サンディエゴに無慈悲な偏西風は吹く
サンディエゴはアメリカで一番気候のいい街、と言うけど暑い時は暑い。九月だというのにすごい熱気だ。ぎらぎらと輝く太陽の日射しは上空のオゾン層は一体どれだけ紫外線や人体に有害な光線を吸い取って濾してくれたんだろうちゃんと仕事してるんだろうかと疑う程強く、店に来る客来る客、皆鼻の頭を赤くしている。その全員がアイスコーヒーにがっつくこと、砂漠で四日間水を飲まなかった馬がオアシスに首を突っ込んでるみたいだ。だけどこのコーヒーショップも快適な冷房が効いているとは言い難くて、特にカウンターで注文されるままにパンケーキを焼いたりしていると汗が浮き出て首筋や脇腹を流れ落ちる。そのうちどこかでサイレンが鳴った。あまりの暑さに誰か発狂したのかもしれない。 そろそろ下院選の話が具体的に見えてきて、ディエゴはこういう大法螺を吹く男じゃないけど、やっぱり本当に立候補するらしい。選挙戦に向けてチームが組まれていて中身は大学教授からネイティブアメリカンまで様々だ。 ぼくがあんまりディエゴディエゴと言うのでジャイロは大体聞き流しているけど、何回かに一回はもうぼくには関係ないことだと呆れながら怒る。 「議員に立候補するってこたぁ世のため人のためになろうとしてるんだろ」 「本気で言ってる?そう見える?ヤツが目指してるのは悪の帝王さ」 今朝も新聞を見ながら口喧嘩をして家を出た。 本当はぼくもどうしようもないとは思ってる。とにかくぼくはディエゴが嫌いなだけで、やることなすことぼくの視界に入れば嫌悪してしまう。そもそも崇高な理念に基づいてヤツが何かをしているところなんか見たことないから、口にする政策も毎週のように欠かさない慰問も信じられないけど、傍からの評判はぼくのそれとは正反対だ。そんな若くて人気でおまけに顔もいい男が悪徳政治家になろうとしているから阻止しなければ!って?コーヒーショップのバイトでしかないぼくの言葉に誰が耳を傾けるだろう。ぼくの科白だって正義感から生まれたんじゃない。 だからジャイロの「構うな」っていう助言は正しいと思うんだけど、素直に頷きたくなくて、ぼくはリンゴォの店に行く。 リンゴォはいつも新聞を読んでいる。隅から隅まで読んでいる。政治に詳しいのかなと思って尋ねたら、彼はこう答えた。 「それが、重要なことかな」 「え、政治に興味ないの?意外…」 「ベーコンが焼けているのは誰だって知っている」 民衆はいつだって素敵なリーダーを求めている。立派な男が自分たちを明るい未来へ連れて行ってくれないかと。そこに誰かが立ったら立ったで文句が出てきて引き摺り下ろし、その繰り返しだ。討議される問題がゼロになった試しはない。問題は次から次へと生まれて、解決する数はそれに比べてずっと少ない。…そんなの当たり前のことなのだ。 「その言い方カッコイイね」 「チャールズ・ブコウスキー」 リンゴォは新聞を畳むと、ショーケースの下からボロボロのペーパーバックを取り出した。ぱらぱらとページを捲る。すごいや、下品な言葉のオンパレードだ。書かれているのは酔っ払いのことや、碌でもない男、酒、娼婦、ファックのこと。ぼくはしばらく黙ってそれを読む。その間にリンゴォはぼくが買ったのと同じタイプのリヴォルヴァーをショーケースから取り出した。 「訓練は?」 「行ってない」 「一度も?」 「ジャイロに内緒で一回か二回。最近はずっと行ってない。買った時は指先で誰かを狙うみたいに当てられるような気がしたけど」 「これを買った時の君ならできた」 確信をもって淡々とリンゴォは言う。ぼくは右手をかざして壁にかけられた古ぼけた写真を狙う。果樹園の中にぽつんと建つ一軒家。何の変哲もない家族写真。そこには幼いリンゴォとリンゴォの死んだ母親、姉たちが写っている。 「あんたは過去を捨てたの?」 リンゴォの眼差しは相変わらず穏やかだ。 「あんたも感傷は危険だとか言うタイプ?」 「…ジャイロのことか」 「ジャイロは関係ないよ」 あんまり話題に上ることはないけど、感傷云々はジャイロの父親の口癖だったらしい。