サイバーカウボーイ・ファースト・ラン







 白い波が身体を包み込む。
 あたたかい。けれども湿ってはいない。
 波の音が聞こえる。初めは水中で聞くようにくぐもって遠く、やがて耳元で、やがて足元で。
 白い波の飛沫が身体に触れる。ぼくには形がある。
 瞼を開ける。真っ白な世界に波の輪郭が青くたゆたう。世界は曖昧なのか? いやぼくが目覚めていないだけだ。瞼を開けただけでは何も見えない。
 手を持ち上げて顔を拭う。ぼくの形がぼくにも認識される。毎朝顔を洗う時に触れたぼくの顔の形。鼻の高さも唇の暑さもぴったり掌の記憶に合う。いいぞ。もう一度世界を見てみよう。
 海が見える。それが大西洋の波のように見えるのは、それがぼくの記憶に強く刻みつけられた景色だからだ。ぼくはこの景色を望んでいた。この景色の中で彼と再会することを望んでいた。
 両腕を広げる。そこから広がる波紋が一瞬マトリクスの格子をあらわにし、よりリアルな風景に塗り替えてゆく。大西洋の波音が近づく平野。そばを走る線路。機関車の姿はない。しかし深く穴の穿たれた跡ならある。
 景色を転じる。ぼくはニューヨークの港に立っている。そばで懐かしい鼻息が聞こえた。ぼくは振り返り、じっとぼくを見つめ佇んでいる黒い馬の首を撫でる。
「ヴァルキリー」
 ここは一八九一年のニューヨークの景色だ。一月下旬の寒い朝。しかし太陽の照らす眩しい朝。
 だからぼくの肉体は十九歳のぼくのものだ。立ち上がり始めたばかりの脚。身体中に残る傷痕。残る痛みは記憶の再生でしかないが懐かしさがそれをリアルにする。
 いや、今やこここそがぼくの生きる場所だ。
 この電脳の海こそが今ぼくの存在している世界。
 ぼくはジョナサン・ジョースター。あだ名はジョジョ、ジョーキッド。
 そしてジョニィ。
 電子が通い認識の届く限り把握をし、そして自覚する。ぼくはこの海で形をなした記憶の塊。片隅の隔離されていたただのROM構造物――メモリだった。一八〇〇年代の終わりに合衆国はケンタッキーのジョースター家に生を受けたジョナサン・ジョースターの記録と記憶をこの電子の海に落とし込み再構築された存在。広大なネットの海の一角に確かな城を築くジョースター一族に組み込まれている。ぼくはジョニィと呼ばれれば返事をし、構造物として蓄えた記憶の中から問いに対するレスポンスを返し、現代のジョースターたち――物理的世界に肉体を持つジョジョの仕事を助けてきた。何故ならぼくもジョジョだからだ。
 転じる。ぼくの意志一つで景色が変わる。ぼくは目の前の景色をぼくに合わせて変換することもできるし、好きな場所に行くこともできる。これまではできなかった。ぼくはROMの塊にすぎなかったから。しかし。
 再びフリップ。目の前に広がる光景は幼い頃を過ごしたイギリスの屋敷。ここはダニーを沈めることができなかった池の前。水面を覗き込むと現代のジョジョ…、城字・ジョースターが笑っている。
「なんや、せっかくジョニィさんの好きな場所に行けるようになったのにさ」
「そうだよ、城字。ぼくは自由なんだ。ぼくはどこへでも行けるし、どこに行くのにももう恐れる必要はない」
 水面の向こうから城字が手を伸ばす。ぼくも水面へ向かって手を伸ばす。ぼくらの指先が触れ合ったかと思われた瞬間、また転じる。
 白く輪郭の曖昧な波の上にぼくらは立っている。
「うっわ、明るいっていうか…なんか不思議な気持ちになるね、これ」
「今まで君はこの世界にいるぼくと話をしてきたんだろう」
 ただの構造物だったぼくはデータがブロックのように積み上げられた真っ白な世界にいる意志なき意識だった。人格らしきものは記憶の傾向として存在するが、ぼくが自発的に何かを感じ言葉を発することはなかった。例えば世界が殺風景すぎるとか。
