようとするので、ぼくは取り上げて自分の唇に近づけた。
 煙草の匂い。唇に、ほんの少し湿った吸い口。ぼくは目を伏せる。
 軽く吸い込むと葉と火薬を燃やした煙が暴徒のように喉の奥から嗅覚を蹂躙し、それが肺に落ちるとすとんと鎮まる。夜の静けさが全部頭の中に落っこちてきたみたいに、急に何もかも静かになって、熱い煙が冬の空気みたいな沈黙とともに身体を巡る。
 ぼくは大きく息を吐き、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「ぼくも、久しぶりだ」
「おまえのは違う葉っぱだったんじゃないのか?」
 ジャイロの冗談に思わせぶりな微笑を返すと、手の中の煙草を取り上げられる。彼はそれを吸いきって靴底で揉み消した。
「どうしたんだ、急に。一人になりたかった?」
 ぼくは頬杖をついてジャイロの顔を覗き込む。彼はビルの隙間から見える夜空を見上げて、んん、と不明瞭な声を上げた。空は通りの向こうの明かりを反射してわずかに明るく、ビルの影の方がよっぽど夜の闇らしい。んー、と声を上げながらジャイロは暗い夜の影に手を伸ばす。
「考えてたんだよ」
「何を」
「おまえの身体」
 その時の手。軽く投げ出されて、何と言う意志もないような指の形さえ濡れて見えた。ぞくんとした。触られたみたいだ。
 でもぼくはそれを隠して何でもないようにジャイロを見る。ジャイロも敢えて挑発せず、すました顔で笑っている。
「おまえの身体を思い出していた」
「…性的な意味合いを含んでいるみたいな言い方だ」
「そう聞こえてなきゃキスするところだぜ」
「じゃなくてもするんだろう?」
「さあ」
 本当にジャイロはキスをしなくて、ぼくは肩すかしを食らったような安心したような不思議な気分になる。腹六分くらいの満足感と物足りなさ。肺の奥に残った煙を吐き出す。溜息。
「…ぼくの身体って、どんな?」
「おまえが泣いてる時の…」
 ジャイロは新しい煙草に火を点ける。煙を吐くが、もう手で追い払うことはしない。
「喉が引き攣っている時の、胸の鼓動。オレを抱きしめようとする時の背中。オレがこの手で触れたもののことを思い出していた。おまえが初めてオレのベッドで眠った時、覚えてるか?オレはおまえの腰に触ったが、おまえは何も言わなかった。怒りもしなかった。骨のことも何も言わなかった」
 覚えている。ぼくの服が捲れて、ジャイロはごく素直な興味を示して腰に触れた。遺体の埋まった腰に触れて、その凹凸をなぞった。
「こわいくらい静かな目でオレを見ていた」
 ジャイロは目の前の汚れた壁の向こうにその過去が見えるみたいに目を細める。
「あの時おまえは何を考えていたんだ?」
「君はいいヤツだと信じよう、って」
 遠くで街の音がした。シカゴ。サンディエゴから遠く離れたミシガン湖の側。その狭い通りの安ホテルの石段の一番下、汚れたコンクリートの上に座って、ぼくはサンディエゴのことを思い出す。あの頃のジャイロを思い出す。あの頃のぼくが見ていたジャイロを。
 ジャイロはくわえ煙草になり、ぼくに手を差し出した。ぼくはそれを握った。かるい握手。そして手を繋ぐ。背後からくすんだガラスドアを越して落ちる暖色の光。ぼくらの影の中で煙草の火が赤く燃える。ぼくはジャイロの口から煙草を取り上げる。ジャイロの手はぼくの胸に触れ、首へと滑り上がる。そしてぼくを引き寄せる。
 ぼくらは足音を潜めて部屋に戻り、声をひそめて笑う。ぼくはベッドにダイヴし、二人分の枕を抱きしめ、その中に笑い声をこぼす。ジャイロはベッドの端に腰掛けて、捲れたぼくの服の裾を更に上へ捲り上げた。
「ジョニィ、引っ掻いたのか?」
「ああ」
 背中、痒くて、と言うとジャイロは更に服を捲り上げて納得したような声を上げる。
「髪の毛」
 見せられたのは長い髪の毛だ。
「君の髪じゃないか」
「お邪魔しました」
「本当だよ。お蔭で起こされた」
 ジャイロは背中の引っ掻き傷の上にキスを落とし、そのまま重たくのしかかる。
 明かりが落ちる。ジャイロはぼくの上にのしかかったまま、もう眠りに近い息をしている。ぼくは溜息を吐く。
 ぼくもこうやってジャイロの重みを覚える。そしていつか思い出したりする。雨の日や、曇り空のドライヴの日。重たいギターケースを担いで横断歩道で立ち止まった時や、不意に君がいない時、君が隣にいる時だって思い出すだろう。君が一人で煙草を吸いながらぼくの身体を思い出したみたいに。思い出は大切なものだから。
 重くて、心地良い。
 力強い腕がぼくを抱えて腕の中に抱きしめる。煙草の匂い。遠くでパトカーの音。ミシガン湖畔を流れてビル裏の路地に染みついた冷たい冬の空気。全てが重力と一緒にぼくの中に沈んでゆく。
「愛してるよ」
 ぼくは囁いた。
「オレもだ」
 ジャイロの低い声がぼくの瞼を下ろさせ、眠らせた。



2013.3.27