ジャイロ本人は見て分かるとおりそんな冷徹なタイプじゃない。 「あんた、言ったね。ぼくが初めて店に来た時。その銃を買った時。ようこそ『男の世界』へ、って。リンゴォ、あんたゲイなのか?」 するとリンゴォは口元からフッと小さな息を漏らした。笑ったのだ。ぼくはリンゴォが笑うところを初めて見た。 「男に襲われたことはある」 ぼくは一瞬黙り込む。ぼくをレイプした主治医のことを思い出す。口の中に新聞を突っ込まれた。 「そいつ、どうしたんだ」 「殺した」 ベーコンが焼けた、と同じくらい淡々と、当たり前のことのようにリンゴォは言った。 「間には銃が一つあった。オレと男は対等だった。それは公正な闘いだった」 リンゴォはマジで言っている。でも恐くない。リンゴォは確かに人を殺したんだ。ぼくが確信していたとおりだ。でも予想できていたからこわくないんじゃない。ぼくは…今リンゴォのことが納得できたんだ。 リヴォルヴァーが差し出される。ぼくがキッチンの戸棚の隅に隠しているのと同じ銃。マテバ6ウニカ。 「…ぼくは撃てない」 ぼくは右手を下げてもう片手で包み込む。 「撃てなかった」 二年間、ぼくの脚は動かず、ぼくは虫以下、ゴミ同然だった。 本を置いて店を出ようとしたけど、気になってもう一度手に取る。 「あんたが読むのがこういう本っていうのも意外だな」 「何がオレに似合いかな?」 「なんか難しそうなやつ」 リンゴォはショーケースに銃を戻し、言った。 「オレが求めるのは公正なる果たし合いだ。漆黒の意志を持ちオレを殺しにかかってくれる者ならば…相手が聖人であろうが酔いどれであろうが関係なくその場は神聖だ」 ぼくはぼろぼろの表紙を見る。飲んだくれ、碌でなし、だらしない男、最低な男、本当にどうしようもない男がたくさん書かれている。それは普通に顔を上げてもリンゴォやぼくの目のつくところにいそうな男たちだ。でも、リンゴォが彼らに向ける視線は違うのか。脚の動かなかった…クズみたいなぼくの中にも、彼はそういうものを見出し得るのだろうか。 ドアベルが鳴った。新しい客が入ってきた。ぼくはすれ違いに店を出た。日はまだ高くて剥き出しの腕が焼かれる。手の中にはさっきの本。 その時、ちょうど目の前をバスが通り過ぎた。ミッション・ベイ・パーク行き。テーマパークも隣接した海浜公園はいつも観光客でごった返しているけど、今日は週日のせいかこの暑さのせいか、バスの人が少ない気がする。さっきまでいたリンゴォの店が、まるで違う世界みたいな密度の空気だったから、ぼくは海を見ながら風に吹かれたくなる。それで、次にやって来たバスに乗る。 誰もが言う。映画でも、ドラマでも。交通事故に遭った人、彼女のふられた人、地下鉄に間に合わず遅刻した人。もしも、あの時、ああしていなければ、きっとこうならなかったはずだ。ぼくもだ。十七歳のあの時、もしも彼女と一緒にシアターに行かなかったら違う人生を歩んでいただろう。 たくさんのもしも。 もしもこの時、ぼくがバスに乗らなかったら。 リンゴォの店に行かなかったら。 コーヒーショップの冷房がよく効いていて、もうちょっと店内にいたら。 朝から下らない口喧嘩をしなかったら。 もっと些細なことも含めて、ぼくには沢山の違う選択肢があったはずだ。でもぼくはそのバスに乗ってミッション・ベイ・パークに行った。本当に今となってはどうでもいい理由。海を眺めながら風にあたるために。 叶わなかったもしも、もしも、が重なって、ぼくはミッション・ベイ・パークでジャイロの姿を見かける。腕の時計は午後四時で、一日が終わるにはあまりにも早い。今日がまだまだ八時間もある。何が起こるかは…分からない。いつかジャイロが言った、ネットに弾かれたボールみたいに。 ジャイロは車椅子を押している。ぼくは動かない。メキシコから吹く偏西風が帽子からはみ出た髪をなぶり、首筋をまた汗が滑り落ちた。
2013.2.18
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