ユード・ビー・ソー・ナイス

トゥ・カム・サンディエゴ・トゥ 2







「勝負だ」
 ジャイロは言った。
 九月の熱い日差しが大地を焼く。ぼくは詰め込まれたのと同じ乱暴さで助手席から放り出された。ついた膝の下や掌に熱い砂を感じる。背後から太平洋の波音。海岸にほど近いここは、時々ぼくらが馬を走らせる場所だ。マウンテンティムもまじえて、何度か競争したことがある。
 つばの広い帽子の影からジャイロの目がじっとぼくを見つめる。その目は挑発的で、傲慢なほど力強くて、獰猛で、今にもぼくをこの地面に引き倒すことができるのだと言っているかのようだった。この焼けた地面の上に引き倒し、にやにや笑いをする口元から覗くその歯でぼくの喉笛を噛み切ることもできるのだと言うように。またジャイロの背後に控えるヴァルキリーも既にその瞳に闘志を漲らせてぼくとぼくの馬を見ていた。傍らのスロー・ダンサーがぶるんと息を吐く。
 なにこのみんな準備は万端っていう空気。地面に座り込んで分かってないのはぼくだけ、みたいな。
 ぼくは砂の上に唾を吐き、立ち上がった。
「いいよ、受けて立つ」
 ムカつくから返事してやらないって訳じゃない。乗ってやろうじゃないか。火のついた闘争心に嘘はつかない。
 ジャイロは陽炎立つ大地の向こうを指差す。
「距離は一五〇〇〇。サンタ・マリア・ノヴェラ教会までだ。コースは分かるな」
「ぼくの考えてるのが君と一緒ならね」
「いいだろう。乗れよ」
「言われるまでもないさ」
 ぼくはスロー・ダンサーに跨り、焼けた大地の彼方を見つめる。一五〇〇〇メートル。アップダウンもあるコースだ。短距離勝負。これを勝負だと言ったジャイロ。お互い本気の走りだ。二十分を切るか?微妙なところだ。でもジャイロの走りはもうずっと見てきた。彼の馬のクセも知っている。勝負所も…見えている。
「ジョニィ」
 目の前を見つめ、ジャイロが言った。
「ついて来いよ……。ついて来られるなら、だがな!」
 上空高く鳥の声が響いた。ぼくらは同時に走り出す。同時だ。まったく同時だった。走り出した瞬間、それは間違いなかった。なのに…。
「えっ…?」
 次の瞬間、ぼくは彼の背中を見ている。背中だ。ジャイロの背中。風に上着の裾が大きくはためいている。
 いきなり…ちょっと待て、いきなりなんなんだよ?飛ばしすぎだろ?いきなりそのスピードなのか?
「ジャイロ!」
 思わず叫んでいる。
「いきなりなんなんだ!馬を潰す気か!?」
「ジョニィ!」
 ジャイロは大きく身体をひねって振り返る。
「ついて来れるなら、と言ったはずだぜ。いやならちんたら走ってろ。オレは先を行く」
「ジャイロ…!」
 くそったれ!ぼくは悔しくてたまらないのに笑っている。畜生、めちゃめちゃ悔しいぞ。いきなり見せつけられた。なんなんだよ、あいつは、あの男は。本当にいつも突然で突拍子もない、その上強引なんだ、ジャイロは。
 でもぼくだってこのまま後塵を拝するつもりはないからな。
「誰がついて行くって?」
 ぼくは叫び返す。
「君が言っただろう。これは真剣勝負なんだ。ぼくが、勝つ!」
 ニョホッと笑って、ジャイロはもう振り向かなかった。それでいい。前を見て走るんだ。あの背中について行くんだ。追いついて、追い越すんだ。
「絶対に勝つ。ジャイロをおったまげさせてやろう」
 スロー・ダンサーがぼくの声に応えスピードを上げる。
 群生するサボテンの脇を抜け、涸れた河を渡り、右手に林――っていうか森――が見えた時、ぼくはまた驚くことになる。ジャイロはぼくの考えていたコースを大きく外れ、林の中に突っ込んでいく。確かにこの林を突っ切れば大きく迂回する正規のコースよりは随分ショートカットだけれど、正気の沙汰じゃないぞ!
