ホテル・ブラックホール




 ホテルの壁にはパルチザンの弾痕だと言われているものが残っていた。それがパルチザンの撃った痕なのか、それともパルチザンを殺した弾の痕なのか、定かではないしソルベには興味がない。ただ、その時壁は一面真っ赤だったのだろうと想像する。ジェラート好みの赤だ。石畳の道にもきっと染みただろう。
 弾痕はホテルのクリーム色の壁に黒々と穿たれている。去年の改装で壁は一面塗り直された。それ以前は漆喰が剥げかけ、消しても落ちない落書きの跡が残っていた。一九四三年、ムッソリーニを皮肉った言葉。言葉までは覚えていないが、それを見るたびニヤッとしたものだ。権力者の名前の上に弾痕。悪くない。悪くない。
 ホテルの三階にはジェラートが待っていて、鋭い視線が、遅い、と告げた。ベッドの上にはナイフが数種類並んでいる。ソルベは見たままのものを報告する。ターゲットは議員だった。あと一人の承認が必要なところで裏切ったとかどうとか。だがジェラートはそれを聞き流す。必要なのはどんな男かということだ。背は高いのか、低いのか。太った男か、痩せた男か。血の気はどうだ。煙草は吸うのか。アルコールの量は。ワインは何が好き。肉は牛か、子羊か。
 ジェラートは男を切り裂くのに相応しいナイフを一つ選ぶと、残りをサイドボードの抽斗に仕舞った。
「さてと」
 どうする? とジェラートは首を傾げた。首筋にはナイフの刃を当てている。
 仕事の前か、後か。いつもなら断然後だ。まずは仕事だ。人殺しだ。それはジェラートにとってセックスに並ぶ快楽なのだ。否、快楽として知ったのはこちらが早い。
 興奮を抑えきれないのか。
 自分が欲しいのか。
「今」
 素直に答えるのと、ジェラートの手首から指先にかけてのしなやかな動きを見るのは同時で、背後のドアにナイフが刺さるのまでは一秒とて待たなかった。
「今」
 ジェラートはすれ違いざまソルベの耳に囁いて狭い浴室に滑り込んだ。開いたドアからばさばさと服が投げて寄越された。ソルベはそれを拾って今までナイフの並べられていたベッドに置き、自分もシャツを脱いだ。シャワーの音は聞こえていた。ジェラートの鼻歌も聞こえていた。古い流行歌。それこそムッソリーニの名前が書き殴られ、その上に弾雨と血飛沫が飛んだ頃ラジオが繰り返し流していた歌。
 ジェラートは歌を一つしか知らない。この歌しか知らない。機嫌が良くて歌う訳ではない。人を殺す時にはこの歌を歌う。それが習慣なだけだ。何があったのかをソルベは知らない。知ることができない。ジェラートが話さないから。古い落書きは新しいペンキの下に塗り込められる。だが弾痕は残る。暗い、ブラックホールのような穴が。
 狭い浴室に身体をねじ込ませたがジェラートは振り向かなかった。ただソルベが自分の身体を撫でやすいように、掌で全身くまなく這い回ってコトを成しやすいように両手を挙げシャワーの首を掴んだ。まだ鼻歌は続いている。ソルベは濡れたジェラートの首筋の匂いをかぎ、血に濡れる前の匂いを記憶する。それが特別という訳ではない。神聖という訳でもない。血に濡れたジェラートはその方がジェラートらしいような気さえするのだが、違うフレーバーを楽しむのはジェラッテリアの客も殺し屋も同じだということだ。
 コトを為し、コトを起こし、再びコトに至るだろう。次はベッドだ、と思う。ジェラートが別の場所を望むのなら、それを叶えるのも吝かではない。