雪の熱海




 電車が到着した時、雪はいっそう激しくなったところでこの先電車は進まないということだった。ホームに溢れ出した人はそのままぞろぞろと駅舎へ移動し、熱気と人いきれにうんざりしながら抜け出すと、確かにハッとするような冷気が鼻の奥を刺す。熱海は雪である。
 人の話でもここまで積むのは珍しいということで窓から顔を出したタクシーの運転手が、おれの若い時分はもっと降ったようだがと言った。ガリ男は相槌を打ち、後部座席に乗り込んだ。
 街は真っ白で、知らぬ街を行くようだった。いや確かに知らぬ土地ではある。熱海へは初めて訪れた。東京を出ることさえ、あまりあることではない。だが熱海の話に聞く風景とは全く別物だった。
 車ものろのろとしか進まなかった。仕事帰りらしい数人が歩道をすれ違い、ガリ男はここでいいと停めさせた。タクシーを降りると寒さが痛いほど沁みた。ガリ男はサラリーマンを追い抜き、旅館への道を急いだ。
 宿に近い路地の、板塀沿いの側溝からは湯気が立ち昇っている。迎え出た女中に練馬の会社の名を告げると、にこやかに通された。座敷には上着を脱いだ練馬が座布団を枕に寝転がっていた。
「早かったな」
「どこがだ…」
「雪だもの。もっと遅くなるかと」
 上から覆い被さると練馬の肌のぬくもりに涙が出そうだった。慌てるなよと年上の男は笑う。
「一晩あるんだから」
 毎晩一緒にいても足りないものが一晩で埋まるとも思えなかったが、練馬にこの手で触れた瞬間から身体も心も溶け始めている。こっくり頷けば練馬は笑ってガリ男の頭を撫でる。
 出張で熱海に行くからと言った練馬が何でもないことのように一緒に来ないかと言った時、これが初めての旅行になることに驚いた。彼らの生活は東京に終始していた。月月火水木金金。敏腕営業マンは東京の街を駆けずり回っていて休んでいる暇などなかったし、このトビの男も高く高く積み上げられてゆくビルを横目に細い足場を飛び回りながら考えることと言えば晩飯の煮物の味や洗面器に入れた石鹸がちびけてしまったとかその程度のこと。旅行、だなどと考えたこともなかったのである。
 ゆっくりやろうや、と練馬は言った。
「たまにはゆっくり、差しつ差されつ…」
 湯から上がると約束通り熱燗が用意されていて、傍らには浴衣の練馬が頬杖をついていた。
「烏の行水じゃあないのよ。たっぷりぬくもったか」
 そう言って触れる手の方がぬくいのだが、ぬくもったと頷いた。
「朝からも入れる」
 練馬が囁いた。楽しみだという返事のかわりにニッと笑って腰を下ろした。
 差しつ差されつとは言えガリ男が亭主関白であることは承知の上である。練馬はそのつもりだったのだろう。ガリ男が徳利を傾けると、意表を突かれたように、そして少し照れて御猪口を差し出した。
 ぬくもった肌を存分に味わった後は寝入ってしまったが、ふと寒気がして目が覚めた。障子がほんの僅か開いていた。その細い光の中に練馬がいた。
「なにしてる…」
 ガリ男は起き出し、火鉢の火を熾す。練馬は丹前の前をかき合わせ、なあ、と呟いた。
「この雪も海の匂いがする」
 隣にひっつき、障子を半分開けた。庭は白く、植木も小山のようで、ガリ男は京都の石庭を思い出す。
「こんなに静かじゃあ、海が凍っても気づかない」
「海が凍るか」
「北は凍るさ」
「熱海だ」
 うん…と頷き、練馬が頬を擦り寄せる。
「ガリ男」
 締まった胸に額を押しつけ、ぬるい唇が胸の奥でとろりと溶けていた言葉を吐き出した。
「このままどこにも帰りたくない」
 肩を掴んで胸に抱き寄せれば、諦念の混じった笑いがだらしなく胸をくすぐった。
「このまま死のうか」
「お前が言うなら」
「嘘ばっかり」
「本当に」
 首に手をかけると、つぶらな瞳が薄明かりの中見上げた。じっと真剣な眼差しに、そっと、だが確かに手に力を込める。
 ガリ男、と糸の切れるように呼ばれ、布団の上に引き倒したのと柔い肌に歯を立てるのは同時だった。どすんと重たい音がして、歯は思うより深く首に食い込んだ。
「俺はお前となら本当に」
 練馬は千切れそうな声で繰り返し、ガリ男の首を抱き寄せる。
「お前となら本当に」
 みなまで言わせずガリ男は吐息を飲み込み、熱い唾液を流し込む。
 一晩。
 一晩、たっぷりと。
 燗冷ましで喉を潤し、もう一度だ。不意に冷たい空気が汗に濡れた背を掠めた。障子が半分開いている。海の匂い、か。ガリ男は練馬の首筋に顔を埋め、汗の匂いを胸に吸い込んだ。