秘密はサンディエゴの喧噪と

夏の宵に隠して







 少し蒸し暑い寝覚めだった。身体がだるい。もう少し眠っていたいと思う。気持ちのいい夢を見ていた気もした。何か満足感を感じるような夢。その時、気づく。太腿に何か当たってる。硬くてしっかりしてるそれ。ぼく以外の体温。
 あー、ぼくのじゃないんだよなあ。そう思いながら瞼を開く。ジャイロの顔が近い。いつの間にこんなに近づいて眠っていたんだろう。このベッドは相当広いのに。ぼくが居候する前は一人暮らしだったはずだけど、絶対不必要なくらいに広いベッド。そこにぼくらは寄り添うように眠っていて。寝息はぼくの頬をくすぐるくらいで、そしてジャイロの自己主張はぼくの太腿にしっかり当たっている。
 この健全な男の生理現象はいまだぼくに復活しない機能だ。ネットでも調べたけど、もし健康な肉体なら夜寝ている間に今のジャイロみたいな状態になってるはず。そういうのを調べる方法とかも載ってたけど実践したことはない。これで本当にダメだったら男として立ち直れない。リヴォルヴァーは自分のこめかみに向けなきゃいけなくなる。
 いいなあ、と心の中で呟いてぼくは太腿をジャイロの方に擦り寄せる。するとジャイロが小さく呻いて、目を瞑ったまま眠たげな声を漏らした。
「ジョニィ…当たってる」
「君が当ててるんだよ」
 片目が開いてぼくを確認する。ぼくは彼の脚の間に太腿を割り込ませる。
「…おめーが当たりに来てんだろ」
 ジャイロは腕でぼくを押しやると寝返りを打った。ぼくはしばらく向けられた背中を眺めていた。枕元の時計はいつものぼくよりも早起きな時間。ジャイロももう少し眠るだろう。
 ぼくはベッドから起き出して壁を伝うようにキッチンへ向かった。脚が萎えてるからじゃない。太腿に感じた感触を思い出すたびにくすぐったくって、何か掴まるものがほしかったのだ。
 窓はもう明るい。ビルの谷間から日が昇れば本格的な朝になる。ぼくは自分の分のハーブティーを淹れて、テーブルでぼんやりする。これから一日が始まると思うと少し冷静になってきて、さっきのはちょっとゲイっぽかったかな、と反省もする。
 ぼくとジャイロはゲイのカップルじゃないけど、周囲の何割かはそういう誤解をしていた。今ではぼくらが一緒にいるのも普通の光景になったって言うか、週末ごとのストリートライブのせいで、ああ、あの二人ね…、みたいな感じになったけど、ぼくは密かにジャイロのことが好きで、そういうのって態度でバレてるんだろうか。先日もマジェント・マジェントがゲイパレードに参加しないかと誘ってきた。
 バレたくないとかこわいとか、そういう感情じゃないって言えばそうだし、そうだと言えばそうだ。別にジャイロのことを好きなのは恥ずべきことじゃない。ぼくはぼくを導いてくれたこの男に感謝しているし、尊敬もしている。同時に、さっきみたいなジャイロに当てられてもイヤじゃないし、割と触ってみたい好奇心もあって、こういう感情は流石に引かれるんじゃないか…って心配はある。
 まだどこも静かな早朝のアパート。少し明るくなってきたキッチン。いつの間にかぼくのものになったカップ。星のマークつき。テーブルに椅子は三脚あって、一脚はクマちゃん用。窓から見下ろせば、すっかり見慣れた通り。うっすらと映る自分の顔は仏頂面だ。ドアの向こうには浅い眠りを貪るジャイロ。
 こういうの、失いたくないだろ。
 ジャイロの分のハーブティーも淹れていると寝室のドアが開いて、あくびをしながらジャイロが出てくる。
「目ぇ覚めた…」
「おはよう」
 ジャイロは間延びした声でおはようを返し、そのままバスルームに向かう。ごゆっくり、って声をかけるのは友達として普通かな。でもぼくは口は災いの元って諺を思い出し黙ってる。単にシャワーなだけかもしれない。今朝は何だか蒸し暑かったし。
 窓を開けると爽やかな風が吹き込む。涼しくて、薄着ではちょっと肌寒いくらいだ。
 朝食を摂る頃にはお互いしっかり目が覚めていて、いつもどおりの会話。天気を気にして、朝食の味に文句をつけて、身支度しながら互いのシフトを確認して。
「ぼく、今日は遅いかも」
「晩飯は?」
「分からないから先に食べててくれ」
 靴紐をしっかり結び、帽子を被る。そのまま玄関に向かおうとすると、ジョニィ、と呼んだジャイロが掛け釘から合鍵を取り上げて手に握らせてくれた。
「忘れんなよ」
「子ども扱いするなって」
 ぼくは手の中に掴んだそれをポケットに突っ込む。後ろでジャイロは独り言のように言う。
「子どもじゃねーから心配なんだ」
 よく意味が分からなかったので聞こえなかったふりをする。

