ハイウェイ・ダイアリーズ/ハイタイム







 冷たいタイルの上に尻をついて溜息をつくにジョニィが自分を抱きたいと言わない時ほど膚に迫る恐怖は現実味を帯びてやれやれの言葉も出ない。そこにあるのはエロスからもタナトスからも遠い、非常にフラットで温度のない恐怖だった。しかし悲鳴を上げるような恐怖よりもより現実を伴って感じられる。一体何が…とジャイロ・ツェペリも今更のように戸惑うふりはしなかった。淡いブルーの瞳が黒く曇るのは、もう何度も見た光景だった。
 ――ジョニィはオレを殺さないし、嬲りもしないだろう。
 ケツに突っ込まれるのは確かだろうが、ただ行為たる行為があるばかり。その先の快楽も熱情もなし。貪らず、行為を終わらせてジョニィはただただ自分を見るのだろう、そうに違いなかった。
 ――あいつはオレを見る、な。
 見て、
 ――それだけでオレはジョニィのもんだ。
 それだけだ。
 自分がジョニィを心から欲しがるように欲しがられたいと思うのは愛だろうとジャイロは思った。ジョニィの心臓なら食べたいだろう。ジョニィの血ならあたたかくまみれたい。皮膚を裂かなくても肉を毟らなくても、ただ抱きしめ合いたいし普通のセックスでいい。凝ったことも…たまには…いいかもしれないが…基本的にはセックスたるセックスでいいのだ。そういうことをしたい。熱と唾液と涙と、皮膚の匂い、髪の手触り、汗の味、それから精液。生命進化、遺伝子の舟を運ぶ体液交換。ブラヴォー。
 さて我らがジョニィ・ジョースターはバスタブで眠っている。毛布にくるまり、バスタブの底に胎児のように丸まっている。今宵は夢にうなされていないようだ。今宵は?今だけは…?
 ジャイロは冷たいタイルの上に尻を落としたまま手を伸ばし、指先でバスタブの縁をなぞった。繊細な神経を持った指先が表面の細かなひび割れを感じ取った。冷たい、とまではいかない。触れているのに味気ない。宇宙の終わり、世界の果てにさらさらとこぼれてゆく砂のようだ。ジョニィはその目で見つめるだけでジャイロを底なき果てに連れて行くだろう。砂時計の砂が落ちるより簡単なことだ。
 情けない溜息は自分のものだった。ジャイロは小さく唇を震わせてブーイングをし、バスタブから手を離した。最後の瞬間が目に見えた気がした。具体的にどうとは言えないが自分は泣いているような気がしてならなかった。オレは涙をこぼすだろう。悲しいからか?恐怖故か?生理的な涙だろうか。
 愛故に、というのもキザかもしれないが、まさしく自分はジョニィを愛しているが故に泣くのだろうし、ジョニィと愛を交わすことができないが故に涙を流すのだろう。生命の根源的、人間的な愛をだ。ジョニィが自分を愛していないということではないのだけれど、心中と呼ぶには共に死ぬのは肉体だけで、その瞬間互いの魂はばらばらに離れて、粉々に、砂のように砕けてもう二度と会わないかのような寂しさがあった。
 ――ん、訳が分からなくなってきた。
 ジャイロは立ち上がり狭い浴室を出た。部屋の明かりは灯していなかったから背中から射す浴室の明かりだけでモーテルの狭い部屋を眺めた。ベッドはダブルが一つ。ここで寝る予定だった。小さなテーブルには乾杯するはずだった缶ビール。取り上げるともうぬるくなっている。その場で開けて一気に干すと、液体の中心の部分だけひやりとした冷たさが残っていて、奇妙な螺旋を描きながら喉から胃の腑へ滑り落ちる。
 裸の背中に何かが触った気がした。ジャイロは振り返る。浴室の明るい入口。電球のオレンジ色に輝く長方形。あのぬめっと光るタイルがまた触れたかのような感触だ。バスタブはここからは見えない。
「ジョニィ…?」
 ――危険だぜ、戻るのは。
 頭の中で声がする。父の警告ではない。ジャイロの本能がそれを告げている。何が危険だって?冷たいタイルと、表面の細かくひび割れた古いバスタブと、毛布とジョニィだ。ジョニィは眠っている。
 ――お蔭で眼の色は分からねえって訳だ…。
 ジャイロはビールを片手にゆっくりと浴室に戻る。入口に手を掛け覗き込むと、果たしてジョニィは起きているけれどもこちらを見ていない。バスタブの中に座ってぼんやりと壁と天井の間を眺めている。ヤモリがいる。
