溺れる夢の続き
九月の終わりから翌年にかけてのぼくらの旅は灼熱の砂漠に始まり冷たい雨の降る草原を抜け氷の世界を越えて吐く息も白く染まる大西洋の側で終わりを告げた。ぼくらの周囲には雄大な自然があり、空が、雲が、日の光が色を変えてゆくのを見た。今でも目を閉じれば瞼の裏に浮かぶ、虚空から落とされるコンドルの影、夜の砂漠の冷たい砂の影や聳え立つ岩山、湖の畔の雪景色…。耳には枯れ草の風のそよぐ音が、河の流れが、雨の打つ音が蘇る。 けれども今こうやって全く違う景色を見ていると、どうしても叶わなかった未来を思う。あったかもしれない世界を思う。君が隣にいて、並んでこの景色を見ることができただろうか、と。ジャイロ・ツェペリのことを思う。 緑の山にぽつぽつと陽の光が落ちているように見えたが、違うのだった。チェリーブロッサムだ。春になるとピンク色の花で枝をいっぱいにするあの木。山頂に向かって梯子をかけるように、規則正しく並んで咲いている。 「あそこに行くの?」 振り返ると二、三歩後ろをついて歩く黒髪の小柄な女性は頷いた。 「お宮さんに続く石段があるんです」 「オミヤサン?」 「ええと……チャーチ?」 「日本の教会?」 そのようなもの、と何故か彼女は恥ずかしそうに俯く。東方理那、スティール・ボール・ラン・レースに出場したあのノリスケ・ヒガシカタの娘だ。東洋に浮かぶ細長い島国の、北の街に雪解けの頃から滞在している。ノリスケの娘はリハビリにと歩き回るぼくについてまわりながら、雪の下から顔を出した新芽の名前を一つ一つぼくに教えた。ふきのとう、摘んで帰りましょう。この黄色い花は福寿草です。これはつくしですよ。アメリカにもつくしはありますか。ああ、もう水仙が咲いている…。半分以上が日本語の彼女の言葉は、歌のようで心地良い。 しかし今日はぼくが話しかける以外、黙って後をついて歩く。日本の女性は奥ゆかしいと言うけど理那は全くそうで、一緒に歩いている時も本当に後ろにいるのか時々振り返って確認してしまう。すると彼女は立ち止まり、ぼくに向かってちょっと微笑む。 「あれを見に行くのか?」 ぼくは階段に沿って植わっているというチェリーブロッサムを指さす。理那はこっくりと頷いた。 「せっかくいい季節に日本にいらっしゃるのですから、お花見に」 「花を…見る?」 「日本では花といえば桜なんですの」 「さくら…」 チェリーブロッサムがさくら。たったの三音の中に日本人は色んな感情を込めるらしい。理那はお愛想ではない笑みを浮かべて山に咲くピンク色の花を見上げた。 石段の下まで来ると花びらが雪のように降る。花吹雪です、と理那が言う。やはりこの景色は雪のように見えるんだろう。ぼくは両手を持ち上げて親指と人差し指で長方形を作る。そのフレームの中に花びらの吹雪を見る。指で作った長方形の中に降る花びらも、その一枚一枚が黄金長方形のスケールを持っている。 「なにかの…おまじないですか?」 後ろから理那が尋ねた。ぼくは振り返ったが答えることができなかった。 石でできた階段は急で、長い。ぼくは休み休みそれを上る。理那もそれについてくる。両手に抱えた荷物が重そうだ。 「それ、何?」 「お弁当です」 「量が多いみたいだ」 「花見弁当ですから。腕をふるいました」 ぼくが荷物を持とうとすると理那はひどく恐縮する。弁当の詰まった重箱は重くて、階段を上るスピードは更に緩やかになる。 もう少しで頂上という所で足に力が入らなくなり、ぼくらは石段にしゃがみ込む。上の…神社からは賑やかな声が聞こえてくる。ぼくら以外にも桜の花を見に来た人間がたくさんいるようだ。 桜の木は真っ直ぐ空に向かっては伸びない。枝はどこかを指さす指のように、誰かに差し伸べられる手のように横に伸びる。ぼくの頭上にも一枝、重たげなほど花をつけた枝が垂れていた。ぼくは何の気なしに手を伸ばしそれに触れた。 花…。花だ。ぼくは人生の中で何度花に触れたことがあるだろう。優勝の祝いの花束。女の子に送った花束。ぼくにとってそれはどれだけ価値があるものだっただろう。ぼくはその花を覚えていない。 ピンク色の花…でも間近でみると白に近い。薄く色づいた五枚の花びらを持つ花が枝の先に密集している。それが風にあおられ、揺れながらぼくの掌に触れたのだ。指先に触れ、手の中に触れた。まるで生きたもののように。 花びらって…。 「ジョニィさん…?」 理那が呼びかける。ぼくはゆっくりとまばたきをする。ぼやけた視界が、ほんの少し本来の焦点を取り戻すが、また潤む。