サンディエゴに無慈悲な偏西風は止む







 熱い風が吹く。それを全身で受けとめ胸いっぱいに吸い込むと、自分の故郷がケンタッキーだということも忘れそうになる。ずっと昔からここにいたみたいだ。このビーチで、彼の背中を見つめていたみたいだ。
 ジャイロは今日仕事だっただろうか。カレンダーにはシフトがメモしてあったのにぼくはそれを見ていない。今朝も話していない。朝食のテーブルを挟んでしたのは口喧嘩だけだった。でも遠目に見えるその姿は白衣っぽくはなかった。
 白いビーチと太平洋を見下ろす芝生の公園。白い道が海岸線に沿って真っ直ぐ伸びている。ジャイロはそこを車椅子を押しながら歩いている。ぼくは不思議なことに恥ずかしくなった。太陽のせいじゃない、耳が真っ赤になっているのが分かった。内側から沸いた熱で首筋から耳の後ろにかけてが熱かった。ぼくはジャイロの押す車椅子に乗っているのが自分だと…何故か自分だと思ったのだ。ぼくはここにいる、それなのに。
 もちろんすぐに現実に気づいて、照れたのが馬鹿らしくなりまた恥ずかしくなる。ぼくは今朝ジャイロと喧嘩したばかりなのに、後ろ姿を見た瞬間には自惚れている。
 でも、じゃあ、誰だ?ジャイロは誰を車椅子に乗せて押しているんだ?
 ぼくは近づけない。道から外れた芝生の上、じっと佇んだまま少しずつ彼の背中が遠ざかるのを見送る。
 ジャイロは時々身をかがめる。何かを喋っているのだ。何の話だろう。相手は誰なんだ?彼の知り合いに車椅子の人間なんか知らない…いや、きっとわんさといるのだろう。彼が診た患者、治した患者、山のように。患者をつれてビーチを散歩するのも医者の仕事なんだろうか。戦場のように忙しいERの?
 背中はそう遠ざかる前に立ち止まる。車椅子がビーチの方、太平洋を正面に向けられる。そこでぼくにも車椅子に乗っているのが女性だと分かる。長い黒髪の…顔までははっきり見えない。でもおとなしそうな雰囲気で、短く返事をする彼女にジャイロは何かを話しかけている。海を指さし、躊躇うようにその手を下ろす。
 するとジャイロは彼女の膝の前に跪き、頭を垂れた。
 突然のことだった。でも静かでとても自然な仕草だった。ぼくにも遅れて驚きがやって来る。ジャイロのその姿はまるで泣いているようにも見えた。赦しを乞うているようにも。悔しげで悲しげで、それらが彼に膝を折らせ首を垂れさせている。
 女性の手が弱々しく彷徨い、ジャイロの肩に触れる。ジャイロは一瞬顔を上げようとし、また深く頭を垂れた。その姿は祈っているようにも見えた。そう表現するのがぴったりだった。まるで泣いているかのような悲しみを露わにするジャイロ。何かに祈るようなジャイロ。そんな彼の姿をぼくは見たことがない。
 メキシコから吹きつける風が女性の黒髪とジャイロの長い髪をなびかせる。ぼくはそれに目をこらしたまま後ろ向きに二歩下がり、それから踵を返した。とにかくすぐ来たバスに乗った。行き先は見なかった。バスの中は冷房が効いていて、汗に濡れた首筋にひやりとした風が触れた。ぼくは一瞬震えて首筋に手をやった。汗に濡れた表面は冷たいのに、肌は熱い。耳が真っ赤だ。ぼくはバスの一番後ろの席で深々と項垂れた。

