ユード・ビー・ソー・ナイス

トゥ・カム・サンディエゴ・トゥ 1







 最近、ぼくのリヴォルヴァーを見ない。
 ぼくが内緒で銃を持っていたことがジャイロにもバレたあの夜、ジャイロは確かにぼくの手から銃を取り上げて床に落とした。あれっきり見ない。嘘だ、一度は見た。ある場所は知っている。台所の戸棚の奥じゃない。ベッドマットの下だ。翌日、床の上に落ちていなかったから探した。シャワーの後で二度寝して、起きたのは昼過ぎだった。雲が晴れて明るいのに街には人間が一人もいないかのように静かだった。ぼくは寝室の床に這いつくばって銃を探し、ゴミ箱の中も漁った。マットの下を覗いたのは、まあ、隠しモノをするには定番の場所だし。
 ジャイロは何も言わない。あの夜でさえ言わなかった。この銃はどうしたのか、とか。やっぱりとっくにバレていたんだろうか。でも実物を見たらちょっとは感情が動きそうなものなのに。あの夜、ぼくの手には星型の痣が浮かんでいた。それだって見たはずなのに。何か言われたら煩わしく感じるくせに、何も言われないと不安になる。いっそ一発殴られた方が分かり易い。
 ベッドの俯せになり、いつもジャイロが眠る場所に掌を這わせる。毎晩――時々は昼。夜勤の時とか――ジャイロが眠るマットの下に、ぼくのリヴォルヴァーは敷かれている。暴発したらどうする気だろう。マットは分厚いけどきっとただではすまない。ヘタすると死ぬかも。
 それ以来、眠る前に祈るのがぼくの日課になった。敬虔な気持ちから生まれた祈りじゃない。ベッドに横になり、目を瞑った最初の瞬間、心の片隅で祈る。銃が暴発しませんように、ぼくが寝ている間にジャイロが死にませんように、と。まるで子どもだ。
 あの夜ジャイロがぼくの瞼の上から押さえつけた掌の重みはじんわりぼくの心に染みこんで、今でも効果を失わない。最近はディエゴのことで不機嫌になることも少なく落ち着いて見えるけど、でも完璧とはいかなかった。コーヒーショップに集まる客は口さがなくて、ジャイロが若い女の患者を車椅子に乗せて海辺を散歩する姿は何人にも、そして何度も目撃されていた、その詳細をぼくは自分から望む前に知ることになる。
 黒髪の女性はウェカピポ――いつか話したマジェントを逮捕した警官だ――の妹で、左目は以前から見えていなかった。その彼女が事故に遭い病院に運ばれ、手術をしたのがジャイロ。しかし頭を怪我していた彼女はとうとう両目とも見えなくなってしまった、らしい。
「ウェカピポの妹は海を見るのが好きだったんだ」
 店の隅でマジェントが話している。向かいに座る無精髭の男は窓の外を眺め物憂げにうなずくだけだ。よっぽどぼくの方が話を聞いている。
 で、なぁんだ医者と患者ってだけの関係か、ぼくの早とちりだったな、とか気分が軽くなる訳でもなくて、やっぱり物事の順序っていうのは大事なのだ。この話を聞いてから二人の姿を見れば医者と患者にしか見えなかっただろうが、ぼくは先にあの光景を見ていた。ジャイロの祈るような姿を見ていた。その後で話を聞いても…ジャイロが患者に手を出すとは思えないし――ぼくは彼を買いかぶりすぎだろうか?――、ましてウェカピポの妹なら手を出したら殺されそうだ…、だからジャイロのことは信じている。皆の言う通り、手術に失敗した責任を感じているんだろう。それで男と女だから口さがない連中の餌食になるんであって、多分二人の関係は医者と患者以上のものはないに違いない。ジャイロのことだ、信じられる。でももう一歩、もうほんのあとちょっとだけ、完璧の一パーセント先を信じさせてほしい。ジャイロ、君の祈る姿は医者としての、それだけのものなのか?
 家に帰ると、いつもの食卓。ちょっと遅めの夕飯の後、テレビを観たり、だらだらしたり、週末に向けて歌やギターの練習をしたり、アパートの上下階から床と天井同時に抗議の声を聞いたり、そしてぼくのリヴォルヴァーを下に敷いたベッドの上で寝たりする。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 最近寝る時間が早い。前はもっとダラダラしていたはずなのに、最近はぐだぐだ喋ったりするよりもとっととベッドに入っている。そういえばジャイロのぶっ飛んだギャグも最近聞いていない。闇の中で目をこらすと、ジャイロの寝顔は沈黙している。何も言わない寝顔に手を伸ばすことができず、ぼくは眠くなるまで目を開けている。

