マイ・スウィート・ホーム

イン・サンディエゴ







 春が来ていい匂いの風が吹く。ジャイロがキッチンの小さな窓を開け放している。そこから吹き込んでくる排気ガスまじりの風とコーヒーの香りだ。でも空気そのものがいかにも春という感じ。ぼくらが馬で駆ける野にも緑が芽吹く。そういう匂い。
「ジョニィ?」
 コーヒーを運んできたジャイロが指先でぼくの眉間をぐりぐりと押した。
「新手の変顔か?」
「君じゃあるまいし」
 ぼくはコーヒーを飲みながらテーブルの上の新聞に目を遣る。今日も三面記事に写真入りでディエゴ・ブランドーのことが載っている。引退した競馬界の貴公子、愛馬をつれて病院を慰問。ジャイロが勤めてる病院の、併設された教会の裏手。騒がしいサンディエゴの街のど真ん中に作られた静かな中庭。ホスピス。ジャイロに眉間を押されたまま、ぼくは皺を深くする。正直、ディエゴが本心からこんな慈善活動をやっているとは思えない。あいつは馬具に細工するとか走行妨害をするとかそういう手を使うだけじゃなくて、地位を手に入れるためならばなんだって利用する男だ。財産目当てで八十過ぎのおばあさんと結婚したのなんか有名な話で…、だからこの慰問も何か裏があるとしか思えない。
「そんなにディエゴが嫌いかよ」
 ジャイロは呆れて言う。
「もうお前さんとは関係ないだろうが」
「そうかな。ぼくらがクラブに行くたびにあいつと鉢合わせするのも偶然だと思う?」
「偶然かもしれないだろ。神のみぞ知る、だ。それにこいつそんな暇なヤツかね」
「ヒマなんじゃないの。立候補するまでは無職なんだからさ」
 名が売れていて顔もいい、女にもモテるし、上っ面の評判だけは上々のディエゴだ。そのままセレブ暮らしができそうなもんだけど、ヤツの野望はそんなものでは終わらない。一月のサンディエゴにやって来たヤツは、下院議員に立候補すると言った。けど、もっと何かを企んでいる。ぼくにはそう感じられる。
「不必要なことを心配しすぎだと思うぜ。オレもディエゴは好きでもないが、執着するほどじゃない」
 言う通り、ジャイロはクラブでディエゴと顔を合わせても平気で、馬を駆っている最中にあいつが近づいてこようがお構いなしだ。まるで見えてないみたいに気持ちよくヴァルキリーと走っている。そんな光景を見ているぼくの方がハラハラする。
「ぼくは君のようには思えない。ぼくにはヤツと因縁がある」
「因縁ねえ」
 ジャイロがぼくの耳のそばで手をひらひらと振った。
「因縁ってどれだ」
「どれって?」
「身一つで故郷を飛び出してきたおまえさんのどこにそんなもんが絡まってるのか」
 ぼくの跳ねた髪を抓んでジャイロは笑う。
「茶化すなよ。そういうんじゃない」
 新聞をぐしゃぐしゃに握り締めると、本物の憎悪が心の奥から湧いてくる。ディエゴに対する因縁だけじゃない。この新聞を握り締める音が嫌いだ。ぐしゃぐしゃと耳に触る。口の中にこれを突っ込まれた記憶が蘇る。自分でしてるのに…。
 ジャイロはぼくの手から新聞を取り上げて皺を伸ばし、オレの新聞だぜ、と言った。
 その何気ない言葉にカチンときた。
 確かにぼくの身分はただの居候だ。でもジャイロとは馬を愛する仲間で、バンドを組んだ相棒で、何より友達で…。
「悪かったよ」
 ぼくは音を立ててコーヒーを置き――というか叩きつけ――そのまま乱暴に立ち上がってアパートを出た。ジャイロは追ってこなかった。その声さえも。ドアがバタンと閉じて、それっきりだった。通りに出たぼくは一度だけアパートを見上げたけど、窓にジャイロの姿を見とめることはできなかった。
 追い出されたんじゃない。勘当されたんじゃない。捨てられたんじゃない。
 ぼくは初めて家出をする。

