サイバーカウボーイ・フォーリング・ダウン




 島影はやけにくっきり見えるが何重ものICEに囲まれているのが分かる。波が島を丸く囲む外縁に立っているからだ。勿論本物の海じゃないし波じゃない。海に見えるものは膨大な情報の表面。泡立って消える波はハッカー達の虚しい健闘の痕跡だ。
 しかし妙だ。船は大した速度を出して見えないのに、島がどんどん近づく。物理法則に縛られた世界じゃないとしても奇妙な感覚が拭えない。そして甲板からこの様子を眺めていたほぼ全員が気づいた。
「何だぁ、ありゃあ」
 ジャイロが声を上げる。
「島が動いてるぞ」
「いや、動くんですよ」
 城字が説明する。
「ジョースター家は、あの島は電脳海図上の黄金のルートを自由に動きます。何故なら歴代のジョジョが活躍した場所が一ヶ所に留まらないから。世界中の各地にジョジョの痕跡は残り、そのネットワークが僕らの活動の助力になります」
「でも、ありゃあ速すぎるよな」
 仗助が双眼鏡を片手に唾を飲む。
「ええ、速すぎる」
「オレたちを出迎えるのが楽しみすぎるっつー感じでもねーよな」
「ないですね」
 のんきに喋っている間にも。グレートブリテン島はICEを真っ白に光らせこちらに突進してくる。もう島の姿も見えない。白金色の半球がザバザバと波を立てて突っ込んでくるのだ。そろそろ焦った方がいいんじゃないか。
「なあ、船の進行方向は? こっちから避けられないのか?」
 僕が一応尋ねると、城字が艦橋の情報を同時に目の前に出しながら「やってるんですけどぉ」と半泣きになる。
「当然ッスよ」
 仗助がずいっと前に出た。
「スタンド使いは引かれ合う」
「今格好つけてどうするんですか、仗助くん!」
 城字は悲鳴を上げるけど、仗助はニヤリと笑う。
「ヒーローの出撃前ってのは格好つけるもんだろ」
 行くぜ、と今にも走り出しそうに構えた仗助の背後に人型の、だが人ではないビジョンが立ち上がる。スタンドだ。強い眼差し。いかにも戦うための五体。でも所々にハートのモチーフが見られる。
 あーもー分かった!まかせた!と叫んだ城字は船を操作しつつ、グレート・ブリテン島に連絡を取りつつ――でも繋がらない。現役のジョジョがジョースター一族のサーバーに接続出来ない?――、更に幾つもの光の板を目の前に浮かび上がらせる。
「サポート出す?」
 城字が別のコマンドに手を滑らせると、更に二つの人影が仗助を挟んで現れた。でもこっちはスタンドとは違う。人間の姿をしているのはそうなんだけど、平べったい。ちょっと厚みを持った絵のパネルみたいだ。二人とも黒の詰襟。改造されてるけど仗助と同じ制服を着ているっていうことは学生時代の友達?
 長身で三白眼の、いかにも柄の悪そうな男がポケットに手を突っ込んで仗助を覗き込む。
「よぉ仗助、またおれが削り取ってやろうか?」
「バーカ億泰、おめーのザ・ハンドで削り取っても穴は空かねえじゃねえか」
「じゃあぼくの出番かな」
 背の低い男の子が目をくりくりさせて笑った。
「頼むぜ康一」
「なんだおれは出番なしかよ。でも見とくわ」
「エコーズ!」
 コーイチと呼ばれた男の子は小柄で、しかも平べったい絵みたいなのに物凄い気迫で声を上げ迫りくるICEに向かって手を伸ばす。するとガン!ガン!ガン!ガン!ガン!と金属質の振動が鳴り響いて、音がマトリクスの格子に突き刺さる。仗助は気合を一声放つと甲板を蹴って空中に飛び上る。ガン!と最初の音を蹴り、更に飛ぶ。次の音に着地する。ガン!