 バイト休憩時間にニューススタンドで買った新聞を読んでいると、またディエゴのことが記事になっている。ホスピスへの慰問とそれに関する記事はもう恒例になっていて、ぼくはいよいよディエゴのことを疑うが、その日合点がいく。
 写真の隅には病院に併設された教会の修道女、ホット・パンツが写っている。
 バイトが引けたぼくをマジェントが待ってるけどシカトして教会に向かう。するとマジェントはついてきて隣でずっと喋ってる。だいたいマジェントの話っていうのは思い出話で、彼がギャングの下っ端だった時に自分を検挙した男、ウェカピポのことを好きだったこともあるっていう話だった。
「でもよォー、今や時代はDioだよな。オレ、出会った時から運命の糸で結ばれてんのを感じるんだ」
「それ、きっと不幸になるぜ」
「何言ってるんだ、ジョニィ」
「ウェカピポの方がずっと趣味がよかったと思うね」
「おまえはちっとも分かっちゃいねえッ!」
 マジェントはぷりぷりしながらぼくから離れていく。ぼくは正直ホッとしながら夕暮れの教会に入った。
 ホット・パンツはいた。マリア様の前に跪いて祈っていた。ぼくは一番後ろの席に腰掛けて彼女の祈りが終わるのを待つ。
 でも彼女の祈りは長くてぼくは待ちくたびれる。その内日が落ちたらしくて教会の中は急に暗くなる。ひょっと忍び寄った涼しい風にくしゃみをするとホット・パンツが振り向いた。
「誰?」
「ごめん。ぼく」
「ジョニィ…」
 ホット・パンツは立ち上がると蝋燭一つ一つに灯明をともし
「何か用?」
 と少し顔を逸らしながら言った。
 遠回りをするのは止めにする。
「ディエゴとデキてるのか?」
 ホット・パンツは振り向き微妙な顔をした。不愉快だ…という訳でもない。照れてもいない。自分でも答えあぐねて困っている、そんな顔だ。
「ディエゴがここに通ってるのは君が目当てなんだろ?」
「さあ…」
 ホット・パンツは一番前の席につきぼくに背を向けてしまった。ぼくは彼女のもとまで近づくと、真ん中の通路を挟んで反対側の席に座った。
「ぼくはヤツをお薦めしない」
「おまえの意見は聞いていない」
「あの男は…」
「調べたよ。ヴァチカンに頼んでわたしは全て調べた。ディエゴ・ブランドーの出自も経歴も。碌でもない父親と可哀想な母親の間に産まれたことも、黒い噂も、そのいくつが真実かも…。おまえよりも詳しく知っている」
「………」
 溜息が聞こえた。ホット・パンツの溜息だ。いつもぼくに説教をする彼女が、今日は気弱に見える。すると不思議なもので、いつもは修道女の服をまとっていても西部劇に出演しておかしくない雰囲気の彼女の急に女性的な側面が強調されて、唇の赤みや伏せた睫毛の影が気にかかる。
「君も…誰かを恋したりとかするのか?」
 ホット・パンツは肩を抱き、ぼくを見た。
「ジョニィ」
 説教するいつもの声じゃない。怒ってはいない。
「目の前に熊殺しが現れたら、あなたはどうする?」
 一瞬、耳を疑ったがホット・パンツは確かに言った。熊殺しと言った。うん、聞こえている。目の前に熊殺しが現れたらどうするかって?文脈の繋がりが見えないんだけど…。いや繋げようと思えば繋げられて、つまりホット・パンツの前に現れたディエゴは熊殺しで、ホット・パンツはディエゴが熊殺しだから好きになったということなのか?
 ぼくが黙っているとホット・パンツは服のボタンを上から二つだけ外して肩をはだけて見せた。ぼくは思わず唾を飲む。そりゃ蝋燭の明かりに照らされた裸の肩にドキッとしたのもあるけど、それだけじゃない。ホット・パンツの肩には子どもの手形がくっきりと残っている。
「弟よ」
 ホット・パンツはそれまで神様にしか告白したことがないという話をぼくに聞かせた。何故、神に仕える身となったのか。修道女になってまで救って欲しかった理由。
 熊がホット・パンツの幼い弟を襲ったという話は、ぼくの目にまるで見てきたような光景を浮かべさせる。いや、これはぼくが見た光景だ。ブラックローズ号に乗ったニコラスの姿。白い鼠。ダニー。
 ぼくはホット・パンツに近づくが、その額にキスをすることはできない。ぼくもまだ赦されていない。ぼくはまだ穢れたままだ。
「おやすみ」
 一言だけ囁いて教会を出た。
 暗くなった街を歩きながら考える。ディエゴはホット・パンツに何と言って口説いたのだろう。この世の熊という熊を自分が殺してやるとでも?
 ちなみにディエゴが熊殺しだというのは噂ではなく本物の武勇伝で、ディエゴの後援者である大学教授のフェルディナンド博士が共に連れ立ったロッキー山脈でディエゴが素手で熊を殺したという証言をする。ぼくは、結局待っててくれたジャイロと遅い晩ご飯を食べながらテレビでそれを観る。
 素手。
 素手って。