 せっかく家出をしたのについた先がジャイロの病院とか。情けない。
 でもぼくはうまく言葉にならない愚痴を誰かに聞いてほしくて、大体そういうのを聞いてくれるのがホット・パンツだから自然と足は教会に向いたんだけど、今日はそこにルーシーもいる。ぼくはマリア様を背にした街一番の聖女と本物の修道女から説教される。
「ガキか」
 とホット・パンツは言った。
「齢の話をしてるんじゃない。ジョニィ、経済的自立とかそういう話をしているの」
 とルーシー。
 ルーシーに至ってはぼくより五つも年下でまだティーンエイジなのに、こういうことを言われる。ぼくはいよいよ情けない。
「何か仕事を探したら?バイトじゃなくて、本物の仕事。社会における自分の役割はこれだと言えるような仕事を」
「それができりゃ苦労しないさ…」
「だからこそ苦労してすべきだ。ジョニィ、自分の人生に向き合え。お前は今苦しめられていると思っているようだが、一体何がお前を苦しめているのか、それと正面から対決したことがあるか」
「脚だろ。貧乏だろ。それにディエゴだ。ほら、全部ちゃんと見えてる」
「それらはおまえを殺そうとしているのか?」
「………」
 ホットパンツが指差す。ルーシーが見つめる。ぼくは自分の脚を見下ろす。
「…ディエゴはそうかもね」
「競馬界のスターだった男が今更おまえなんか相手にするものか」
 ひどい言葉だけど冗談交じりらしくて、ホット・パンツはぼくの頭をぐいと拳で小突く。
「ディエゴ・ブランドーのことは置いておくとして、ジョニィはやりたいことはないの?」
 ルーシーがやさしく尋ねる。
 改めて問われると恥ずかしいというか、学校の先生とかカウンセラーを相手にしているようで真面目に考えたくない。でもルーシーは誤魔化しのきかない女の子で、ぼくから目を逸らさなかった。
 何をしたいかって。とにかく毎日食えるだけの金を稼いで、それから馬に乗る。正直これだけで十分だ。まあ、もっと美味しいものが食べたいとかそういう物欲もあるけど。あとは視界からディエゴが消えてくれれば…。
 そうだ、目の前にディエゴがいるのが気に入らない。
 目の前にディエゴのいない景色を見たい。
 視界のどこにも自由しかない景色…。
 その先を言葉にしようとした時、ぼくは目の前の女性二人には言えなくて、脳裏に浮かんだのは品なく笑うジャイロだったりする。慌てて首を振る。
「スロー・ダンサー…」
 ぼくはようやく呟いた。
「レンタルじゃなくて、飼いたい…よな」
「じゃあ、まともな職に就くんだな」
 至極もっともな助言は、そのまま最初に言われた結論に逆戻りだ。
「頑張れ、ジョニィ」
 馬一頭どころかその気になればクラブごと買えてしまう資産の持ち主、ルーシー・スティールは聖女の笑みを浮かべてぼくを励ます。でもその実、負けてんじゃない!って言ってるのが分かって、ぼくはうなずくしかない。どうにもこの二人には勝てない。