「ボヨヨーンの方がよく飛んだかなあ」
「いーんじゃねーか?」
 ぼくらが過去のトラウマを抉ってくる光景を呆然と見つめる傍らで学生服の二人はのんびり会話を交わす。城字は流石にぼくの記憶を精査しただけあって何のことか察してくれているけど。
「なあ城字、こんな忙しい時に悪いけどサポートって?」
「僕が答えます、ジョニィ・ジョースターさん」
 コーイチがこちらを振り向く。つられてオクヤスも、おうおう、と言いながらこっちにガンを飛ばす。二人がポーズを変えるたびに平べったい姿はパネルのように回転して新しい表情がこちらに向けられる。
「ジョニィ・ジョースターさんですよね。ぼくらは仗助くんのサポートプログラムだから、あなたのことも知ってるんです。そう、サポートプログラムって? 仗助くんは記憶と自我が、つまりROM構造物と人工知能が組み合わさったこの電脳世界での仗助くんです。何十回も宇宙を繰り返す前の仗助くんが仗助くんの姿と精神のままここにいます。ぼくら? ぼくらは基本的にROM構造物と変わりません。でも仗助くんは生きていた時と同じように動いて、考えて、ここで生きています。ということは仗助くんの中に生きているぼくらの記憶もまた生きている時と同じように振る舞うことができます」
「いけー! 仗助ー!」
「こんな風にね」
「君…コーイチ、君は生きていた時からそんな妙な喋り方をしていたのか?」
「いいえ?」
 コーイチはくるくる回転し、首を振る。
「今、ぼくと億泰くんはぼくらの本来いるサーバからとても離れたポイントにいるから。でも仗助くんが近くにいてくれるから、ぎりぎり会話ができるくらいには動けるんです。それにスタンドも出せる」
 ガン!と最後の音を蹴った仗助がICEの眼前に迫った。並のハッカーならその時点でICEが伸ばす攻性の触手に捕らわれ消し炭になって終わりだ。だけど仗助はそれを撥ね退ける。白金の火花がバチバチと散る。仗助は咆哮を上げ、スタンドでICEの壁を殴り始める。物凄い勢いだ。ぼくのACT4に匹敵する。
「でもさ、あのスタンドのパンチでICEに穴を空けて船を通過させるのはいいとしても、攻性防壁が無力化されたんじゃ他のハッカーも入り放題だろ?」
「ええ。そんじょそこらの馬の骨ならともかく、凄腕のカウボーイから常に狙われてますからね、僕たちジョースター家は。だからこそこの仕事は仗助が適任なんです」
 そうそう、と嬉しそうに平べったい二人が頷く。
「彼のスタンド、クレイジー・ダイヤモンドは壊れたものを直す」
 城字は両手を使い胸の前でハートを使った。
「とっても優しいスタンドなんですよ」
「治しといてぶん殴ったりもするんスけどね」
 オクヤスが言った。
 ICEにヒビが入る。重たい一発一発がICEの表面を震わせ、構造を崩す。城字が船のスピードを上げた。こうなったら穴が開いた瞬間に突っ込むしかない。
「いくぜ城字!」
「こいや!」
 白金の壁が砕け、透明な光が溢れる。それは確かに透明だけど眩しくて目に突き刺さる。強烈な光は外観を削りマトリクスの緑の格子を露わにする。一筋がオクヤスに突き刺さりオクヤスの姿が消えた。また一筋がコーイチの上の横切って、あれ?って顔をしたコーイチの姿を消す。火花の散る高い音に振り向くと、城字の周囲にたくさんの白金の光が散っている。船を制御していた画面がチリリリリ!と音を立てて崩れ去り、それどころか城字の周辺の甲板や空間までも砕けている。城字がぞっとした顔で頭上を見上げた。そこにあるのは薄緑色のラティス。永遠にどこまでも続く格子模様を縫う黄金色の線が透明な光に削られ途切れそうになっている。城字がこちらを見た。でも遺言を言うには急すぎるし多分時間もない。
 その時、透明な光を塗り潰す濡れたように黒い翼がぼくらの視界を遮った。一瞬吹き荒れた風に惑わされ、振り返った時には閉じようとするICEの向こうに飛び去るカーズの姿がちらっと見えただけだった。
「こうなりゃヤケだ!」
 いつの間にか船の舳先に仁王立ちになっている仗助がスタンドを繰り出す。グレート・ブリテン島は何重ものICEに包まれている。もう次のにぶつかってしまう。
「スロー・ダンサー!」
「ヴァルキリー!」
 ぼくらは同時に呼んだ。ボロボロの甲板に現れたぼくらの相棒に仗助は「馬かよ!」と叫ぶが、馬の威力なめるなよ。
 穴だらけの足場だって何のその。二頭の馬はぼくらを乗せ、何度か交差しながら甲板を一周する。足元から力の高まりが感じられる。ぼくの傍らにはタスクが現れる。そしてジャイロの隣には黄金の稲妻をまとってボール・ブレイカーが。ぼくらは互いを見もしないで、しかし完璧なタイミングで白い壁に拳を叩きこむ。
