ハイウェイ・ダイアリーズ







 雨が降っていた。人の匂いがした。ジャイロの匂いだ。冷たい雨の匂いの中にそれは静かに混じっている。呼吸する空気の中にひっそりと。
 ぼくらは車をハイウェイの脇に停めて、ライトとエンジンを切り、冷たい鉄の箱と化したその中で雨が止むのを待っていた。最後に聞いたラジオの予報だと今晩中に上がるということだが、まるで嵐。雲の上の誰かが間違えて掃除用のバケツを引っ繰り返したんじゃないかと思うくらい、雨は暗く、重く、大粒で、容赦なかった。車の中はとにかく真っ暗で寒かった。でも次の街までの距離を考えるとここで暖房のためのエンジンをかけるのは得策ではない。いいさ、雨さえ止めば万事解決だ。パンクしたタイヤを替えることができる。
 急ぐ旅じゃない。行き当たりばったりでぼくらは楽しくやっている。だからパンクも、このカンザスの草原のど真ん中っていうのは舌打ちしたくなったけど、唾棄するようなハプニングじゃない。雨に濡れてタイヤ交換なんてことしなくても、もう少し待ったっていい。そりゃ日付の変わる前にモーテルに着いてベッドで眠れれば最高だけどね。
 運転席に座り、ハンドルにもたれかかる。だからこの席からはなんとなくジャイロの匂いがする。体臭っていうか、いつも彼がここに座ってるんだよなあっていう気配みたいなもの。当のジャイロは助手席を倒して仮眠をとっていた。
 時々ハイビームが暗闇を切り裂いて物凄い勢いで走ってゆく。路面を濡らす雨水を跳ね上げる激しい音。そしてエンジンの唸り声。あの車はどこに行くんだろう。飛ばしすぎだ。どっかの検問に引っかかればいいのに。待つ時間は長い。それを追い越してゆく濡れたピカピカの車に羨望と嫉妬の視線を投げ、ぼくはまた雨音に耳をすます。目を閉じても時間は長い。それどころか、このまま目を閉じると終わらない悪夢を見そうだ。
 ハンドルにもたれかかったまま視線を投げると、ジャイロが瞼を開いてぼくを見ていた。
「起きたのか」
「待ち長ぇよな」
 ジャイロは座席を起こすと首をコキコキ鳴らす。
「寝たの?」
「ああ。どうする、もうタイヤ替えちまうか。オレは朝までもつぜ」
「いいよ、もう少し待とう」
「寒くないか?」
「濡れればもっと寒い」
 ジャイロはぐったりとダッシュボードの上に顎を乗せ、横目にぼくを見た。
「何を考えてるんだ?」
「何も考えることがない。早く雨が止めばいいのに」
「おまえも少し寝ろよ」
「ううん……」
 いい、とぼくは首を振った。
「寝るならベッドで寝たい」
「同感だがな」
「ねえ、ジャイロ」
 フロントガラスの闇の彼方、小さな火花のような光が一瞬閃く。雲間の紫電。遠雷はここまで届くことがない。たった一瞬の変化。
「ぼくは君の秘密を聞いたけど、ぼくは話したことがないよな」
「おめーのことを知っているようで知らねーのは面白いもんだぜ。毎日新鮮だ」
 ぼくはちょっと笑ったつもりだったけど、フロントガラスにわずかに映ったぼくの表情も、ジャイロの目に映ったぼくの表情も笑ってはいなかった。氷のように凍てついて、暗く青ざめている。目を瞑る前から、悪夢は静かに忍び寄っている。
「ぼくの話をするよ」
「おまえの?」
「君、ネズミを飼ったことはある?」
「ネズミどころかペットも飼ったことはない。親父がそういう主義だった。弟は何人かいたけどな」
「ぼくは飼ったことがあるよ」
 掌を差し出し少し丸める。
「白いネズミ、名前はダニーっていってすごく可愛かった。カゴの中で飼う約束をしてたんだけど、ぼくはこっそりポケットに入れて連れて回ってた。それがある時、父親にバレた。でもそれはいいんだ。父さんはぼくにダニーを殺せって言った。庭の池に沈めて来いってね。…ん、ねえ、ジャイロ」
 ジャイロはダッシュボードの上に顎を乗せてるくせに真面目な顔をしてぼくを見ていた。視線が黙ってぼくを促した。それは本当にぼくの信じるジャイロの目で、だからぼくは畏れと恐怖を拭いながら告白したんだ。
「ぼくは人を殺したことがある。大事な人を…ニコラス……ぼくの兄を」
 それでもジャイロは何も言わなかったけど、ダッシュボードに顎を乗せた格好から起き上がって助手席にもたれかかる。ぼくはハンドルに縋りつくようにして言葉を続ける。
「兄は優秀なジョッキーだった。…優秀なんてもんじゃない、ニコラスは天才だった。その才能も未来も命もぼくが奪ったんだ。ぼくは父親の言いつけを守らなかった。ダニーを殺せず、外に逃がした。それが兄さんの乗る馬の前に飛び出したんだよ。元々気性の荒い馬だったけど、兄さんはそれを完璧に乗りこなしていた。なのに」
 ぼくは掌を握る。
「突然飛び出した白いネズミにブラックローズ号は驚いた。兄さんを振り落とし…それだけじゃない…何度も踏みつけにしたんだ」
 腕をだらりと垂らし、ぼくはフロントガラスを見上げる。