「でも自分でここに来たのは初めてや。うーわ、寂しいっていうか、ちょっと泣きそうになる」
 城字がちょいちょいっと指を動かすと、ぼくらの足元に大きな星のマークが現れる。ぼくはそれを薄い水色に染める。
「ぼくはこの景色の方が泣きそうになるね」
 海の色を再び大西洋の色に染める。今度は船の上から見た景色だ。ネアポリスに向かう帆船の上から見た海。
「君は何度かぼくにこの光景を再生させたね、城字」
「うん」
 子どもっぽい素直さで城字は頷き、星形の縁から海を見下ろした。彼が視線を上げると水平線から空も、あの日の色に染まってゆく。雲の形もぼくは覚えている。
「……ジョニィさんって意外と無口?」
「どうして」
「いや、前の事件の時とか結構ジョニィさん喋る感じだったけど、いざ対面してみると…」
「君が何も言わないからだ。じゃあ糸口を提供してもいい。ぼくをAIと融合させた理由は何だ?」
 構造物だったぼくに疑いなんてものはなかった。ぼくは時代が巡り回収され集積されたぼくの記録や記憶の塊だ。ただそれだけ。例えば城字が何か資料が欲しくてぼくに話しかけたら、ぼくは彼の望むデータを提示した。近代――城字にとっての近代だが――の人間なら、この電脳世界で生きていた痕跡がある。アクセスし、行動し、ログを残してきた。それが集まればただの構造物だって個性を持った受け答えはする。でも、ぼくはアナログもアナログ、城字の生まれる何巡も昔の宇宙の一八七一年生まれなのだ。口調程度は復元できても、古いROMの塊に違いなかった。
 しかし今、ぼくはこの電脳の海の上、生きていることを実感している。自我があり、意志がある。それを持つためには思考が必要だ。城字は構造物だったぼくとAIを融合させ、大昔に生きていたジョニィ・ジョースターという人間の魂をこの電脳の海にもう一度蘇らせたのだ。
「…生き返った気持ちって、どんなもんです?」
「質問に質問で返すヤツはアホだってぼくの知り合いが言ってた」
「はは、すみません」
 城字は悪びれもせず笑い、ぼくの前に立った。
「ジョニィさんの方が背、高いなあ」
「チビだと思ってた?」
「ううん、いっつもグラビアポーズだったから背が高いのかどうか分からんで」
 ぼくが爪を回転させると、わわっ、冗談冗談、と城字は手を振るが、でも多分ぼくがいつも寝そべったりしていたのは確かなんだろう。それにしたって…。
「あ、でもタスク発動しますね」
 城字はぼくの顔から少しずれたところを見た。
「スタンドがいる」
 振り返ると久しぶりに見るACT1がぼくの肩の上に浮かんでいて、チュミミーン、と鳴いた。
「ジョニィさんの力が必要なんです」
 城字は空を見上げた。ぼくもつられて上を見上げる。そこは空を映してはいるが、基本的にぼくという構造物を収納していたマトリクスの格子の中だ。その疑似的青空の表面を金色の稲光のようなものが走った。
 どくん、と。
 心臓なんてないのにぼくの身体は強く鼓動を打った。
「正体不明のカウボーイが出没しているんです」
 真面目な表情だが、どこか楽しげに城字は言う。
「どこで生まれたのか…日本製でも合衆国産でもない。でもすごいですよ、どんな攻性防壁も突破する。で、ワシントンを狙ってるんです」
「ワシントン?」
「アメリカ合衆国議会議事堂」
 城字が言うとぼくらの視界は転じる。
 青白い格子の梯子を登り、それが無数の柱のように立ち上る。マトリクスの青白い光をまとっていた輪郭はやがて人間の目に慣れた色彩と調和し、現実と非現実の狭間のような景色が広がった。いや…実際にここは現実と非現実の溶け合った世界。