 九月もそろそろ終わるという日、ぼくのバイト先に初めてジャイロから電話が入る。店の入口の公衆電話が鳴って、店主が受話器を取った。そしてぼくをカウンターから呼び出した。
『ジョニィ?』
 何故か声がつっかえる。
「…どうかしたのか」
 ジャイロは昨夜が夜勤だった。多分家に帰ってきたばかりか、もしかしたらまだ病院かもしれない。背後は静かだ。
『バイトは何時に終わる?いつもどおりか?』
「夕方だけど…」
『迎えに行く。できるなら早く上がれないか交渉しろ』
「おい、ジャイロ」
『いいか、迎えに行くからな』
 ぶつりと電話は切れて、ぼくは通話終了のブザーを聞きながら受話器を見つめる。振り返ると、店中の人間がぼくを見つめていた。
「…なんだよ」
 受話器を戻しながら不機嫌を隠さないでいると、店主も客もそれぞれに妙な笑いを浮かべながら、別に…、と目を逸らす。
 ぼくはカウンターの中に戻った。店主に交渉はしなかった。すぐに昼休みの警官がぞろぞろやって来てカウンターを占領し、彼らのために不味いコーヒーを淹れる。一番最後にドアをくぐったマウンテン・ティムが軽く手を上げた。ぼくも軽く挨拶を返す。
「最近機嫌が悪いな、ジョニィ」
 マウンテン・ティムはぼくがコーヒーを目の前に置くと、言う。ちょっと茶化し気味な口調だけど、その目はぼくを見ていて、まあね、とぼくが逆に目を伏せる。
「ジャイロと喧嘩でもしたか?」
 いつものこっちゃねえか!と隣の警官が笑う。ぼくらが週末のストリートライブの後、喧嘩をしながらアパートに帰るのもよく目撃されている。
「してないよ、別に」
 嘘じゃない。喧嘩はしていないのだ。ただジャイロが何も言わないだけ。ぼくは何も尋ねられないだけ。
「元気がないみたいだと、ルーシーも心配してた」
 あ、マウンテン・ティム、ルーシーと会ったりするのか。向こうは本当に夫のスティール氏のことが好きだから、それこそ完璧なくらい付け入る隙がないんだけど、マウンテン・ティムはつらくないんだろうか。ルーシーのこと…相手は少女だし、今や人妻なんだけど、この男は多分本気で好きなんだぜ?割り切ってんのかな。君の笑顔が見られるならそれでいい的に。
 ぼくは…そんな風には思えない。ジャイロの笑顔は見たい。不敵な笑顔も、いつもの品のない笑顔も、時々見せる穏やかな微笑も。そりゃあ見ていたい。でもそのために自分を犠牲にできるだろうか。自分の心の大事な部分を差し出しても、彼が笑っていてくれればそれでいいなんて考えられるだろうか。
 例えば。ぼくの足が動くようになったのは腰の下に埋まった奇跡のせいだ。もしこの奇跡があれば、視力を失った女性の目に光を取り戻すことができるかもしれない。
 奇跡を授かった古ぼけた教会で、ぼくは声を聞いた。ぼくに語りかける声を。
 これを自分のものにしてもいい。
 誰かに与えてもいい。
 何をしてもいい、と。
 再び車椅子なしでは動けなくなったぼくは、再び生きる価値をなくすだろう。ゴミみたいな存在に逆戻りする。そんな風に全部なげうって、ぼくが報われるとも限らないのに。
 それよりもっとシンプルな解決法がある。ぼくにはリヴォルヴァーがあるのだ。誰かを撃てばいい。彼女か、ジャイロか、それともぼくか。
 皿を洗いながらぼんやりするぼくの視界の端をもっと現実的な解決法が通り過ぎた。長距離バス。今日は給料日だから、そのままバスに乗ってどこに行ったっていいのだ。だいたいサンディエゴに来たのだって偶然だった。自分でも理由が分からないままにここに辿り着いただけだ。ぼくはどこに行ったっていい。サンフランシスコでも、ロスアンジェルスでも、大陸を横断してニューヨークだっていい。
 頭の中で今月のバイト代を数えていると、表の通りで物凄い音がする。タイヤがアスファルトを擦る音。クラクションの嵐。ぼくは顔を上げる。窓の向こう、反対車線からドリフトして強引なUターンをした車が店のドアにぶつかる寸前で停まる。
 運転席のドアが開き、そこからぬっと出てきた男はドアを蹴破るように店に入ってくる。
「ジョニィ!」
 ジャイロが怒鳴り、客の頭越しにぼくを睨む。
「来い!」
 ぼくの中では嬉しさと悔しさがないまぜになり、総合的には反抗心の方が勝つ。
「来いじゃないよ、何命令してるのさ。ぼくだって仕事中なんだ」
「誰が仕事中だって?」
 店主が後ろからぼくの背中を押し、カウンターから追い出す。
「仕事中にぼさっとしてるようなヤツぁクビにしてやるぜ!」
「だとよ」
 にやりと笑ったジャイロがぼくの腕を掴み、表に引き摺り出す。ぼくは、ちょ、とか、待って、とか、ジャイロ、とか色々言いかけたけどどれも上手く声に出ず、結局、う、とか、あ、とか唸っただけで力任せに引き摺られていってしまう。助手席に詰め込まれる直前、開いたドアから店内を見るとカウンター席のマウンテン・ティムがヒュウッと口笛を鳴らした。




2013.2.20