ぼくは横目に彼女を見て、目の縁を溢れ出しそうなそれに気づき、目を閉じた。 「何…?」 「…………」 しかしそれっきり彼女は何も言わなかった。 ぼくは目を閉じて掌に触れるものを感じ、また目を開く。桜の花。儚げに降る花びらの雪。降りしきる黄金長方形。ぼくの背後にはタスクが寄り添っている。タスクはぼくがするように桜に触れている。回転はなしで、ただ、触れる。柔らかく、驚くほど優しいその花に。 ――ニョホホ。 背後でタスクが笑う。ぼくはジャイロの掌を思い出す。 風に鳴るとうもろこし畑を走った。夕陽に燃える川沿いを走った。黄金に輝く朝焼けの野を走った。そこに色彩は溢れていた。でも…そう言えば咲き乱れる花なんてものは見たことがなかったかもしれない。 もし目の前に花に溢れる野があったら君はどうしただろうか。ぼくはどうしただろうか。もしも君が一着、ぼくが二着であのニューヨークにゴールしていたら、もらった花束はどんな色をしていただろう。その花びらは柔らかかっただろうか。 思い出の中に君はいて、風の中にいつでも君の気配はあって、ぼくはどんな空にも、どんな海にも君を見つけ出す。それでも思い描くifの世界。ぼくがヴァレンタイン大統領にタスクを打ち込むことで自ら手放した可能性。納得はしている。君のゆく道をぼくは見た。光の中に君を見た。それでも花びらが風の中でふわりと裏返るように垣間見える夢の世界。 「君がいたら」 「オレがいたら、だって?」 「うん」 ぼくは風の中に聞こえる声に返事をする。 手を伸ばすと柔らかな掌が触れる。ぼくは何度触れてもそれに驚く。その掌が優しさを込めてぼくに触れると身体の奥から震える。 「オレはここにいるぜ。なあ、ジョニィ、いるじゃねーか」 掌が重なる。君の手だ。間違えようがない。また会えた。君に会えた。ようやく会えた。 指を絡め、そしてぼくは抱きしめる。 うっすらとヴェールのように覆う肌寒さに目が覚めた。張り出した桜の枝の向こうに。夕暮れの空が見えた。薄くなってゆく青空に、淡い夕陽の色。 花びらが一枚舞い落ちて、ぼくの頬を撫でる。ぼくはそれを抓み上げ、ぼんやりと見つめる。 ぼくは桜の木の下で眠っていた。花見をしていた他の人間はもう帰ってしまったらしい。教会のような場所の敷地は静かで、傍らには理那が待っていた。 「ごめん…」 起き上がろうとして身体が降り注いだ桜の花びらに覆われているのに気づく。ぼくは起き上がれなかった。手の中には落ちた花を握っていた。掌の熱が移ってすっかりしおれてしまっている。 「こんなに眠っていた…」 「ごめんなさい、ジョニィさん。無理をさせてしまって…、脚の疲れが…」 「いや」 ぼくは何かを言いかけて、結局手を振りながら、いいよ、とだけ言った。 「起こしてくれてもよかったのに」 「気持ちよさそうに眠っていらっしゃるから」 「うん…」 「花に溺れているかのよう」 「肌に溺れる…?」 聞き返すと理那は、まあ、と赤くなって両手で顔を覆った。ああ、違うんだ。発音を間違えた。肌、じゃない。花だ。 でも、とぼくは手の中の花を見る。半身を起こすと淡いピンク色の花びらがはらはらと落ちて、地面に着地する前にまた舞った。ぼくは手の中の花を柔らかく握り込み、そっと開いて花びらの中に逃がした。柔らかく、はっとするほど優しく触れた花。肌。間違いではない――ぼくには。 「でも、本当は少し恐ろしくて」 「怖い?」 「桜の下には埋まっていると申しますから」 「何が…?」 理那は首を横に振って、ジョニィさんが目覚めてよかった、と呟いた。 「心配してくれたんだね」 「ジョニィさん」 不意に張り詰めたような真剣な顔になって理那が言う。 「このまま、この国に暮らしませんか。父もいつまでもいてもいいと申しております」 「…不安かい?」 細い首が折れて理那は俯く。ぼくは彼女の手を掴んだ。 「一緒に行こう。無理には…と言いたいけど、ぼくはぼくの家に君を連れて帰りたい」 「ジョニィさんの家…」 「ぼくの帰る家に」 帰りの重箱は軽かった。ぼくがそれを持った。長い石段を並んで下った。夕陽を反射して桜に覆われた階段はいつまでも明るい。 早い夜の風が吹いた。冷たいそれがまた桜を散らす。花びらは風の中でダンサーのように舞う。それはぼくに黄金の軌跡のように見える。花びらは雪のように降り注ぐ。いつまでも降り注ぐ。
2013.3.23
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