 ジャイロは振り向かない。ぼくがついて来るかどうか見ようとはしない。
「分かってる」
 ぼくも手綱を持つ手を緩めなかった。
「行けるよな、スロー・ダンサー」
 ぼくらも林に進路を向ける。スロー・ダンサーも怖じない。その足取りに不安はない。
 迷いはない。
 向かう先は樹木の密集した雑木林なのに、ぼくにはその道が光って見える。行ける。この林を越えて農場脇の坂を下れば残り二〇〇〇メートル。そこからが勝負だ。

 蹄の音。ぼくは走っている。自分の肉体が、足のつま先の細胞まで生きているのが分かる。全身に熱い風が吹きつける。熱い偏西風、サンタアナ。熱い風の中を走っている。目の前は眩しい、光でできた道。そこに一つのシルエットがある。男の背中が見える。メキシコからの向かい風を受けて、大きく膨らんだ上着がまるで帆船の帆のようだ。
 脚から伝わってくる力。鐙を踏みしめた足の裏から力が全身に伝わってくる。もっと力を出せと馬の力が、ぼくの脚が言っている。ぼくの肉体はそれに応えようとして、魂がはちきれて前に飛び出しそうになるくらいだ。
 直線の向こうには教会。耳元で物凄い声がする。蹄の音、風の音、それだけじゃなくて身体から流れ落ちる汗も、全身で振り絞る力も音になって、まるで歓声のよう。
 目の前のシルエット。どうしてだ、追いつけない。最初からあんなに飛ばして、もうこれ以上スピードが上がるはずもないのに、向かい風のなか更にスピードを上げる。
 …ジャイロ!
 気が付けば目の前には空だけが広がっている。高く、青い空。弧を描いて飛んでいるのは鷲だろうか。ひらひらと羽が降る。それも熱い風に吹き飛ばされる。
 青空を遮って、顔がぬっと覗き込む。
「大丈夫か、ジョニィ」
「………?」
 更に反対側からスロー・ダンサーが覗き込み、ぼくはようやく自分が砂の上に倒れていることに気付く。ここはゴールのサンタ・マリア・ノヴェラ教会の前だ。ぼくはゴールしてそのまま馬から転げ落ちたのだ。
 声が出ない。何かを言葉にする気力もない。するとジャイロがしゃがみこんで、わざわざ目の前でニョホホと笑った。
「オレの勝ちだな」
 悔しさも全身を波のように襲う心地よい疲労に流された。ぼくは目を細め、拳を彼に向けた。ジャイロはそれを掴んで更に笑った。
「ほら、起きろよジョニィ。乾杯しようぜ」
「…何に…?」
 腕を掴まれ、ぼくはようやく身体を起こす。
「当然、オレの勝利に決まってるだろーが」
「付き合ってやるよ」
 彼が取り出したのはシャンペンだった。
「すっげー高いんだからな」
「いくら?」
「五〇〇ドル」
「マジ!?」
 でもぼくらはここまで馬に乗り、走ってきたのだ。一五〇〇〇メートルを二十分を切るスピードだったとしても、それは冷えたシャンペンとはいかないし、それにもちろん。
 ポン!と音を立ててコルクが空高くはじけ飛ぶ。噴き出したシャンペンがぼくらの顔を濡らす。ぼくらは悲鳴のような笑い声をあげる。液体は白い泡になってまだまだ溢れ出してそれを掴むジャイロの手をどくどくと濡らした。ジャイロは笑いながらそれをぼくのために持ってきたグラスに注ぐ。安っぽいガラスのコップ。彼が笑いながら注ぐもんだから、溢れたそれはぼくの手も濡らす。ぼくらは二人とも笑いが止まらない。