 ぼくがテレビを観ている間にジャイロが皿を片付ける。ぼくはその背中に尋ねる。
「君の一番の口説き文句って?」
「あぁ?そりゃ秘伝中の秘伝だからな。簡単には教えられないぜ」
「ケチ」
「そーゆーおまえはどうなんだよジョニィ」
「………」
 口説く。自分から欲しがる。手に入れたい離したくないっていうことを相手に伝える、その言葉。
 黙ってジャイロの背中を見ていると、振り返った彼がなんつー顔してんのよジョニィちゃん、と笑う。
「え?」
「何で泣きそうな訳?」
 ぼくはテレビも点けっぱなしにしたままバスルームに向かう。確かに鏡の中の自分は泣きそうな顔をしている。そのままシャワーを浴びた。顔を生温い湯が流れ落ちるけど、涙じゃない。まだ泣くようなことなんて何もない。
 バスルームから出ると、洗濯をしようとしているジャイロと鉢合わせをする。ぼくは素っ裸のままその脇を黙って通り過ぎる。
「ジョニィ」
 呼ばれて振り向くと、きらりと光るものを投げられた。
 ジャイロがぼくの服のポケットから取り出したもの。アパートの合鍵。
「なくすなよ」
 真面目な顔で言った後、すぐに笑う。
「子どもじゃあるまいし」
 ぼくは言い返して、それを壁の定位置に掛けた。




2013.2.17