「父さんは知らない、ダニーが本当は死んでいなかったことも、馬の前に飛び出したのがダニーだってことも。でもちゃんと解ってる。元凶はぼくだ。ニコラスは死ぬ運命じゃなかったのに、不当に神に連れ去られた。だから父さんはぼくを赦せない。ニコラスが死んでしまって、ぼくが生きていることが許せない。ぼくもだ。あの日ダニーを池に沈められなかった自分を赦せない……生きてはいるけどね」
 ハンドルに顔を伏せ、ぼくは独り言のように呟き続けた。
「死にたいと思ったことはない。死ぬべきなのはぼくじゃないかと…思ったことはあるけど、積極的に死のうと考えたことはないよ。でも意地でも生きてやるっていう気持ちでもなくてさ…。いつ、赦されるのかな、って。赦されるまで歩き続けるんだ。だから脚が動かなくなった二年間は、もう永遠にぼくは赦されないんだろうと思った。もう一度立てるようになって歩き出した時、ぼくは赦されたくて赦されたくて…疲れてたのかもしれない。長距離バスに乗ってサンディエゴまでやって来て、そしてようやく横断歩道のど真ん中で転んで君の罵言を聞くまで色々忘れてたよ」
「例えば?」
 短くジャイロが尋ねる。低い声が耳だけじゃなく、寒くて鳥肌の立った首筋にそっと食い込む。
「…笑うこととか?自分が死にかけたことがやたらおかしかった」
 腕に隠してそっと笑うとジャイロの手が伸びてきて顔にかかった髪をかき上げる。ぼくはハンドルから顔を上げた。
「ぼく、笑ってる?」
「鏡、見てみろよ」
「見なくても分かる」
 彼の差し出した手にぼくは素直に掴まった。
「ぼくが兄さんを殺した」
 ジャイロの目を見て、ぼくは言った。
「神様はぼくに奇跡をくれたけど、別に赦してはくださらなかった。兄さんはもう天国にいる。赦してはくれないと思う。ぼくはダニーの夢はしょっちゅう見るけど、夢の中に兄さんが出てきたことはない。他には誰も…。父さんもぼくを赦さない。誰もぼくを赦してはくれないけど」
 指が絡み合い、ジャイロは静かに強くぼくの手を握りしめる。
「君も安いことを言うつもりはないんだろう。でも、心地良いよ。これでいいんだ。ぼくはこうやって生きる。そして…隣に君がいる。君はぼくの手を離さないんだな」
「おまえが離せと言えば離すさ」
「まだ離さないで」
 リアウィンドウから飛び込んできたハイビームが数秒、ぼくらの姿をシルエットにした。雨を跳ね上げて走り去る車。タイヤの滑る音。
「キスしてやろうか?」
 ジャイロの申し出はやさしかったけど、ぼくは首を振った。
「今はダメだ」
「今は、か」
「雨が止んだらタイヤを交換して、モーテルを見つけたらさ、ベッドの上で服を脱ぐよ」
 ぼくはジャイロがどんな反応をするか怖くて、逆に彼の手を握りしめて引き寄せた。
「分かった?」
「分かった」
 その返事を聞いたぼくが小さな声で、ごめん…、と呟きながらまた俯くけど、ジャイロは手を離さない。でもそれ以上のこともしない。ごめんはジャイロにじゃなくて天国のニコラスに言った言葉だけど、ぼくはそれを言わない。ジャイロは…解っているのかもしれない。
 それから雨が止んだのは十時過ぎだった。ぼくらは夕食も摂らずに雨の中を待っていたからへろへろだったけど、とにかくタイヤは替えて、それから仮眠を取ったから体力的には朝までもつって言ったジャイロが運転をする。
 モーテルはなかなか見つからなかった。相変わらず車内は寒かった。助手席にもたれかかると、さっきまでここでジャイロが眠っていた匂いがした。サンディエゴのアパートのベッドの心地よさには届かないが、それでも走り出した安心感も加わってぼくは全身の力が抜ける。
 結局ぼくはそのまま眠り込んでしまい、朝まで目を覚まさなかった。翌朝、だだっ広いドライブシアターの跡地に停まった車の中で目覚める。どでかい屋外スクリーン。辛うじて白線の跡の残るアスファルトの平地。それを囲むように枯れ草が夜明けの風に揺れている。空に赤みが差して、地平線の歪な形は延々と続く草原ではなくて街が近づいていることをぼくに教えた。
 積んでいたブランケットはぼくにかけられていた。ジャイロは起きていた。
「ごめん…」
 これは正真正銘ジャイロに言った言葉。
「モーテルは満室だった。いいさ。そろそろ行くぜ。美味い朝飯でも食えば元気が出る」
「ジャイロ」
 ぼくはあくびをしようとする彼の顔を掴まえてキスしようとし、自分が起き抜けであることに気づく。息がくさくないかな、と思ったら目標が逸れて頬へのキスになった。
 キスをし直したのはジャイロの方だった。それがあんまり優しかったのでぼくは昨夜の科白を撤回してここで服を脱ごうかなと思ったけど、深夜のテンションと夜明けのテンションが混ざってちょっと碌なことになってないらしい。
 服は脱がなかったけどそのままシートからはみ出すように抱きついて、ジャイロは後頭部を窓にぶつけた。




2013.3.3