 尻のポケットに突っ込んだままのペーパーバックを改めて開くと本当にひどい話ばかりでぼくはいつの間にか口元を緩めて笑っている。まるで自分そっくりのどうしようもなさだ、と思うと笑えてしょうがない。ぼくの人生もこんな風に下らなく書かれて然るべきなんじゃないか?
 アパートの部屋に一人戻り、キッチンの床に座り込んでブコウスキーを読む。足下には冷えていたビール。一本はもう空っぽで、二本目は半分飲んだところで放っておいたらぬるくなった。空調を入れていないから、部屋は暑い。
 本も半分読んだところで閉じた。しおりの代わりに合鍵を挟んだ。合鍵は、この部屋に居着いて一週間か二週間か、ジャイロの帰りが遅くて夜中過ぎまでぼくがドアの前に座り込んで待っていたことがあって、翌朝一番彼が作ってくれた。うん、作ってくれたんだ。鉄を削って。どういう方法かは見せてくれなかったけど、本物そっくりの鍵だった。
 そういうことがあるとさあ、自分が特別な気がするじゃないか。有名人だし、結構モテるのに女の子を絶対に部屋に入れないし、プライヴェートを見せようとしない。そういう男と一緒に暮らしている。合鍵だって持ってる。隣でギターを弾きながらコーラスをやる。…ま、最後のはぼく以外の人間に務まりそうはないけど。
 友達以上、相棒って呼んでもよさそうな関係。カップルじゃないけど同じベッドで眠る。朝食は一緒。夕飯もできるだけ一緒。血の繋がりなんかこれっぽっちもない、家族じゃない、けど誰よりも一緒にいる。近い場所にいる。それがぼくにとってのジャイロだった。でもジャイロにとっては?
 急に気づいたんだ。ぼくはぼくを特別扱いしていただけで、本当のぼくの人生はペーパーバックに書かれるくらいありふれた人生なんだ。かつての栄光も、襲った不幸も、腰に宿っている奇跡も、ありふれている。ジャイロにとってぼくは通り過ぎる一ページにすぎなくて、本当に選ばれるべき人生は別にあるのかもしれない。
 この前教えてくれなかった一番の口説き文句。本当に相手が欲しくて欲しくてたまらなくて絶対大事にする離さないだからこの胸の中に抱きしめさせてくれって伝えるための秘伝中の秘伝。そこには真摯さが必要だ。相手と真正面から向き合い、敬意と愛情を捧げなければいけない。それはきっとあんな姿なんだろう。祈るように跪き、頭を垂れる。
 ぼくは戸棚に隠していたリヴォルヴァーを手の中に抱く。頭の中でジャイロを殺すところを想像する。でもちっとも具体的なイメージが浮かばない。ジャイロがドアを開けて入ってくる。ぼくは撃鉄を起こし、リヴォルヴァーを彼に向ける。
 引き金が引けない。
 ぼくは彼の死など見たくない。――何故か、もう見たくない、と思う。まるで昔一度見ているかのような言い方だ――。想像は断片的で、流れる血、倒れ伏す彼の流れる髪、それらが砕けたガラスのように頭の中でばらばらと降る。
 やっぱりイヤだった。ぼくはジャイロを撃てない。銃を片手に立ち上がる。足下がふらついて二本目のビールを倒した。ビンの口からぬるい液体が床に流れ出す。でもぼくはそれを振り返らない。流れ出したビールはペーパーバックも濡らすけど、それも見ない。
 テーブルの上には広げられたままの新聞。ディエゴ。今朝の喧嘩もこいつのせいだ。ヤツが相手なら、ぼくは躊躇わず殺せる。迷うことなく引き金を引くことができる。胸を撃って、頭を撃って、弾倉の残りを全部腹にぶち込むだろう。それは簡単に想像ができた。同時に、できる、と思った。リンゴォが保証したとおりだ。ぼくは自分の指先で狙うみたいに、外すことなくヤツを撃つことができる。
 右手に小さな星形の痣が幾つも浮かび上がる。それは暗くなり始めた部屋の中でぼんやり光り、ぼくはいつの間にかサンディエゴに夜が来たことを知る。ジャイロはまだ帰ってこない。
 ベッドに転がり、両手で銃を構える。
 どうする?撃つか?
 何を?
 誰を?