 鐘のような音がICEを挟んで両側に突き抜けた。磨き抜かれた鏡のような壁に真っ直ぐな黒い亀裂が入る。亀裂の奥には整然と並ぶマトリクスの柱が見える。船はその亀裂を通り抜けることができない。バラバラに崩れる。仗助も、ぼくらの身体も浮かび上がる。白金の光に貫かれてスロー・ダンサーとヴァルキリーが姿を消す。同時にタスクとボール・ブレイカーの姿も。仗助のクレイジー・ダイヤモンドが亀裂を塞ごうと伸ばした手だけを残して消える。仗助の悲鳴が連続した記憶の最後だ。

 懐かしい風。草原を渡る爽やかな風。馬たちの駆ける草原がぼくにとって帰る場所だった。どんな時も、どんなに悲しいことがあっても、馬に乗って草原を駆ける時、ぼくは自由だった。ぼくは正真正銘のジョニィ・ジョースターだった。
 瞼を開く。短い草が頬を撫でる。空は薄い水色をしている。イギリスの空だな、とぼくは思った。優しい気配が頬を撫でる。温かい。柔らかい。生き物かな。ネズミだろうか。ダニー。兄さん。今日は馬に乗ってどこへ行こう。ぼくは手を伸ばす。腕が重い。氷の塊みたいだ。吹雪だ。雪の嵐が吹き荒れている。そうか、レースの最中なのか。眠っては駄目だ。見張りはどっちの番だったっけ。嵐が収まるまでじっと待っていなければ。湖はすぐ目の前。だが焦ってはならない。じっと我慢をして、我慢をして、限界のところで走り出すのだ。
「ジャイロ」
 喉をこじ開けて呼ぶ。君は無事なのか。音を操るスタンド使いが。ぼくはもう知っている。黄金長方形の回転。君を助け出して次へ進む。だから沈むな。こんなところで。冷たい川の底へ。
 呻きがぷつぷつと口からこぼれる。息ができない。
「ジョニィさん」
 咄嗟に、理那を思った。ぼくをジョニィさんと柔らかく呼んだのは異国人の理奈だった。大西洋を渡る船の上で。悲しみと孤独と自由を手にした寒い冬の船旅に柔らかなぬくもりを与えてくれた人。
 今度こそ瞼が開いた。色の白い金髪の少年がぼくを見下ろしている。
「気がつきましたね」
 薄暗い部屋だった。懐かしい暖色の明かりは、薪の燃えるこの音は、暖炉か。
 窓がガタガタと震えた。鎧戸が閉められていないのか。暗い。でも闇ではない。雪だ。雪がガラスに叩きつけている。
「吹雪だ…」
 呟いたぼくの口許にグラスが差し出された。口の中に広がる香。ワインだ。
「水は…?」
「ありますよ」
 金髪の少年は別のグラスを差し出してくれる。ぼくは一口それを飲んで喉を潤す。
 そこはぼくの見覚えのある部屋だった。イギリスの古い屋敷、ニコラスが死んだ夜も眠った部屋とベッドだ。嵐が屋敷を叩く。だがびくともしない。屋根の下は静かだけど、火の気配がある、人の気配がある。静寂の向こうに語らう声がある。
 ぼくは身体を起こした。その時、気づいていた。脚の感覚がない。金髪の少年はぼくをじっと見つめている。
「君は…ジョジョか?」
「僕もそう呼ばれる一人です」
 初めまして、ジョニィ・ジョースター。物静かな語り口で自己紹介し、少年は右手を差し出した。
「僕はジョルノ・ジョバーナ。実は日本人とのハーフです」
「へえ?」
 ぼくはその手を握り返す。柔らかな手だ。そして冷たい。植物の茎を握ったようなしなやかさがあった。
 自分を囲む景色に引き摺られていた記憶が、連続性を取り戻す。ぼくはROM構造物だった。ぼくは記憶の塊だった。ぼくはAIと融合し自我のある電脳生命体として再び蘇り…。そうだ目の前の少年をぼくは知っている。ジョースター家の記憶はぼく個人の記憶と繋がっている。だから会ったことがなくても分かる。ジョルノ・ジョバーナ。ネアポリスのギャングのボス。
「思い出したようですね」
 口元に浮かべる微笑はまるで花が咲くみたいだ。彼は立ち上がった。
「あなたのことを一番心配していた人物を連れてきます」
「ああ……。ぼくはどれくらい眠っていた?」
「ほとんど一日」
「随分アバウトだな…」
 ジョルノは肩を竦めた。この世界では時間はコンマ秒まで正確に感知することができるのに。寧ろICEの突破、危険海域の通過にはその感覚こそが大切なのに。いいや、おかしい。ぼくの感覚もおかしい。ぼんやりと目覚めて、ぼんやりと思い出して、そしてまだぼんやりしている。
 静かにドアが閉じた。ジョルノの後ろ姿が消える。ぼくはベッドから立ち上がろうとするが、できない。足が動かない。腹の奥からひやりと冷たいものが立ち上った。どうして足が動かないんだ?
