あの日の誕生日の続き




 眠れない。
 理由は思い浮かばない。心当たりがない。ただ眠れない。
 コーヒーを飲みすぎたとか事件解決の余韻で目が冴えてしまっているとか、何でもいい、理由が一つあればそれで納得できる。理由に納得できたら自分の内部を支配する回路も落ち着くだろう。後はベッドに横になって羊を数えればいい。羊っていうのはもう古典的なお約束だけど、まあ、何とでも、ね。城字は暗い窓に映る自分の顔に向かってウィンクをしてみせた。あらやだ魅力的、惚れちゃう。
 空腹なのだ。分かっている。心にぽっかり空いた穴を空漠が占めている。虚ろの占領下にあって他の何物でも満たされない。飢えが続く。どれだけ事件を解決しても。自分の能力を最大限に活用し知的満足と称賛、助け出された人質の少女のキス、報酬、家族の出迎え、全てを得たかのように見えても。眠れない日が続いている。カーズを見失ってからだ。
 少年時代の冒険から何度となくカーズは城字の目の前に現れた。別れはじゃあねと手を振る簡単なものから、熱い抱擁(言葉の綾ではない)火傷するような口づけ(真実死ぬまで消えないキスマークとなるところだった)を伴ったものまで幾つも経験済みだ。
 ――多分今までで一番恋しい。
 頬杖をつき、闇夜に目を凝らした。
 ――めちゃめちゃ、したい。
 精神の飢えから肉の欲に堕したかと言われても城字は否定をしない。ああ、ほうやで、めちゃめちゃセックスしたいんや。世の中に物騒な事件は溢れてて名探偵を引く手は数多。そこで華麗に事件解決。テレビとか新聞で取沙汰されるのは大昔から名探偵の宿命やし、ネットの毀誉褒貶は褒めてるとこだけもらっとこう。女の子のキスは嬉しいよ。家に帰ったらジョエコが抱きしめてくれるのもペネロペが手料理をふるまってくれるのも大満足。お返しのキスは百倍返しするくらいだ。でもここにカーズがいない。それってショートケーキに苺がのってないのと同じじゃないか!
 人は欲求不満を抱えると悪魔のような形相にもなるのだな、と考えながら城字は暗い窓から目を逸らした。眠れないのはセックスの不足だけが原因ではなかった。これは恋だと思った。結構前から、多分最初の冒険の時からカーズのことは好きだったはずなのに、何故今更こんなに胸が苦しく抉られるのか。
 ――恋やって。アラサーの恋。
 本気すぎて引く。頭を抱え溜息を吐くと、耳から飛び込んだ息の情けなさに鳥肌が立つほどだった。
 机の上の写真立てを分解する。スイス、サンモリッツの城の写真の裏には航空チケットの半券が挟まっている。流石上等な紙、今でも真っ白で、これを持てば今すぐかの街、かの城へ辿り着けそうだ。
 いいや半分では駄目なのだ。完璧なチケットが必要だ。正真正銘、本物のチケット。カーズを探し当てこの手に抱き締めるための許可証が必要だ。
 ――君は何故、僕の目の前から姿を消した?
 知りようがない。いくら名探偵と雖も宇宙の終わりと始まりを繰り返し見つめ続けた究極生命体の心など推理しようがない。理解の届かない領域だ。
 ――何故、あの湖で僕を殺してしまわなかった?
 全て気まぐれの一言でカタがつく。理解不能なものに唯一説明をつけることができるとすれば、この一言以外にない。出会いは必然。しかし別れは気まぐれ。カーズは何よりも自由だ。永遠という時間の牢獄の中で、どれだけでも自由に振る舞い、好きな世界を作り上げることができる。最後は全ての凍りつく寒さの中で滅びゆく世界。だがカーズに絶望はない。滅んだ全ても灼熱の光の中に溶け合い再び産声を上げる。もらわれっ子のジョジョのことなど、瞬きほどの時間、すれ違った子犬ほどの価値もあるだろうか。
 ――いいや、あるんやろう。
 自惚れではない。謙遜が逆に嫌味だと言うなら自惚れるくらいしなければならない。これは究極生命体の選択なのだ。旅の相棒に選んだことも、サンモリッツの新婚旅行も何もかも。
 城の写真の裏側に挟まっているのは航空チケットの半券だけではない。もう一葉の写真を城字は取り出す。
 古いホテルの床に裸のまま横たわるカーズ。それまで帽子の中に隠していた髪は抑えるものがなくたゆたう。艶やかな漆黒に城字は宇宙を見出す。いいや、その髪に包まれると実際あの冷たい匂いがするのだ。カーズの髪には宇宙で過ごした孤独の時間が詰まっている。
 写真を見つめ、湧き上がるのは劣情ではなかった。まず己の胴体の意識がなくなった。足などいつ消えただろう。腕が消え、指が消える。しかし写真は目の前にある。もう呼吸すらしていない。眼球はじっと写真を見つめている。否、意識は写真の中にある。
