五年目の雨




 雨がぼつぼつ降り出していた。練馬は片側の骨の折れた傘で道の端を歩いた。繁華街の明かりが顔の半分を照らした。どこへだって行くがいい。練馬はそう決めていた。知ったことか、同居人も、そして自分のことも、だ。
 ガリ男の傲慢さは今に始まったことではなく、またそれも小料理屋のおかみのようなそれではなくて寧ろ男らしさと呼べるものであり、女房は半歩下がって黙って俺についてこい、それも結構だろう。練馬はそういうガリ男を好いているのだ。ハム爺と呼ばれている爺さんも言っていた。乃公先んずばの気概なくして何が男だよ。最近は腑抜けが増えやがってよ、情けねぇ。玉ぁついてんのか。気炎を吐くのに、魔羅が小さいんだろうと応えてやると爺さんはにやりと笑ったっけか。ガリ男も同僚の堀田も千代助もぽかんとしてこちらを見ていた。爺さんのお気に入りの若造は顔を赤くしてズボンの上から自分の魔羅を握りしめていた。そんな顔するなよ、と練馬は思い出し笑いをし、それをすぐに消した。
 お前が玉ナシでないことは知ってるさ。
 ついでに魔羅も銭湯でじっくり拝んだ。いいものを持っているのだ使わぬ手はあるまいに。花も枝につきつづければ萎れ、実は熟れすぎれば腐る。何事にも機はある。俺がお前の稼ぎを超えるまで。そうガリ男が言ったのは昨夜で五度目だった。それもまた機だろうと練馬は思った。
 稼ぎが練馬を超えるまで、ガリ男は指一本触れぬと誓いを立て、練馬はそれも若さらしくていいと思っていたから最初は頷いたし、その若さこそ誓いを破らせるものだろうと踏んでいたのだが、どうしてガリ男は今までそれを守り通したのである。頑固なのだ。男らしさもある。意地もある。練馬が女房だと決めてかかっているから――無論、練馬もその気ではあるのだけれど――その後ろを取るのはプライドが許さんということだ。分かる。そういうところに惚れてもいる。だがそれまで自分がおとなしく待つと思い込んでいるところは、見くびってくれるな、と練馬は唇を歪める。俺はお前の女だが、女じゃあない。俺にも魔羅はある。お前の夢のような言葉も亭主関白も受け入れてやる。俺はお前より年上だ。それが年配者の寛容というものだ。だが馬鹿にしてくれるんじゃあないぜ。俺は黙って待つ女じゃない。
 雨が強くなり肩が濡れた。「まぼろし」の明かりを無意識に探す自分に舌打ちをする。今日は電車にも乗らなかったのだ。違う町の違う歓楽街を歩いているのだ。ガリ男と出会う前、いや出会ってからもたびたび誘われることはあった。その手の男から好かれるタイプ。そこそこにもてる自負もある。誘いを断り、それでも笑顔で家に戻ったのはガリ男がいたからだった。だからどうした。俺は家を出たぞ。次に誘われたら断らない。酒だって、一晩だって。
 だが歓楽街も外れまで来ていて、見上げれば横町の名前を書いた看板が並んだ電球に照らされている。練馬は通りを振り返り、それから溜息をついた。頭上を、やかましい音を立てて電車が通り過ぎた。掻き消された雨音がじんわりと蘇った時、練馬の肩はもうかなり濡れていた。
 元来た道を戻る気もしない。構うか。通り過ぎた店も男も構うものか。次の路地がある。次の飲み屋があって別の新しい男がいるだろう。そいつでいい。誰だっていい…。
「誰だって、かよ」
 練馬は吐き捨てた。いつから俺はそんな安い男になった。背を伸ばし大きく息を吐いて首を巡らせた。大通りに出よう。会社に戻れば誰か残っているだろう。一晩くらい眠る場所もある。それから明日、新しい部屋を探す。賑やかなところがいい。まあ贅沢は言わない。新しい場所だ。新しい部屋だ。俺はあの部屋を出たんだから。
