祈りのサンディエゴ







 昨夜はちらっと降ったらしい。路面が濡れていた。山間部では雪になったらしくローカルニュースが粉砂糖を振ったような山を映した。運が良ければこのサンディエゴでもホワイトクリスマスになりそうだ。
 ホット・パンツはキッチンに立ったまま朝食を摂り、横目にテレビを観ている。テーブルの上は昨夜のまま。空っぽになったワインのビン、飲み干した跡が赤く残るグラス。乾杯は一葉の写真に送られた。教会の前でジョニィを両腕に抱えたジャイロ。ジャイロに抱えられカメラに向かってピースサインを突き出すジョニィ。二人とも呆れるほど笑っている。昨日、ポストに入っていた手紙に同封されていた。消印はニューヨーク。
 この写真を見ると、何故だか笑いが込み上げてくる。まったく男二人がいい年をしてはしゃぐ。これはニューヨークのトリニティ教会だ。訪れる人も多いというのに、まったくなんて場所でなんてことを!
 いい気分だったので、ニュースが若き新人下院議員の話題に移る前にテレビを消し、部屋を出る。勤める病院併設の教会までは一ブロックもない。軽い足取りで歩道を行く。濡れた路面は時々泥水を跳ねるが気にならない。
 病院前に車が停まり、運転席から出てきたのはウェカピポだ。カチッと音を立てて踵を合わせるような仕草でドアを開けると、病院のオーナーであるスティール氏とその妻であるルーシーが下りてくる。
「ホット・パンツ」
 ルーシーが手を振った。ホット・パンツも軽く手を挙げてそれに答える。
 彼女は夫に弁当の入ったランチボックスを手渡し、頬にキスをして見送る。スティーブン・スティールとウェカピポの姿が病院に消えると、彼女はまた手を振った。その手には白い封筒が握られている。
「中で話しましょう」
 ホット・パンツは頷き、教会の門を開けた。
 二人は一緒に朝の祈りを捧げてから中庭に出た。芝はまだしっとりと湿っていた。冷えた冬の匂いと土の匂い。しかし朝日はベンチを乾かしてくれていて、彼女ら二人が座るのを妨げない。
「ジョニィから手紙が来たの」
 例の写真かと思ったが少し違った。二人は自由の女神を背景に肩を組んでいた。
「とてもいい写真」
 ルーシーは慈母のように笑い、写真の縁を撫でる。
「このまま大西洋を渡ってしまうんじゃないかと思って、昨夜思わずジャイロに電話をかけた…。ジョニィが出たわ。ちゃんと帰ってくるといっていた」
「私にも写真が」
「あら。じゃあ知っていたの?」
「いや…」
 ホット・パンツはポケットに滑り込ませていた例の写真を取り出す。ルーシーは、まあ!と声を上げ、中庭の人間を数人びっくりさせてから笑い出した。
「二人ともはしゃぎすぎ」
「まったくだ」
「でも気持ちは分かる…。私も夫とのハネムーンはそうだったから」
「ハネムーン…」
「たまらなく嬉しくなって。スティーブンは私を抱え上げるのにも、ちっとも苦としなかった」
 そしてこのジャイロは軽々とジョニィを抱えたのだろう。
「本当に楽しそう。コーヒーショップに届いた写真を見た?」
「ポーク・パイ・ハット小僧が笑っていたな」
「『エンストしました!』だって!」
 アリゾナ砂漠から送られた写真。もちろん手紙が届いたくらいだから心配はいらないのだろうが、それにしても店に集まった連中の皆が皆、心配するよりも先に大爆笑だった。マウンテン・ティムも笑っていた――マウンテン・ティムこそがルーシーにその写真を教えた――。一番笑っていたのはくだんのポーク・パイ・ハット小僧だ。ひとしきり笑った後は、二人がちゃんとお土産を持って帰ってくるか心配になったようだが。
「シュガー・マウンテンはシカゴとミルウォーキーから写真をもらったそうよ」
「アリゾナ、ロッキー山脈、カンザス、ミシガン湖…」
「ゲティスバーグ、フィラデルフィア…ニューヨーク…本当に大陸横断の旅になったわね」
「楽しそうだ」
「ホット・パンツもたまには休みをとったら。旅行に出掛けたり…」
「私は…」
 ホット・パンツは写真をポケットに仕舞う。友達のこの二人が楽しそうにしていれば、それだけで自分も楽しくなる。それで構わない、と思う気持ちもある。その気持ちに隠して、自分が人生を楽しむことへの後ろめたさが暗い記憶の底からがりがりと爪を立てる。
「いつでも相談して」
 ルーシーは立ち上がり、ホット・パンツの正面に立つと微笑んだ。
「応援してるから」
 かけられた言葉のあたたかさに縋りたい気持ちを抑え、ホット・パンツもわずかな微笑を返した。ぎこちないそれを受けとめ、ルーシーは中庭を去る。今日は正午に地元の小学生が来て病院のホールでクリスマスコンサートをする予定だった。小さな子ども達は既に歩道をぞろぞろ歩いてくるところだ。その中には右頬に大きな絆創膏を貼った少年の姿もちらほら見かける。皆、ルーシーの姿が目に入ると嬉しそうに手を振る。
 子ども達の笑い声に背を向け、ホット・パンツは教会の建物に戻った。静けさに扉の重く閉まる音が反響する。
「私は…」
 胸の中が重たく冷たい水を吸ったような気分が、ゆっくりとホット・パンツを侵蝕した。ルーシーの言葉や笑顔は自分を元気づけてくれる。しかし彼女の光が眩しいほど、自分の過去に射す影は濃く拭いがたいものとなる。ホット・パンツは十字架の前に跪き、一心に祈る。もはや胸の中で呟いているのは祈りの言葉なのか、祈りの形も、床の冷たさも消えてゆく。しかし濡れた腕のようなものが絡みつく、その幻影は消えなかった。救われないクリスマスを迎えるのはもう何度目だろうか。