 波一つないなめらかな海面を境に、鏡像の街が建っている。ぼくと、隣に佇む城字が見つめているのはオフラインに実体を持つ人々の世界。本物以上に美しくソフィスティケートされたビル群。表面が鮮やかにきらめく。攻性防壁がナイフの表面のように輝き、ハッカーたちを威圧している。インストルージョン・カウンターメジャー・エレクトロニクス。ICE。色とりどりの氷に表面を覆われ、企業が、国家が息づいている。
 鏡面の下に広がる街はもっと簡素化されたビル群が規則正しく並んでいた。そこには海面上のような氷の輝きはない。攻性防壁は黒一色。それが整然と並ぶ様は墓石のようだが、この表現はなかなか間違っていない。ここから見えるフラットな窓一つ一つに詰め込まれているのは死んだ人間のROM、昨日までのぼくのような存在だ。しかし海面からそこに潜り、通りをゆく白い人影、窓をノックして会話を交わす姿も見られる。ここでは死者を生者のように扱うこともできる。…まあ生前のような会話をどれだけ交わせるかは人によるだろうけど。
「拡大しますよ」
 城字は面白い持ち方でオペラグラスを構え、景色を引き寄せる。ぼくらが動くのではなく景色の方からやって来たかのようだ。
 白い巨大なドーム。表面を覆う攻性防壁の光は鮮やかな赤。
「キャピトルヒルに攻撃をしかけるカウボーイだって? 命知らずなのか、馬鹿なのか…。そもそもこんなの君がやる仕事じゃないだろう。国防ならペンタゴンに任せればいい」
「いやほんと、ジョニィさんの言う通りなんですけど…」
「何? 出本が疑われてんの?」
「ヤツ、ジョースター一族にもえらくご執心で」
 さっき空に一瞬見えた稲妻。
「必ずぼくらのとこ経由するんですよ。そりゃ疑われるでしょう?」
「で、ハッカー退治か」
 城字と手をタッチさせると情報が流れ込んでくる。確かにこのルートじゃあ、ジョースター一族が絡んでいると疑われてもおかしくない。
 頭に一度入ればそれで理解はできるんだけど、人間の形を取り戻したぼくはちょっと感覚を取り戻したくていちいち目の前に画像や映像を出しながら確かめる。
「ジャック・インできるなら君が追いかければいいじゃないか」
「それがすげ速くて」
「速いってんなら…それこそぼく以外が適任だ。誰だっけ…ジョータロー…空条承太郎、彼なんかがうってつけじゃないのか。スタープラチナ?」
「いや、これはジョニィさんでなきゃ追いつけませんよ」
 その時ぼくの中に流れ込んできたデータが、目の前の映像が、ボン!と爆発したみたいな衝撃をぼくに与える。
 何かの回転する音。黄金の軌跡。
 ぼくはこれを知っている。
 目の奥に焼きつけ、耳の奥に染みこませた記憶。
 ドームの表面が一際鮮やかな光を放った。光は指向性を持ち空に立ち昇る。描かれる密な格子。赤い光で織られた防壁が国旗のようにドームを覆う。
「来た」
 隣で城字が囁いた。
「スロー・ダンサー!」
 ぼくが叫ぶと城字が驚くより早くデータの沃野には懐かしい馬の姿が現れる。ぼくの記憶とデータが再構築したぼくの馬。その背に跨がり一蹴りすれば、ぼくらの身体は軽々と宙に浮かんだ。
 風が吹く。熱い風だ。回転の音が近づく。黄金の軌跡はもうはっきりと目に見える。何がその軌跡を引きつれているのか。
 鉄球だ。それ以外の何がある。
「城字!」
 ぼくは中空から叫んだ。
「君は名探偵なんだよな、君はもう彼の正体を知っているんだな!」
「犯人は君や!って指さして解決すればよかったんですけどね!」
「どうして最初から言わなかったんだ!」
「サプライズってあるじゃないですか!」
「後で馬に乗せてやるよ!」
「ありがとーございまーす!」
 城字は満面の笑顔で叫び返す。
 黒い疾風のように迫る。誰も追いつけない。そうだヴァルキリーは逃げ馬だ。逃走劇ならお手の物。誰にも追いつけはしなかっただろう。
 だがぼくはいつも彼の隣を走った!