 眼の色…と思ったが次の瞬間どうでもいいと打ち消した。
「ジョニィ」
「電気…消して…?」
 ジョニィは視線と同じように焦点の定まらない感じでぼんやりと呟いた。
「ベッドで寝ろよ」
「電気……」
「ジョニィ…!」
 すると軽く首が垂れて、顔が半分髪に隠れながらこちらを向く。
「君がよければそうするが?」
 砂嵐に一瞬で巻き込まれたかのようだ。恐怖はざらつきながら現実的感触を伴って膚にまとわりついた。冷たい震えがみぞおちから喉まで込み上げ、舌の奥が血を飲み込んだ時のような不快感と呼吸困難に喘ごうとする。それを無理矢理飲み込んで歯を見せて笑ったが、ジョニィは笑わなかった。
 バスタブを手が掴んで今しも立ち上がろうとした瞬間、ジャイロは「タンマ」と声をかけ、思わず突き出したビールを持った片手に自分で戸惑う。
「…どうする?」
 やはりジョニィは笑っていなくて、その表情はいつもだったらイイ男じゃねえの惚れ直すぜの一言も言ってやったかもしれないが、ジャイロの膚には恐怖がまとわりついて離れないし、舌も動かない。
 世界の終わりはここに来るのかもしれない、と悟った。オレはこのタイルの上に引き摺り倒される。尻に突っ込まれるのが恐怖なんじゃない。悟った瞬間に砂が剥がれ落ちるように恐怖は消えた。ただ世界の終わりがくれば自分の涙の意味も、愛の話も教えてやれないだろうし…人生の最後でそれは悲しいことだろうし…。
 ジャイロは全身から力が抜けてゆくのを感じた。肉体のそれに抗わなかった。ゆっくりとしゃがみこみ、タイルの壁にずるずるともたれかかった。ジョニィはそれを見ていたが今更どうしようもない、何をしようとも砂粒一つの運命も変わらない。呷ったビールは今度こそぬるくなっていて、だらだらと怠惰に口の端から滴り落ちる。
「いいぜ」
 缶をタイルの床の上に置き、言った。
「抱けよ」
「何言ってんのさ」
 ジョニィの脚はほとんど動かなかったが、ジャイロもまた力が抜けきっていたので、ベッドに行くには非常に難儀した。途中で、ああ、とジョニィが気づいて浴室の電気を消そうとし踵を返そうとして脚が言うことをきかずに転ぶ。ジャイロも引き摺られて尻餅をつき、しばらく二人は床の上に横たわっていた。
 ジャイロは何とか起き上がった。壁に縋るように立ち上がりようやく電気のスイッチを下ろすと、今度こそモーテルは深夜三時の闇に包まれた。
 這いずり上がったベッドの上、互いに起きてはいるが何を言うのも億劫だ。少なくともジャイロはそうで自分の呼吸を数えては八つより先が数えられなくてまた一から数え直し、エッシャーだまし絵のようなカウントを続ける。それが、はあ、という現実的な響きをもった吐く息で遮られた。ジョニィの息だった。ジャイロの頭がなけなしの冷静さを取り戻した。
 ジョニィはもぞもぞとベッドの上を近づき、だが抱き合うには離れた距離で止まった。呼吸は聞こえる。はあ。吐く息。ジョニィの喉の奥から出る声。諦めのような、嘆息のような。
「触ってよ」
 はっきりとそう聞こえた。
 手を伸ばす。服の上から触る。萎えた脚の太腿より上。デリンジャーで撃たれたあの日からもう何年と、神の奇跡を授かって脚は動くようになったのに未だ生きる証を示したことがないというそれ。下着の中に手を突っ込み直に触れると、ジョニィの息は柔らかく頬をくすぐった。
 触っただけだ。軽く握っていただけ。動かしも撫でもしない。しかしジョニィは安堵しきったようにそのまま眠った。ジャイロは起きていた。疲れた頭の奥が痺れて眠らせろという肉体の叫びがぼんやりと聞こえたが、何だか名残惜しくそれに触っていた。
 起きた時に気まずいだろうと思ってその手は流石に下着からは引っこ抜いたが、未練が残り、指先で布ごしになぞる。
「したい」
 暗闇の中、嗄れた声で囁く。
「ジョニィ…?」
 隣に横たわる身体はすっかり眠っていて、夢の中にも届きはしなかったろう。ジョニィの眠りは今度こそ妨げられない、何者にも。ジャイロは瞼を閉じて午前三時の闇に更に蓋をする。ジョニィの悪夢くらい引き受けるから眠りたい。そういう気分だった。



2013.3.7