 線路沿いを、時々街灯に照らされ歩いた。雨の向こうがぼんやり明るいのに、駅もそろそろだなと思った。そうだ電車に乗ってどこかに行ってみようか。雨の冷たさはもう肌まで染みていた。自分が些か投げ遣りになっていることから練馬は意識を逸らそうとした。
 どうしてお前と別れなくちゃあいけないんだ。次に沸いてきたのは怒りで、ふつふつとそれは濡れた肩の冷たささえ忘れさせるように練馬の身を滾らせた。俺は五年待った。楽しい五年だったぜ。がらがら働いて、くたくたになって帰って来たお前と不味い煮物を食って、銭湯に肩並べて通ったのだ。雨の日も雪の日もだ。俺は楽しかった。手出ししないお前がもどかしかったが、そのいつかを待つと楽しみで楽しみでしかたなかった。その五年の精算がこれなのか。
 駅を目の前に練馬は佇んだ。まだ電車は残っている。どっちに行ってもいい。構わないとは自分が言った。だが駅舎の明かりに入ることもできず雨の中棒立ちになる練馬はまるで途方に暮れていた。ここで安い切符を買えば、それが最後だ。この五年との、ガリ男との別れだ。
 強烈なヘッドライトが背後から射し、練馬の影が駅舎の壁に差した。練馬は飛び跳ねて脇へ避けた。足が泥水の中に突っ込んだ。タクシーが燃えるようにエンジンを唸らせ、あわや駅舎に突っ込みそうになりながら止まった。
「練馬!」
 まさかそこで叫ばれるのが自分の名前とは思わなかったし、タクシーから飛び出してきたのがガリ男であるとは夢にも思わなかった。稼ぎも、及ばずながら微々たる蓄えにまわすガリ男が、いや車なんぞ、てめえで走った方が早いと自分の身体を自慢したガリ男がだ。ああ、と練馬は傘を手放した。お前のことはいくらだって俺は知っていたはずなのに。
 胸に飛び込み濡れた手を滑らせながら縋りつくと細いががっしりした腕がきつく抱いた。
「馬鹿…!」
 ガリ男が胸を喘がせながら吐き出した。
「捜した…」
 捜して、この東京をタクシーで駆けずり回ったのか。大粒の雨であっという間にずぶ濡れになったガリ男は恐ろしい顔で練馬を見下ろしていた。あるいはガリ男こそ恐怖に胸が裂かれる思いだったのかもしれない。練馬は腕を伸ばし、指の関節が笑うのを、それでも力を込めてぎゅっと首を抱いた。
「なあ、俺は…」
 言葉はどれも喉から出る前にしゅんと消失した。頭からも消えた。何を言えばいいのか、どれもこれも言葉が消えて、最後に残ったものだけが言うべきものだった。
「抱いて…」
 雨を飲み込み、引き攣りそうな心も身体も全てその一言に込めた。
「俺を抱いてくれ、もう…」
 ぐっと身体が押されて足がばしゃばしゃと泥水を跳ね上げる。背中が閉じたシャッターにぶつかり、吐いた息はガリ男に飲み込まれた。
 口づけさえ…。熱のままに男を引き寄せ、そういえばまだタクシーのエンジンの唸っているのや駅に人の残っているのやを忘れ、多分練馬は泣いていた。雨のせいで自分が本当に泣いているのかも分からなかったが頬も耳も目元も、いや顔と言わず身体中のどこもかしこも熱く、たまらなかった。
 ようやく目を開けると軒から滝のように落ちる雨水がガリ男の頭を打っていた。遅いという文句も消えた。また家に帰ろうというのもこうなっては待ちきれずもどかしい。だがまあ大きな通りだ。路地を一本入れば。練馬はガリ男の頭を抱き寄せ、今度は優しく口づけて促した。
 濡れた札を受け取ったタクシーが走り去り、雨の中、傘も捨てては人影など目立たない。二人はそっと路地の暗がりに消え、宿屋の白い看板の前でふっと一瞬その姿を見せたもののすぐに引き戸の向こうに消えた。ずぶ濡れの客を迎えて引き戸の向こうではちょっと騒がしくタオルやら新聞紙やらを呼ぶ声が聞こえたが、それが収まればまた元のとおり宿屋だった。奥の部屋の明かりがついて、すぐ消えた。
 雨は激しく一晩中降り続き、翌朝もしとしと東京の街を濡らす。