 手綱を引くとスロー・ダンサーが走り出す。ぼくと黒い風は今や真紅に染まったドームの周囲を時計回りと反時計回りに回転する。
 すれ違う、そのたびに見える。長い髪。謎めいた光をたたえた瞳。品無く笑った口元から覗く金歯。ぼくはそこに彫られた文字を知っている。
 互いに描く円が縮まる。彼の姿が正面に見える。
「ジャイロ!」
 スロー・ダンサーはヴァルキリーと真正面から衝突し、急ごしらえのデータが霧散し銀色の光の粒になって降り注ぐ。ぼくはデータの海の空高く放り上げられ、そして落下する。すぐそばには攻性防壁の赤い光。でも何も心配していない。
 ぼくに向かって差し出された両腕。
「ジョニィ!」
「ジャイロ・ツェペリ!」
 落下してきたぼくをその両腕は抱きとめる。抱きしめる。そしてジャイロはぼくを抱きかかえたままキスをする。
 一応、まあ、外聞とかあるじゃないか。世間体とか。色々。ぼくはジョースター一族で、ジョジョの一人で、現役のジョジョもすぐ側にいて、そういう仕事で電脳世界のキャピトルヒルの真上にいる訳だ。しかも防壁はいまだぼくらを警戒したままぎらぎらと光っている。
 正直キスしてる場合じゃない。
 分かってる。
 でもクソ食らえ!
 知るもんか知ったことか!だって目の前にジャイロがいるのだ。ジャイロ・ツェペリ。サンディエゴビーチで出会った、一八九〇年の九月。共に砂漠を越え、ロッキー山脈を越え、雨降るカンザスの草原を抜け、氷の海峡を渡り、大西洋の見える地までやってきた。ぼくらは約束を最後まで果たすことができなかった。必ず優勝する。ゴールはワンツーフィニッシュ。目指すはニューヨーク、トリニティ教会。もう目の前だった。ほんの目の前だった…。
 大西洋の波に呑まれた君に、天に昇る君にさようならを言ってどれだけの時間が過ぎただろう。ぼくは一生を終えた。ぼくの生きていた宇宙も一生を終えた。それからまた宇宙が生まれ、生命が生まれて、ジョジョが活躍し、宇宙が終わり、また生まれて…何巡の宇宙、何百兆年という時間が過ぎたのか。
 何人たりとも再会のキスを邪魔することはできない。もし邪魔しようとしたらいつぞやのテロリストにしたみたいに爪弾と鉄球を打ち込んでやる。
 遠くで城字が呼んでいる。
「流石にヤバイですよー」
 泣きそうな声出すなって。ぼくらはもう無敵なんだから。

「カーズ、こうなること知ってた?」
 城字は隣の究極生命体を見上げる。
「予想もつかなかったのか、名探偵」
 カーズは鼻で笑った。

 で、ジャイロはどうやって蘇ったのかとか、どうしてキャピトルヒルを攻撃していたのか理由を聞く前にぼくらは、合衆国政府と他のジョジョから叱られた城字から説教される。
「自重してください、マジで…」
 日本式の正座をさせられ本物の肉体でもないのに足が痺れた。隣のジャイロと顔を見合わせて笑うと
「全然反省してねーし!」
 と城字がキレた。



2013.3.16