 ぬるいけどこんなに美味いシャンペンは飲んだことがない。ジャイロはビンから直接それを呷り、残った液体をぼくの頭から振りかける。ぼくは笑いながらそれを拭い、ジャイロを殴る真似をする。そんな風に暴れていると砂埃が濡れた顔や服にひっついて、それはひどい有様だ。でも笑いは一向に止まなかった。もうなんで笑っているのか分からない。
 笑いすぎて顎が疲れた。ぼくはようやく落ち着いて目の前の男の顔を見た。
「ジャイロ」
「ん?」
 彼の服も砂埃にまみれてボロボロなのに、口を閉じたまま笑う表情はひどくいい男だった。ぼくは手を伸ばして彼の頬を引っ張る。口元が開くと、いつもの品のない笑顔のジャイロ。
「何すんだよ」
「寝てないんだろ?」
「ん、ああ」
 ぼくらは教会の石段の一番上に腰掛けた。ジャイロはぼくの膝の上に頭を乗せて寝転がった。ほらよ、と帽子を頭の上にのせられる。つばの広い帽子がぼくらの上に小さな影を作る。
「ジョニィ」
 ジャイロは手を伸ばしてぼくの頬の砂粒を落としながら言った。
「オレはおまえがどこかに行こうと思うなら止めねーよ。おまえが行きたい場所ならな。おまえの心の地図に従っておまえの道を行こうとするなら、オレはそれで構わない。オレだって好き勝手生きてんだ。おまえさんの邪魔はできねえ。でもな」
 指先が首筋に触れる。
「おまえがオレから逃げようってんなら、オレは怒るしおまえを殴るぜ。いいかジョニィ、覚えておけよ。オレは絶対におまえを捨てたりしない。いいか、オレがおまえを捨てることは神に誓って、ない」
 ぼくが喉を鳴らして唾を飲み込むと、ジャイロはふ、と笑った。
「オレをなめるな」
 触れたのは掌だった。突き刺すように当てられていた指先から、掌。そしてぼくの耳を抓む。ちゃんと聞こえたか?って顔で。
 ぼくはちょっと帽子のつばを引き下げる。
「ジャイロ」
 うわ、意外と小さい声が出た。何か怖がってるみたいだ。でもいい。このまま言う。
「ぼく、夢が、あって」
 ジャイロが手を離す。膝の上から、真っ直ぐに見上げられる。こんな近距離で相手の目を見ながら言うのは恥ずかしいけど、これは絶対に目を逸らして言っちゃいけない。分かってる。
「Dioに勝ちたい。あいつのいない景色の中を走りたい。でも、もう、今はどうでもよくなった。ぼくさ……」
 その瞬間鼻の奥がつんとして熱くなった。喉の奥がぐるぐるいって震える。ぼくは震えを堪えながら声を絞り出す。
「君と生きてたいんだ」
 言葉に出した瞬間に視界が潤んだ。大粒の涙がぼろぼろっとこぼれてジャイロの上に落ちる。頬の上で涙が砕け、ジャイロが片目を瞑る。
「君と一緒に走って、君と生きて見える景色が見たい。君と生きる人生の果てに見える景色が、見たい」
 最後の方はもう涙でぐしゃぐしゃになってジャイロにちゃんと聞こえているか分からないけど、とにかくぼくは最後まで言い切る。これがぼく自身さえ気づいていなかった偽りのないぼくの気持ちだった。一五〇〇〇メートルを限界の力を振り絞って走り抜け、笑い声とともに何もかも捨て去ったぼくの中に残ったたった一つのものだった。
 ジャイロ。
 君の名前しかない。
「…ジョニィ」
 まだぼろぼろ涙をこぼすぼくにジャイロは話しかける。
「秘密、持ってるか?秘密」
 ぼくの返事はしゃっくり。
「オレには秘密がある。誰にも、一生絶対に言わない、墓まで持ってくって思ってた秘密がな。これを知ってるのはオレの父上と母上だけだ」