 再びドアが開いてぼくは、ジャイロ、と声を上げようとした。でもそれはみるみる歪んだ。
「ジョニィさん」
 ドアから覗き込んでいるのは仗助だ。
「ジョニィでいいよ。こっちに来いよ。なんだ君か」
 舌打ちすると仗助は一瞬ムッとしたけど、それをぐっと堪える。
「なんだって何スか」
「ジャイロは?」
「…………」
 沈黙に付け入るように風雪が窓ガラスを鳴らす。仗助は、気遣ったんだろう、静かにドアを閉めてベッドの脇、さっきまでジョルノが座っていた椅子に腰かけた。
 もう分かっていた。ここがジョースター家だ。おそらくICEを突破したのだ。ぼくは気を失ってここに運ばれた。だけどジャイロの姿がない。ICEを越えられなかった? ボール・ブレイカーの力をもってしても? それに…。
「この吹雪は何だ?」
「ICEの破片ッス」
「ぼくらが壊した?」
「そ。オレらが壊したICEが暴走を始めてこの有様。触れれば0と1の砂にまで砕かれて世界中のネットに意味もなくばらまかれて終わっちまう、極悪な嵐ですよ」
「だが攻性防壁としての機能は保っている」
「外部からの侵入は一切許しちゃいません。そのかわり、こっちも外に出らんなくなったんスけどね」
「ぼくを運んでくれたのは君か?」
「承太郎さんですよ」
 仗助の顔が複雑に歪んだ。ジョータロー。空条承太郎。この島を護っていたICEと同じプラチナの名を持つスタンド、スタープラチナ。スタープラチナは時を止めることができる。ぼくの意識は途切れているが、仗助は見たんだろう。時を止め、全力でぼくらを救った承太郎の姿。仗助は承太郎の叔父にあたるが、年齢差や過去の経験から承太郎のことを慕っている。その彼が誇らしい半分、自分が不甲斐ないに違いない。
「君はどれだけ覚えている? 承太郎は? スタープラチナは目がいいんだったな」
「最後のICEを突破してすぐ、破片が猛吹雪になって襲ってきた。その時、オレにはもう見えませんでした。承太郎さんも。ただ、形の残った防壁の向こうは見えていないから…」
「外に弾き飛ばされたのかもしれないのか」
 それ以外の可能性についてぼくらは口を噤んだ。ジャイロに限ってそんなことはない。黄金の稲妻を背負ってど派手に登場した彼があっさりと退場する訳がない。まさか、なんてぼくは考えない。
「承太郎の話が聞きたい」
 スロー・ダンサー、と呼んで、しまったここは屋敷の中だった、と思い出すけど懐かしいぼくの愛馬は現れない。あれ? 屋内だからって遠慮したのかな。でもぼくの発したコマンドだ。実行されない訳がない。
「スロー・ダンサー…?」
 次に車椅子を思い描いた。だけどそれは頭の奥の記憶として再生されるだけで、いつまで経っても目の前に現れない。仗助が申し訳なさそうにこっちを見ている。ぼくはちょっと焦る。
「どうしたのかな。ここは…ジョースター家ではやり方が違うのか? コマンドの制限がされているとか」
「それが…全然分かんねえんスよ」
「分からない?」
「取り敢えず、下、行きますか? オレがおんぶしてもよけりゃあ…」
「それには及ばない」
 ぼくはタスクを出現させる。
 チュミミーンという鳴き声。こそこそと囁きかける声。ぼくは自分の左手の上に浮かぶ小さなピンク色の精霊を見る。つぶらな瞳がぼくを見つめ返す。とても可愛い。けど。
「…どういうことだ」
「だから…全然訳分かんねえんっスよ」
 仗助はぼくをおんぶしようとする。ぼくは仗助の背後を指さす。
 結局階下までぼくの身体を運んだのは仗助のスタンド、クレイジー・ダイヤモンドだった。垂れ下がる自分の足を見下ろして、ぼくはもう一度消えた相棒の名前を呼んだ。外は吹雪だ。真っ白な雪。