 目を開けたまま眠るかのように考え続けていた。ぼくがジャイロを殺そうとする時に言う科白を。これでバンドは解散だ。君のコーヒー美味しかったよ。ここで君が死ぬなんて最高のギャグだね。ありがとう。ぼくをもう一度馬に乗せてくれた。ぼくに勇気をくれた。希望をくれた。ありがとう。言い足りないよ。ありがとう。ありがとう。ありがとう。さようなら。愛してるよ、ジャイロ。
「愛してたよ」
 の方がいいのかな。
「過去形」
 愛してるよ。たった今も君を愛している。
「現在進行形」
 引き金を引く。
 真っ暗な寝室にがちんと意外と大きな音が響いた。弾倉は空っぽ…じゃない。一発だけ入ってる。ぼくは天井に向けていた銃口を下ろし、両手を頭の上に投げ出した。なんかどれも格好悪い。
 何度目だろう。ぼくはベッドに横になったままジャイロの帰りを待つ。帰ってきてほしい…以前は会いたいと思っていた。今はどうかな。さようならなんか言いたくないけど、この苦しみに終止符を打ちたい。きつい、もうしんどいんだ。
 夕飯を食べていない空腹も忘れるころジャイロが帰ってくる。黙って開くドア。ぼくを呼ぶ声はない。でも足は真っ直ぐこっちに近づいてくる。
 ドアが開いた。背後から電気の光が射してジャイロの姿はシルエットになっている。その影はベッドに投げ出されたぼくの足下まで伸び、一歩一歩と侵蝕する。
 ジャイロはベッドの上に膝をつき、ぼくの上に覆い被さった。手がぼくの右手が離さなかったリヴォルヴァーを取り上げた。
「ジャイロ…」
 ぼくの口から出た声はみっともないほど弱々しく揺れていた。そうだ、ジャイロがぼくを殺すっていう方法もあるんだ。ジャイロの目の前でぼくが死ぬ。ジャイロの撃った銃弾に貫かれて。
 急に眩しい光が射し込んで順応できないぼくの瞳に、ぼんやりと彼の顔が映った。ぼくを見る目。閉じられ、引き結ばれた口元。リヴォルヴァーを掴んだまま、ジャイロがぼくの手を押さえつける。そこにはまだ星型の痣が浮かんでいる。
 もう片手が、柔らかな掌がぼくの目の上を覆った。ジョニィ、と囁かれたような気がした。その声も小さく、遠く、掠れていて、本当に聞こえたのかぼくの妄想か分からない。
「ジョニィ?」
 すぐそばで聞こえる。頬の上、耳のすぐ側。
「返事しないなら、それでもいいぜ」
 開いた掌の上をリヴォルヴァーが滑る。床の上に重たいものが落ちる硬い音がする。それからジャイロの手がぼくを掴む。
 ジャイロはぼくの身体を抱いたままじっとしている。呼吸は落ち着いているが寝息には遠い。ぼくは瞼を覆う掌が退けられたものの、今度はその厚い胸に顔を押しつけられて何も見えない。永遠に終わらない夜が来たみたいだ。
「今、何時?」
 彼の胸に顔を押しつけたままぼくは尋ねる。
「もうすぐ、一時」
 ぼくの手首に触れ、ぼくの腕時計を見てジャイロが答える。
 じゃあ、全部昨日のことになったって訳だ。
「ぼく、寝るよ」
 瞼を閉じ、呟いた。ジャイロは溜息のような返事をしてぼくの頭の下に自分の腕を敷いた。

 ジャイロがいつの間に眠り、いつの間に起きたのかぼくは知らない。朝になったらもうジャイロはいなかった。外は雲が出ていて、風もなく穏やかだった。
 空腹を抱えてキッチンに向かうと、床の上の空きビンも、こぼれたビールも、濡れた本もきれいさっぱり消えていた。ゴミ箱に突っ込んであった。合鍵だけがテーブルの上にあった。
 ぼくは久しぶりに病院のジャイロに電話をかけた。
『おはよう。起きたのか?』
「ジャイロ、昨日はごめん」
『シャワー浴びろよ、汗くさかったぜ』
 シャワーを浴びたぼくは裸のまま寝室に向かって、もう一度眠る。無断でバイトを休んだので、翌日怒られる。




2013.2.19