 城字は推理中の純粋思考よりも深く、一直線に写真の中に没入する。鮮やかなそれは記憶というよりは現実だった。カーズは裸体の上に城字の脱いだ服を載せ、にやにやと笑った。少年の城字はカーズのコートを羽織って暖炉の側に尻をついていた。
「あの仔犬、寝たかなあ」
「随分腹を空かせていた。乳で腹が膨れればすぐに眠るだろう」
「カーズ。乳って」
「違うか?」
「乳ですけど。乳て」
 城字は笑い、膝に顔を埋める。
「なあ、僕寝たくないんやけど」
「寝ろ。人間は睡眠によって疲労を解消する。脳みそが商売道具だろう名探偵」
「ほうやけど」
 君がおとなしく僕の傍らにいるかと思うと怖い。城字が正直に口にすると、究極生命体はわざと口を大きく開く。
「約束だ。今夜は喰わん」
「そーゆーことじゃなくて。朝起きたら隣にいないのとか勘弁やいう話」
「脆弱な人間の精神外傷の話か?」
「想像力の話。僕の脳はどんな可能性にも辿り着く。どんな不幸にも」
「俺に喰われる死」
「それより不幸なものがあるんだよ」
 城字は帽子で顔を隠す。ホタルガラスのピアスが暖炉の火を反射して暗く光った。
「人間は夜になると気弱になるから面倒だ」
「自分で言うなら世話はないな」
「抱いて、カーズ。僕を安心させて」
「貴様が抱けばよかろう」
 涙は目の縁から溢れ出すかわりに内側を満たす。城字は大きく息を吸い、吐き出した。限界まで膨らんだ肺を限界まで縮める。その活動で送られた酸素に心臓が大きく脈打つ。そして生きる糧を全身に送り出し始める。ぶはっ、と息を吐き城字は咽せた。生きた肉体に戻って来た。
 勃起する予感のようなものがあったが、それは煽られる熱ではなく、寧ろともすれば消えてしまいそうな蝋燭の炎のようなものだった。城字は立ち上がって服を脱いだ。下着を足で踏みつけると、福井のド田舎に建つ洋館の暗い窓に壮年のがっしりとした体躯が映る。城字は窓の向こうから睨みつける自分と視線を合わせ、そっと下に手を伸ばした。それはペニスを掴むためのものではなかった。指は太腿をなぞった。
 火傷の痕のような、瘡蓋の剥がれた痕のようなものが太腿にはある。それは城字の太腿をきっかり三周する赤い痕跡。城字は今でもはっきりとあの熱い痛みを思い出すことができた。サンモリッツの古いホテルの床で、カーズはこの内腿に歯を立てた。傷を付けられたところから流れ込むカーズの血は城字の皮膚の間で火のように燃えた。悲鳴を堪えるのに精一杯なのに、城字は勃起していた。流れ込む血が膝から太腿を三周して絡みつく蛇の姿となった時、とうとう城字は吐精した。白濁としたものがカーズの顔を汚したが、彼は満足げにそれを舐め、城字に普通の、人間らしいキスをした。
 泣きながらその唇を貪ったことを覚えている。あの晩、抱いたのは城字の方だったのに。
 蛇は日が経つ程に黒く変色し、ぼろぼろと城字の肉体から剥がれ落ちた。ささくれた鱗が落ちるように、痛みを与えながら落ちた。あの時の泣くほどの痛みと、今では爛れた痕跡さえ愛しい。
「ああ」
 城字は闇色のガラスに映った自分の姿の向こうに話しかけた。
「カーズ、君も不安だったのか?」
 たとえ醜くても痕を残さずにはいられないほど、いつか永遠の別れを味わう自分が。脆弱な、たった人間一人ぽっちの城字・ジョースターが。いつか死ぬ、たかが人間が。
 音を立ててクローゼットを開き、一番上等な服を着る。勿論だ。相応しい格好が必要だ。
 真夜中の屋敷を駆け下りる足音をジョースター家の人々はブーイングでもって迎え、更に響いたバイクの轟音にブーイングでもって見送った。城字の一番の味方ジョエコ・ジョースターでさえベッドの中から中指を立てたほどだ。しかしこれがジョースターの血。震える心も燃え尽きるほどの熱もジョースターの代名詞だ。たとえもらわれっ子であっても!
 真夜中を鉄の馬で城字は駆ける。いつかこんな夜があった。あの時は航空チケットを握っていた。今この手に掴んでいるのはバイクのハンドルバーと手の汗だけだ。しかし充分だろう。恋の証拠は弾丸のように飛び出したこの肉体。地球は丸いし大陸は一つだし、海も一つ。探しているのは、どこにいたって目立つ大男一人。そして、難しいことなんかあるか、捜索するのはこの名探偵、城字・ジョースター。
 西の山の上に、夜の闇を針で引っ掻いたような細い月が浮かんでいる。細い細い傷痕のような月。赤銅色に蝕まれたそれは、化膿した宇宙の傷痕のようだ。太腿が疼く。一発抜いてこなかったのは失敗だったろうか。いや、あそこで抜いたら眠りかねなかった。今は身体中の熱総動員で、とにかく西へ。
 ――やばい、何見てもテンション上がる。
「やっぱり世界は美しいよなあ!」
 カーズ!と夜空に叫ぶ。いつも、いつも彼の名を叫ぶことが合図。
 新たな冒険の始まり、孤独の終わりだ。