 教会を出たぼくはそのままコーヒーショップのバイトに入って、家出したものの、これじゃいつもと変わらないじゃないか、と自分に腹を立てる。昼食時で、店には作業着姿のポーク・パイ・ハット小僧たち常連の他、カウンターにずらりと並んだ警官の中にマウンテン・ティムの姿もあった。
「家出したらしいな」
 早速マウンテン・ティムがバラす。っていうか耳が速い。どこの情報網?警官ってそんなんだとしたらマジこわい。そりゃ悪いことできないよな。(でもそれだけ優秀ならさっさとディエゴを監獄にぶち込んでほしい)
 ぶっはー!とコーヒーをこぼしながら笑ったのはポーク・パイ・ハット小僧で、ぼくを指差す。
「家出!ダーッセェー!ガキかよ、ジョォーニィー・ジオシュッター!」
「コーヒーもまともに飲めないヤツに言われたくないね」
 いつもは馬鹿にされると真っ赤になって怒るポーク・パイ・ハット小僧だが、今日はぼくがよっぽどガキに見えるんだろう。犬の遠吠えでも聞くように、ぼくの科白もまるで効いてない。
「でもジョニィ」
 マウンテン・ティムがぼくを指さす。そこにはホット・パンツがぼくを指さしたような威圧感はなくて、視線が真っ直ぐむけられるような指向性がある。
「家出をしたということは、あんたは家を見つけたということを示しはしないか?」
「家…?」
「帰る家、を」
「ケンタッキーに帰れって言うのか」
 するとマウンテン・ティムは黙って笑い、コーヒーを飲んだ。その顔は何故か寂しそうで、ぼくはどうしてマウンテン・ティムがそういう顔をするのか分からない。
 遅いバイトは閉店までで、次から次にやって来る客は――この店のコーヒーをまずいと言いながら皆立ち寄るから不思議だ――口々にぼくが家出をしたことを話題に出した。閉店間際、最後にやって来たのはルーシー・スティールと、旦那のスティーブン・スティールだ。
 スティール氏は今夜泊まるところはあるのかと心配してくれたけど、ぼくはどうにでもなると笑ってみせた。正直、行くところは決まってない。リンゴォは…ぼくがジャイロの部屋を出て独り立ちしたっていうならともかく、家出だと知ったらホット・パンツ以上に怒って説教しそうだ。大体、家出して誰かに頼るってこと自体しまらない。ポケットの金で一晩泊まれる安ホテルでも、いざとなったら店主にかけあってカウンターの隅っこで寝せてもらってもいい。
 ルーシーはコーヒーを飲んでいる間、黙ってぼくとスティール氏の会話を聞いていたが、最後に、店を出る直前になって振り返った。
「ジョニィ、明日の朝刊を見て」
「どうして」
「見るの、絶対に」
 すると残った客も店主も悟ったような顔でうんうん頷く。ルーシーの言葉はご神託のレベルだ。こわくなる。でも、明日の朝刊、か…。
 その晩、ぼくはカウンターのすみっこに突っ伏して眠る。口の中に新聞を突っ込まれたことを夢に見てうなされる。目覚めたのは夜明けにはあまりに早い時間で、季節は春だけど物凄く寒かった。
 裏口から外に出て、真夜中の街を歩いた。ネオンサインも消え、酔っ払いもいびきをかいて眠っている。寒さで爪先の方から感覚が鈍磨している脚を、ぼくは一歩一歩ゆっくり動かす。歩くうちに熱が生まれて血がしっかり通うのが分かる。もっとしっかり踏みしめる。靴音が眠るサンディエゴに響く。
 歩いて長距離バスのターミナルに向かった。ケンタッキーまで行くバスはあるだろうか。
「家…」
 自分の部屋が思い出せない。ニコラスの部屋なら思い出せる。調度も、キャビネットの中のトロフィーや写真、一つ一つ、全部。
「帰る家って…」
 どこだよ、と呟く。
 コーヒーの香り。広いベッド。傍らの寝息。
 ぼくはバス停に蹲って、考える。石畳の歩道は冷たくて、尻の感覚が麻痺してくる。それでもそこに座って考え続けた。
 朝一番のバスがやって来た。空は淡い紫色に染まっている。ドアを開けた運転手がぼくを見るが、ぼくは立ち上がって手を振る。ドアは閉じてバスは走り出す。猛烈な勢いで吐き出された排気ガスの中、僕はその場に残される。
 街角のニューススタンドには刷り立ての新聞が届けられたところで、並べられる前のそれを一部買った。ポケットの中でくしゃくしゃになった一ドル札を差し出し、おつりは五十セント。ニューススタンドの明かりにきらりと光るニッケル硬貨を指で弾く。
 ベンチに腰掛け夜明けの薄明かりの下、新聞を開く。インクの匂いを胸一杯に吸い込み、ざっと見出しに目を通した。政治のことは大体わからない。もうすぐMLBがシーズン開幕。パドレスの調子は上々。他には?
 また三面記事にディエゴだ。新聞を掴む手に力が入り、またクシャッと嫌な音がする。
 いや待て、この片隅の記事…。
 写真も載っていない。小さな記事。ギャングの抗争で十一つ子のギャングが――十一つ子!?――負傷、重体のままERに運ばれた。他の兄弟の臓器を移植して、たった一人だけが命を取り留めた。
「ジャイロ…?」
 ぼくは新聞に向かって思わず呟く。
 真面目な話をするつもりなんかちっともなかったのに、うっかり深刻な話をしてしまったことがある。すごく珍しいけど、去年一度だけ雪が降った。その時、ワインで乾杯しながらジャイロはネットに弾かれたボールの話をした。
「人間には手の届かない領域がある。どうしても神の手に委ねられた領域がな。でも、ならよお、オレの手に届くことなら何とかしてーと思うだろ…」
 十一人の死にかけたギャングから生き残った臓器を切り取り、移植した。誰を助ける?銃撃戦は激しく全員の身体が穴だらけだった。
 彼が選んだのだろう。選んだはずだ、ジャイロ・ツェペリは。
 ポケットの中でニッケル硬貨が音を立てる。たった五十セント。ぼくが買った新聞。
 家出が二十四時間もたないとか本当に癪だけど、でもぼくはジャイロのアパートの前に立っている。ちょっと疲れた足で階段を上り、ドアの前まで来て合鍵がないことに気づく。
 控え目なノックだった。それなのに足音はすぐに近づいてきた。
「……で?」
 目の前に立ちはだかったジャイロが言う。
「昨日は悪かったよ」
 ぼくはジャイロの胸に新聞を押しつける。
「読んだ」
「何だ?」
「君だろ、十一人のギャングのたった一人を助けたのは」
「ニュースになってんのか」
 ジャイロは変な笑い声を上げながら部屋に戻り、振り返る。
「早く入れよ」
 しばらく玄関に佇んでいたぼくはジャイロがこちらから視線を外さないから、一歩、一歩と部屋に踏み込んでドアを閉めた。
「おかえり」
 ジャイロが言った。
 テーブルの上にはくしゃくしゃなままの昨日の新聞。コーヒーカップ。そこで寝ていたんだろう。脱ぎ散らかされた服。少し寒いのは台所の小さな窓が開いているせいだ。
「…ただいま」
 恥ずかしくて、小さな声で言った。
 出勤までの一時間か二時間、ぼくらはベッドで眠った。あの新聞記事は切り取って壁にピンで留めてある。




2013.2.16