 クリスマス・ミサも終わり、人々の姿の消えた教会にはまだ余韻のようなものが残っていた。響く祈りの声。蝋燭の明かりが照らしだした無辜の人々の姿。ホット・パンツは椅子の隅に腰掛け、ぼんやりと目の前の十字架を眺める。残された蝋燭明かりの中、十字架にかけられたかの人の姿が見える。全ての罪を背負い、目を瞑っている。
 その中に自分の罪はあるのだ。だからこそ自分はこの身を神に捧げなければならない。私は清められた訳ではない。赦されなければならない。そのための祈りを捧げ続けなければならない…。
 ポケットの中の写真。ジョニィは神の他、この世で唯一ホット・パンツの秘密を知る者だった。あの宵、ジョニィも何かを隠しているようだった。誰にも言えない罪。それを隠して、ホット・パンツに触れることも躊躇った。そのジョニィが今はこんなにも笑っている。この男のせいなのだ。一緒に道を歩むこの男。彼らは二人だから、こんなにも笑っていられる。
 独りだ、と思い、独りでも構わない、と思う。
 私を赦すのは神の他にいない、と。
 背後で扉が重々しく開くのにもホット・パンツは振り向かなかった。足音さえ高慢なその男が近づいてきているのは気配で分かっていた。両手を組み、瞼を伏せて俯く。
「ホット・パンツ」
 傲慢な男が呼ぶ。顔は上げない。男は立ち去る気配がなく、ホット・パンツもまたいつまでも祈り続けていられる。この世界が終わるまで。それはもう間近に迫っているような気もした。もう…自分は疲れている。罪に押し潰される。くしゃくしゃと紙屑のように丸められ地獄に落とされる。
 ぐっ、と襟首が掴まれ顔を上げさせられる。それでも瞼は開かなかった。何をされようが、瞼を開くつもりはなかった。今度は窒息しても構わない。人生の終止符が今日でも…もう構わない。
「ホット・パンツ」
 男はもう一度ホット・パンツの名を呼んだ。
「目を開けろ」
 ホット・パンツは応えない。
「ホット・パンツ、目を開けろ」
「断る」
 痛みが走る。思わず開いたのは片目だけで、もう片方の目の上を鋭い痛みが。ぼんやりとした明かりの中、霞む視界に見えるのは鋭い爪。
「しっかりと目を開けろ」
 更にぐいと襟首を引き寄せ、噛みつく距離でディエゴ・ブランドーが言った。
「目を開けてオレを見るんだ、ホット・パンツ」
「…もう私に構うな。消えてくれ」
「おまえの命令を何故このオレがきかなければならない。命令をしているのはオレだ、ホット・パンツ。さあ、オレを見ろ」
 一ヶ月前の最低な科白から始まって色々な口説き文句があった。どれも傲慢で強引で、それらはプロポーズに程遠い。
 オレを見ろ、だと?
「今更おまえの顔を見て何になる」
「ホット・パンツ、オレの目を見るんだ」
 今日のディエゴはしぶとかった。嫌々ながら、引き摺られるようにホット・パンツは彼の目を見た。…彼のことを一番嫌っているジョニィでさえ認めている美男子。高い鼻も、美しく整った唇も、まるで神と遺伝子が結託して与えたかのようなブロンドもどれも完璧だ。目を見ろ…?
 ディエゴ・ブランドーの目。
「何が見える?」
「何……」
「何が見える、ホット・パンツ」
「おまえの…目…」
「何に似ている?」
「何だって…?」
「おまえが今見ているものは、おまえの知る何かに似ているか?」
「何……」
 まるで吸い込まれるようにその瞳を見つめた。そこにあるのは美しく輝く星でも、自分を包み込む慈愛でもない。
 人間の眼球。それはそうだ。当たり前だ。
 見たことがない。
 ホット・パンツはいつの間にかそう考えている。
 何にも似ていない…。私が今見ているものは何だ?ディエゴは何を見ろと言った?
 私が見つめているものが、私を見つめている。
「これがおまえの知らざる世界だ」
 ホット・パンツは返事をすることもできず、まるでその眼球そのものが語りかけるような声に耳を傾ける。
「おまえの知る神も、おまえの過去も、おまえを赦しはしないだろう。永遠におまえは苦しみ続ける。死ぬまでだ。死ぬまでおまえは苦しみ続ける。オレには分かる。何故か?オレはおまえの知らざる世界を知っているからだ。おまえの知らざる世界にいるからだ。いいか、教えてやろうホット・パンツ。オレならおまえをその世界に連れ出すことができる…」
「世界…?」
「今、おまえが見ているものは何だ?」
「今…私が……」
「何にも似ていない、おまえの知らないもの、それがオレだ。このDioの見つめる世界、このDioの未来だ。おまえをそこに連れて行ってやる。ホット・パンツ」
 耳まで裂けた口が近づき、囁く。
「オレのものになれ。オレがおまえの過去も未来もオレのものにしてやる。骨の髄までしゃぶって、かけらも残さず喰らい尽くし、この腹に収めてやる」
 ホット・パンツの瞳に光が戻る。目の前には傲慢に微笑むディエゴ。その背後には灯明に照らされた十字架。
「……最低な科白だ」
 ホット・パンツは呟いた。
「…最低な男だ」
 しかしその呟きにもディエゴは微笑みを崩さない。
「本当に酷いプロポーズだ」
「プロポーズの科白は別だ。おまえをファーストレディにしてやる」
 小馬鹿にした笑いが鼻先を掠め、ホット・パンツは相手の胸ぐらを掴むと思い切り扉まで走った。ディエゴの身体は男のものだが引き摺れないほどではなかった。毎日鍛えている甲斐があった。
 重い扉を体当たりするように開け外に飛び出す。勢いは止まらず門をくぐって歩道まで出た。雪だ。小さく細かな白い結晶が、街灯に照らされて降っている。
 ホット・パンツはほとんど顔を歪めるようにし、両手で相手の胸ぐらを掴む。
「逆だ」
 ディエゴが言ってホット・パンツを抱き寄せた。
 せめてこの顔をどうにかしようとする間もなくディエゴの唇は重なって、ホット・パンツは目の前の男が礼儀正しく瞼を閉じているのを間近で見ながら、ようやく眉間の皺を解き涙を滲ませて相手の首を抱きしめた。