 ちょっ。今『父上』と『母上』って言ったよね。これだけでも十分人に言えない秘密っぽいけど。
 驚いてちょっと涙が引っ込む。涙を拭うとジャイロの顔がよく見えるようになった。彼はすごく真剣な顔をしていた。ここが教会だというせいもあるだろう。一気に厳粛な雰囲気になる。
「教えてやるよ。オレの本当の名前」
 ジャイロは腕でぼくの頭を引き寄せ、その耳元に彼の本名を囁いた。静かな囁きは波音のように真実に満ちていて、音楽のように美しくて、そしてやっぱり突拍子もなくぶっ飛んでいた。
「君の本名って…え…それスペリングも一緒な訳?」
「いいか絶対にだ!絶対に誰にも言うなよ!」
 相変わらず真剣な顔のジャイロだけど耳が真っ赤だ。
「言わないよ」
 返事をしながらぼくの目にはまた涙が溢れだす。
「言うかよ…」
 誰にも教えるもんか。金を積まれたって、たとえこの命と引き換えでも喋るつもりなんてない。ぼくだけの――ジャイロの両親も勿論知ってるけど、でも――これは、ぼくだけがもらった秘密なんだから。合鍵みたいにどこかに忘れることもない。この頭の中に仕舞って、ぼくの心の一番奥の方に厳重に保管して鍵をかける勢いだ。
「でも一度だけ呼んでいい?」
「おまえ、ジョニィ、言ったそばから」
「ユリウス……」
 みっともないほど声が震えた。ジャイロは怒った顔のままだが、黙ってそれを待っている。ぼくは静かに静かに、大切に彼の名前を呼んだ。
「ユリウス…カエサル…ツェペリ……」
 また泣き出したぼくの顔を隠すように、ジャイロが帽子のつばを引っ張った。ぼくは両手でそれを掴んで顔を半分隠しながら泣いた。
「少し寝るからな」
「うん…」
「泣き止んどけよ」
 ジャイロが目を閉じる。ぼくはなかなか涙が止まらないけど、膝の上の重みと呼吸が穏やかな寝息になるのを感じて少しずつ落ち着いてくる。
 顔を上げると、教会の建物の影にぼくらの馬が休んでいるのが見えた。その向こうはさっき走り抜けた直線、農場のある丘、それを越えた向こうにサンディエゴの街。ぼくは自分の手を、眠ったジャイロの手に重ねた。彼の胸の上で手を重ね、しばらく心臓の音を聞いていた。ぼくも少し眠い。心地よく疲れている。そして安らかな気持ちだ。
 眠った彼の顔にもう一度あの名前を囁こうとして、やめた。秘密だと、誰にも言わないと約束したから。それに彼はジャイロ・ツェペリだ。パスポートだってその名前で持っている。

 帰宅したぼくらはどっちが先にシャワーを使うかで早速喧嘩しそうになる。でも顔が近づいた瞬間不意に言葉が途切れて、ぼくは間近で彼の目を見つめる。ジャイロも黙っている。彼の手が腰に触れる。不思議な骨の埋まった上から触れた手がぼくを抱き寄せる。
 ぼくが瞼を伏せようとした瞬間に、電話が鳴った。ジャイロの病院から支給されたPHSの、無慈悲なコール音。
 二人でユニゾンして、うがぁぁぁぁぁ!と叫び、ぼくらはバスルームの前からどかどかと足音高くリビングに戻る。
「もしもし!」
 ジャイロがPHSに向かって怒鳴る。ぼくはずるずると床の上に倒れ込む。
 電話の主はルーシーだった。ホット・パンツとディエゴが教会で死闘を演じているからすぐに来てほしいという。
 またヤツだ。ディエゴ・ブランドー。ぼくは決意する。ディエゴ、おまえを絶対殺してやるからな。




2013.2.22