          *

 路上での出来事はゴシップ誌、他何誌もの新聞のネタとなる。
 リンゴォ・ロードアゲインは新聞記事を切り抜き、ショーケースの上にのせた。そこには先日届いた手紙と写真が並んでいた。
 旅に出る前、ジョニィは店に遊びに来た。土産は何がいい、と尋ねられた。
「君が成長して帰ってくること」
 リンゴォはそう答えた。
 その返事だった。
 写真は大西洋。朝焼けの空の上にジョニィの文字が浮かんでいる。
『ぼくは成長して帰ってくるよ。でも、あんたは殺さない。』
 朝焼けの大西洋を背にシルエットになっているのはジョニィだ。この写真はジャイロ・ツェペリが撮ったものだろう。いい写真だった。ジョニィは真っ直ぐ写真のこちら側を見つめていた。いい顔…いい目だと思った。
 きっとジョニィは自分を殺し得る。でも殺さないと言った。自分を殺さないものは自分を強くすると言ったのは誰だったか…。紙の中に閉じ込められた格言以上に、ジョニィの目はそれを実感させた。
「君が帰ってくるのが楽しみだ」
 リンゴォは珍しく微笑み、新聞記事を入れた封筒にニューヨークのホテル宛ての住所を書いた。
 大西洋の写真は額縁に納められ、店の壁に飾られている。




2013.2.28